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単なる食料支援を超えた「役所ではない相談窓口」
Vネットのフードバンクは単に食品を配るだけでなく、社会福祉士も相談員として関わっているのが大きな特徴である。
食品を求める人の背景には、単なる食糧不足(お金がない)だけでなく、病気、障害、アルコール依存、家庭環境などの複雑な生活課題が潜んでいる。そのため相談員が個々のケースを分析し、自立に向けたアドバイスや他機関への橋渡しを行うケースワーク(個別相談支援)をやっている。フードバンクは食品流通の機能重視だが、ここはフードパントリー(個人への直接支援)の機能を重視している。
事例:20年前の借金18万円が120万円に
番組では小澤さんが最近携わった具体的な支援事例を紹介した。
55歳男性は糖尿病を患いながら生活保護を受けていたが、公共料金の滞納により電気やガスが止まるほど困窮していた。さらに1998年頃に消費者金融から借りた約18万円が利息によってなんと120万円以上に膨れ上がり裁判所に提訴されたという。
小澤さんは法テラス(日本司法支援センター)の予約が数か月先まで埋まっていて無料の弁護士相談ができないことが分かると、知りあいの弁護士へ相談をつないだ。結果、「時効である」と認められ、借金問題は無事に解決。こうしたスピード感をもった他機関との連携こそがVネットのフードバンク相談窓口が果たす重要な役割と言える。
■「物価高がきつい。なんとか暮らしてきた人が、ますます辛くなった」
そして最近の傾向として小澤さんが挙げたのが、物価高が年金生活者の暮らしを直撃していることだ。特に国民年金のみ(月額約7万円)で生活している人は、生活保護基準(7.1万円、家賃込みで11万円)よりも受給額が低い場合があり、公共料金を支払うと食費が残らないこともあるという。また、製造業が多い栃木県特有の課題として、派遣労働者が仕事を失うと、同時に社宅(アパート)を追われホームレス化してしまうと教えてくれた。
■広がれ「相談支援つきフードバンク」
小澤さんは、こうした「がけっぷち」に立つ人を一人でも多く救うために、全国に相談機能を備えたフードバンクが広がることを願っている。
食品の寄付は、宇都宮市内のスーパーや市役所、ファミリーマートなどに設置された「絆ボックス」や、Vネットへの直接でも可。ただし、賞味期限が1か月以上残っているものだ(米、缶詰、レトルトカレーなど)。条件が色々あって提供できる食品の数・種類の限界を実感した。フードロスの削減と、食べ物に困る人の両者が得をするもっと良い仕組みはないものかと感じた。(ラジオ学生:加藤)
3月3日の「みんながけっぷちラジオ」では、ツバメソリューション㈱の石川慎太郎さんをゲストに迎え、「とちぎコミュニティ基金と石川さん物語」をテーマにお話を伺った。
「熱い思いを、わかりやすく」NPOの広告代理店
石川さんがやっているツバメソリューションは、地域をより良くするための活動やNPOの情報発信支援、つまり非営利分野に強い広告代理店業を行っている。ホームページやチラシ、ロゴマークの作成、寄付WEBサイトの構築などである。
実はとちぎコミュニティ基金(以下、とちコミ)のロゴマークも石川さんの作品だ。寄付者を集めるためには、とちコミが積極的に情報発信し活動をPRしていく必要があると考え、ホームページ等一式全部作ったという。
NPOとの仕事で難しいのは、情報発信の「内容」を決めることだと言う。代表者の熱い思いが語られるが、それを一般の人にも伝わるように表現することに苦労する。そのため、団体のビジョンやミッションを、わかりやすく伝えることを常に心がけている。
栃木のスーパーマンとの出会いで「人生が変わってしまった…!」
石川さんがとちぎVネット(とちコミ)に関わるきっかけは、2011年の東日本大震災。栃木県内から被災地で支援活動を行うVネットに、ボランティアするために来て矢野さんと出会った。当時は技術的・金銭的な問題から、NPO法人がホームページを開設することは難しく、その活動を社会に広く知らせることも容易ではなかった。
そこで石川さんは、県内各地のNPOに取材して記事を書き、それをホームページで発信していく仕組みを提案した。この取材活動が石川さんの人生を大きく変えることになる。
取材を通して出会ったNPO関係者。その「困っている人がいたら何が何でも助けようとする姿」が、着の身着のままで人助けに向かうスーパーマンと重なって見えたという。実際に、感動して涙を流しながら話を聞いたこともあった。「自分はスーパーマンにはなれないけれど、陰で支えることはできる」。そう考えた石川さんは、とちコミの活動に関わりながら、ツバメソリューションを立ち上げた。
うつ病を経験。人のセーフティーネットに支えられる
とちコミでの活動や仕事の経験を積むなかで、石川さんはNPOのファンドレイジング(寄付集め)に興味を持つようになった。そこで、そのスキルを身につけるため東京の団体に就職した。
だが、その仕事は自分には合わなかった。それでも一年間努力して続けたがウツ状態になり、最終的には朝起きることもできず、トイレにも行けない、電車にも乗れない状態にまで追い込まれた。景色さえ灰色に見えるほどだったという。病院では「うつ病になりかけているため療養が必要だ」と診断され、泣きながら実家に戻った。
一方で、このつらい経験を通して、人のセーフティネットに支えられる当事者としての実感も得た。県内のNPO関係者からは「うちに来て、リハビリがてら手伝ってくれないか」と声をかけられ、手伝いを続けるうちに少しずつ回復していった。そして、「人に頼られることが元気につながる」と感じたという。
《編集後記》
とちコミやVネットのロゴを作成したのが石川さんだと知り、とても感動した。マークの意味を知ることで、さらに愛着が湧いた。また私も、「みんながけっぷちラジオ」に登場するゲストの方々は、まるでスーパーマンのようだと感じている。私自身はスーパーマンのようにはなれないかもしれないが、ラジオを通して、その活動や思いをより多くの人に伝えていきたいと思う。(野田小百合)
2025年8月28日放送の「次世代に伝える。原発避難15年目ラジオ」のゲストは、原発事故避難者の内田啓子さん。福島での経験や原子力利用に対する考え方、原発事故との向き合い方などを伺った。
栃木県出身の内田さんは、人生のほとんどを関東圏内で生活してきた。しかし、当時4歳と1歳半の子どもの子育てに良い環境を考え、2010年11月に福島県田村市の旧都路村(現都路町)にIターンをした。自然豊かで、優しい地域住民にも恵まれていたと内田さんは懐かしそうに、嬉しそうに語った。
2011年3月11日、東日本大震災、原発事故が発生。旧都路村は原発から30km圏内だったため、避難指示が発令された。移住からわずか4か月後だった。
「なぜ原発事故で私の暮らしは奪われたのか?」という疑問
3月12日、内田さんは旧都路村での「夢のようなくらし」を離れて、家族と内田さんの実家がある栃木県に避難した。その後福島に戻って仮設住宅に入居するか、また別の場所でIターンをするか迷ったものの、益子町に住むことにした。しばらくして子どもたちは幼稚園へ入園、夫も新しい仕事を見つけた。忙しさが薄れてくると、内田さんはふと「なぜ福島に東京電力の原発があるんだろう?」と疑問に思った。
同時に、長崎や広島に莫大な被害を生んだ原子爆弾と同じものが電力として使われていることへの疑問もあり、納得できる答えを探そうと本を読み始めた。
当時の内田さんには難しかったが、それでも手に取れる範囲で本を読み続けた。しかし自分の疑問に対して納得できる答えはどこにもなかった。「なぜ私がこんな目に」と怒りが湧いてきた。
だが調べていくうちにわかったことがある。それは、原発事故ではなくても日本や世界には公害や戦争で力が弱い人々が被害に遭っているという社会の実態だった。
原子力利用は続けてよいのか、原発は再稼働すべきか
「原子力利用は産業として成立する」という意見もあることは承知だが、使用済み核燃料や放射性廃棄物の最終的な処分方法や場所も決められていないことを内田さんは懸念している。内田さんは茨城県水戸市と隣接し、再稼働に向かっている東海第二原発についても触れた。「30km圏内には100万人も住んでいる。もし原発事故が発生したら、100万人はどう避難するのか」「電気はすごく必要だけど、原発がある地域の人たちだけにリスクを押し付けていいのか」「コンセントの向こう側にどのようなことが起きているのか、思いを馳せることも必要」と話す。
栃木県は、銅の採掘により渡良瀬川流域に被害が及んだ足尾銅山鉱毒事件で公害に苦しめられた過去がある。経済活動が被害を及ぼすという点では福島県と栃木県で共通しているが、「簡単に原発事故の避難者と同じ気持ちになれるわけではない」と内田さんは語る。避難者の状況や気持ちを理解し寄り添うことの困難さを感じる。
人々に残り続ける原発事故。「しんどさ比べ」ではなく、共にねぎらい、考える
「多分福島には戻らない」と内田さんは話す。しかし、福島での生活を「人生の中で、静かで平和で美しい時間を持てたことはすごくよかった」と涙ながらに振り返った。
福島で生活していたときの家は未だに残っているが、福島には親戚や友人もほとんどいないこと、子どもも大きくなったことが「福島に戻らない」決断の理由だが、内田さんは割り切れない。「簡単に原発事故を消化せず、複雑さを抱えて悩みながら生きていくのが私の正解」「帰れるか帰れないかという2択では無くなっている」とも語っており、原発事故発生から15年経った今もこれからも、原発事故は内田さんの人生に残り続ける。
内田さんは「被災者間で抱えている苦しみやその深さはそれぞれ違う」という。また「どちらがしんどいか、しんどさ比べに目が行きがちだけど、そうじゃない。避難指示が出たから出てないから、ではなく『みんな本当に大変だった』『辛かったよね』とそれだけでいい」という。苦しみを比べずにお互いにねぎらい合う重要性を感じている。
内田さんは「暗くて辛いことでも大人の責任として携わっていかなければならない」とも語る。それは不安や恐怖を生みだし生活を脅かす。経済的にも精神的にも余裕がない現代人。自分のことで精一杯だ。それでも内田さんは「自分が潰れない程度に手を離さないで」と、自分を保ち、時に休みながらも原発事故をはじめとした社会問題を考え続けていく姿勢を見せた。
編集後記
大学の授業やラジオインターンを通して、原発避難について学ぶ機会は数多くあった。他にも様々な社会問題や政治、国際情勢など、幅広い事象に触れた。しかし大学の外、ラジオインターンの外に出てみると私の不安や心配をよそに、何も危機が起こっていないように世の中は平和な顔をして動いている。暗黙の了解で、政治や社会問題の話は未だにタブー視される。いつ自分が、がけっぷちに立つか分からないのに。ずっと自分に権利があり、平和でいられる保証は一切ない。だから私は、誰かと気軽に政治や社会問題を話したい。一人で抱えきれない不安や心配を共有したい。論争をしたいわけでも、不安を煽りたいわけでもない。政治や社会問題を話すことは、私たちの生活を話すことだ。
これからもおいしいごはんを食べて、お風呂に浸かり、ゆっくり寝たい。映画やYouTubeを見て、一人で旅行に行きたい。大切な人たちと幸せに過ごしたい。そのために、私はこれからも内田さんのように自分が潰れない程度に知り、学び、話す。ラジオ学生最後の回だったが、ラジオインターンで培った好奇心と学び続ける姿勢はそのままに、またいつかラジオに出れたら嬉しい。(ラジオ学生 立花ひまる)
放送されたラジオはYoutubeにアップされます!今回のアーカイブはこちら⇩
https://youtu.be/Qm_UwbQ8Em4?si=ZlCr-FQUHNMpVJaT
「医学モデル」から「社会モデル」へ
1月13日の「みんな崖っぷちラジオ」は、自立生活センターとちぎ(CIL) 理事長の齋藤康雄さんをゲストに迎えた。
齋藤さんは17歳の時にプールの飛び込み事故で頸椎を損傷した。首から下の感覚がなくなり、握る、立つといった動作が困難な重度の身体障害がある。現在は電動車いすで生活し、NPO法人自立生活センターとちぎ(CIL)の代表として活動している。
齋藤さんは事故直後のリハビリ生活と現在の心境に大きな変化があるという。事故当初は、本人がリハビリに励んで「健常者に近づくこと」を目標とする「医学モデル」の考え方で生活していた。しかし、回復の限界に直面し今後の生活に不安を抱くようになる。その後、アメリカ発祥の自立生活運動(Indipendent Living)を通じて「社会モデル」という考え方に出会う。これは「本人を変えるのではなく、社会の側にあるバリア(階段をスロープにするなど)を解消することで、障害をなくしていく」という思想である。この考え方を知ることで、齋藤さんは「ありのままの自分で良いのだ」と思えるようになったという。
24時間の介助体制と「職場介助」の実現
齋藤さんが代表を務める自立生活センターとちぎ(CIL)では、障害者が地域で自分らしく暮らすための支援を行っている。1990年代、宇都宮の公的なヘルパー制度は週2回、2時間の利用に限られていた。当事者たちは「自分たちが地域で暮らすには24時間の介助が必要だ」と声を上げ、行政と交渉を重ねて現在の重度訪問介護制度を作り上げた。また、通常のヘルパー制度は障害当事者の経済活動(仕事)には利用できないが、宇都宮市など一部の自治体では「職場介助」が認められている。齋藤さんはこの制度を利用し、ヘルパーのサポートを受けながら代表としての業務をこなしている。
「CIL代表・ヘルパー研修担当・ヘルパー利用者」―3つの役割を一人で担う
齋藤さんが代表を務める「自立生活センター(CIL)」は単なる福祉施設ではなく「障害者による、障害者のための法人=事業所」である。自立生活センターのルーツは1970年代にアメリカで始まった「自立生活運動」にある。それまでの福祉は「施設で保護されること」が一般的だったが、この運動では「重い障害があっても、介助を得ながら地域の中で自分らしく暮らす」ことを提唱した。現在、この意思を継ぐセンターは日本全国に広がっている。
自立生活センターの最大の特徴は、運営の主体が障害当事者自身である点だ。齋藤さんはCILの代表であると同時に、CILのヘルパーの利用者でもあるのだ。さらに、CILではヘルパーの育成も当事者が主導する。 一般的に、介助の研修は専門家が行うものだ。しかし、CILでは当事者が自身のケアについてOTJ形式でヘルパーを教育する。障害者がヘルパーや事業所に甘える(お任せ)のではなく、当事者が主体性を持ってヘルパーとの関係性を築く。この対等な関係が、自立生活を支える根幹だという。
また、齋藤さんのCILとちぎは福祉事業所(就労支援B型)も運営していて、ユニークな商品開発も行っている。宇都宮駅の駅ビル内にある店舗等で「餃子キャンドル」や「いちごキャンドル」を販売している。これらは栃木県デザイン大賞も受賞しており、齋藤さん自身が自宅で新作のアイデアを考えているという。
まずは「出会うこと」から
最後に、齋藤さんは社会に対して「障害者をもっと身近に感じてほしい」と語った。「(健常者が)障害者と出会う機会が少ないため、どう接していいか戸惑うことが多い。外出先で出会った時は、ヘルパーではなく、ぜひ本人に直接声をかけてほしい」という。障害者が特別視されるのではなく、一人の人間として地域に溶け込み、対等に関わり合える社会を目指す齋藤さんの活動には、そのような願いが込められている。
私はCILや重度訪問介護の制度を初めて知った。特にCILのしくみは斬新で、本当の意味での「自立」が何であるかが考え抜かれていると感じた。制度は最大限利用し(不足があれば政策提言し)、自分のヘルパーは自分で育てるという姿勢が強く印象に残った。(ラジオ学生:加藤)
◾️NPO法人自立生活センターとちぎHP:https://www.ciltochigi.org/
◾️もう一度聴きたい方はこちら↓
https://www.youtube.com/watch?v=8dMjPjE1wmY
10月21日のみんな崖っぷちラジオでは、うじいえ自然に親しむ会と、NPO法人水辺環境保全研究所の代表である高橋伸拓さんをゲストに迎えた。高橋さんは、絶滅危惧種に指定されているシルビアシジミというチョウの保全活動に取り組んでいる。シルビアシジミは、幼虫期に食草とする河原に生えるミヤコグサが減少したことで、生息環境が大きく失われてきた。高橋さんで二代目の会長となる同会は、新たにNPO法人として活動を継続・発展させようとしている。今回は、その経緯や法人化によって見えてきた今後の展望について話を聞いた。
「自然共生サイト」。民有地で、生物の生存環境を確保する取り組み
今回は環境ラジオ放送回として、環境団体の活動紹介に加えて、環境保全分野全体の課題についても話をした。環境省が掲げる「30by30」とは、2030年までに陸と海の30%を保全することを目標としたSDGsの取り組みである。そのために国立公園などの公的な保護地域に加えて、民間の土地であっても生物多様性が守られている場所を「自然共生サイト」として認定する制度が進められている。目標達成まで残り5年を切る中で、これからどのような行動が求められているのか…。私自身初めて知ったことだったので、非常に考えさせられる内容であった。
冒頭で紹介したように、うじいえ自然に親しむ会は、2025年3月31日に新たにNPO法人 水辺環境保全研究所として法人格を取得した。団体名から特定の地名が外れたことで、地域を限定せず、より広い範囲での活動や連携が可能になった。会員が大きく減ることなく活動が継続でき、法人化のデメリットはほぼ無かったという。
「自然の中に身を置くと、昔を思い出す」。幼少期に自然の経験を。
保全活動の雰囲気についてもお聞きした。毎週やっているボランティア活動ではみんなで集まって、わいわいと楽しく活動する空気を大切にしている。若い人たちが友達を誘って参加し、中高生のユースボランティアが群を抜いて多い。また、活動はその場に集まった人のつながりを生むという。とかく環境団体は専門家が多く硬くなりがちだが、ボランティアを受け入れの工夫が活動の継続につながっていると感じた。
高橋さんは生まれも育ちもシルビアシジミの発見地である鬼怒川河川近くだ。再び地元に戻ってきたときに昔の河川敷と比べて外来種が多くなっている姿を見て、「自分がやらなければならない」という思いになったという。自然の中に身を置くことで、昔の記憶を思い出す。だからこそ、子どものうちに自然に触れる経験をしてほしいと語っていた。
今回の放送を通して、環境保全は制度や目標だけで進むものではなく、地域での継続的な活動と、人と人との関係性の中で支えられていることを実感した。(ラジオ学生 井本涼菜)
2月24日の「次世代に伝える。原発避難15年目ラジオ」では、福島県浪江町出身で現在東北福祉大学4年の長沼朱音さんをゲストに迎え、「大学生の語り部活動」をテーマにお話を伺った。
小学1年生からの避難生活
地震発生当時、長沼さんは請戸小学校に通う小学1年生だった。海から300mの請戸小学校は高さ15m以上の津波に襲われたが、生徒・教職員が1人も亡くなることなく避難できたことで知られている。長沼さんは1年生だったのですでに下校しており、家族とともに高台に避難した。しかし翌日から原発事故により避難の日々が続く。新潟県、会津若松市、福島市へと避難生活を送ることになる。
当時の請戸小学校は1学年1クラスほどの小規模校で、互いの家族のことまで知っているような親密な関係が築かれていた。そうした環境を失い、友人と離れ離れになることへの不安や悲しみは、計り知れないものだった。
「福島の経験」を伝える人は少ない
避難の経験を語り始めたのは、大学生になってからだった。高校生までは、自身の体験を話す必要性を感じていなかったという。しかし、震災時に多くの人に支えられた経験から「今度は自分が誰かのために動きたい」と考えるようになり、ボランティア活動に関心を持った。そんな中で、大学が語り部を募集していることを知り、参加を決めた。
東北福祉大学のある宮城県も、東日本大震災で大きな被害を受けた地域である。そのため宮城での体験を語る人は多い一方、福島での経験を伝える人は少なかった。そうした中で、「自分の経験を伝えてみよう」と思ったという。
「怖い、寂しい」。リアルな感情を伝える意義と難しさ
実際に経験した人だからこそ伝えられることがある。小学1年生だった長沼さんが感じた「怖い」「寂しい」といった率直な感情は、聞き手に強いリアリティを与え、震災について考えるきっかけになる。
一方で、震災や避難を経験していない人にその実感を伝えることは容易ではない。特に現在の小中高生の中には、東日本大震災そのものをよく知らない人も多い。
語り部として活動する際には、「自分の話が震災のすべてではない」と伝えることを大切にしているという。自分以上につらい経験をした人、より大きな悲しみを抱えた人がいることにも目を向けてもらえるよう、意識して語っている。
震災を語り継ぐということ
長沼さんは卒業後、小学校教員になる。語り部として話す機会は減るが今後は教育の現場で震災の経験を伝えていきたいという。
自分の話を聞いた子どもたちが、さらに友達へと語り継いでいく―そうした広がりを期待しているという。東日本大震災を直接知る人は今後ますます減っていく。だからこそ一人ひとりが身近なところから発信していくことの重要性がある。
《編集後記》
私は地震発生当時、屋外にいた。自宅のマンションが大きくしなっていた光景を、今でも覚えている。長沼さんが小学生で経験した恐怖や悲しみを思うと、胸が締め付けられるようだった。
同年代でありながら、自らのつらい経験を語り、誰かに伝えようとする姿に強く心を動かされた。今回の放送を通して、私自身もラジオ学生としての活動により一層力を入れていきたいと感じた。
2月10日のみんながけっぷちラジオは、「NPO・市民に聞く戦争と平和ラジオ」。毎年この時期は沖縄の谷山博史さんから沖縄のリアルな軍事化の状況と、市民による〝非戦〟平和活動を話してもらう(今年は2・3・4月の第2火曜日)。谷山さんは、NGO「日本国際ボランティアセンター(JVC)」のスタッフとして、アフガニスタンやタイ、カンボジアで活動した経験をもつ。現在は沖縄県で基地問題や台湾有事に関して取り組む。「沖縄対話プロジェクト」では、台湾有事を起こさせないために、台湾、大陸(中国)の人々を沖縄に呼び対話の機会を作っている。第一回目となる今回は、最近の辺野古基地の建設問題を聞いた。
■日本の米軍基地の7割が沖縄。日本が作ってあげている新・米軍基地
米国の世界戦略の重要な拠点となる米軍基地。日本にある米軍基地の約70%が沖縄にあるという。これまでも、米兵によるレイプ事件や土地収奪、犯罪、騒音など様々な問題が起きてきた。もし戦争が始まれば、基地がある場所が一番初めに攻撃される。沖縄に住む人々は常にその不安にさらされているのだ。
その中でも、辺野古基地は他の基地問題と同じく括ることができない。多くの沖縄の米軍基地は米政府のもとで作られてきた。しかし辺野古基地は、日本政府が主導して作られているのである。2023年には、建設を拒む県に代わって、国が新たな区域の埋め立て設計変更を代執行(※注)した。新基地建設反対を表明した県知事が3代にわたって当選し続けていても、県民の意思は無視され、国が建設を強行している。政府の沖縄県に対する姿勢に問題があることは言うまでもない。
※公有水面の埋立の許認可は県知事にあるが、知事が軟弱地盤等の理由で承認しないことに代わり、国(防衛庁沖縄防衛局)が建設の承認を代行した(代執行)。これは、国が県を行政不服審査で訴えるという前代未聞の方法で行った。
■そもそも基地を作って大丈夫なの? 基地建設の実現可能性を巡る問題
1995年の米兵少女レイプ事件を契機に市街地で危険な普天間基地移設を日米政府が約束した。だが、県外(国外)ではなく沖縄県内の辺野古に新基地を作ることになったのが辺野古「新」基地問題の発端だ。
辺野古新基地建設のための大浦湾の埋め立ては2024年1月から始まり、翌年からは海底に杭を打つ作業が始まった。大浦湾の地盤はマヨネーズ状の「軟弱地盤」で、埋め立てて構造物をつくるにはゆるい地盤だった。砂杭(すなぐい)のための砂は沖縄の北部沿岸から削り取られ使われており、打たれる杭は7万1千本にものぼる。問題はそれだけでない。軟弱地盤の深さは当初70mと公表されていたにも拘わらず、実際には海面下90メートルだったのだ(水深は20m)。海面下90mまで杭を打つ工事は世界でも前例がなく、実現可能性には疑問が残る。工費も当初の2.7倍の9300億円かかる。
さらに、ラジオでは自衛隊基地の南西シフトにより、与那国島、石垣島、宮古島などの先島諸島がミサイル基地化している現状にも触れた(詳細は3月10日のラジオで)。
[ラジオ後記] 沖縄の基地の話は、なんだか自分が住む地域とはあまり関係のないように思えてしまう。それは、私の近くに基地がなく基地問題の実感がもてないこと、沖縄県内とそれ以外の地域で報道される基地問題の情報量に差があることなどがある。しかし1つ言えることは、沖縄で起きていることは、沖縄県外の人にも決して無縁ではないことだ。インタビューやラジオ放送の時にも話題に出たが、原発事故や原発再稼働の国の政策と共通する部分がある。解決すべきことを後回しにして政策実行に向かう国の姿勢の基本は、「民意の無視」と「地方軽視」、「徹底したゴリ押し」である。沖縄の今を知ることは、国の国民に対する姿勢を知ることにも直結すると思った。(ラジオ学生とま)
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エコハウスとVネットと増田さんの深い関係
1月6日の「みんながけっぷちラジオ」では、エコハウスたかねざわの増田茂さんをゲストに迎え、「とちぎボランティアネットワークとたすけっとさん」というテーマでお話を伺った。高根沢町の環境学習館「エコハウスたかねざわ」は、NPOが施設を管理・運営をし、子どもへの環境学習のほか、リユースショップの運営や資源回収などの活動を行ってきた。その活動もまもなく(2026年3月)引退する予定だという。今回は増田さんの活動ととちぎボランティアネットワーク(以下、Vネット)との関わりを中心に、これまでの歩みを振り返った。
エコハウスたかねざわは2003年にスタートした。高根沢町からの委託を受け、Vネットが運営を担った。当時、Vネットの理事だった増田さんがエコハウス担当理事として立ち上げした。最初の3年間は委託運営、その後5年間は指定管理者として運営し、計8年間はVネットが運営していた。当初は、計画書や報告書の作成、予算設定に不慣れだったため、Vネット事務局長の矢野さんに助けてもらったという。
原点は、那須水害。よそ者も、お金も、みんな連れて来た
増田さんの活動の原点は1998年8月29日に起きた那須水害。那須町に住んでいる増田さんは、発生当日、「何かできることはないか」と思い、近くの社会福祉協議会で待機していた。すると、自衛隊の食料支援車両が駐車場に入ってきた。裸足で汚れた服を着て、鍋を持った女性が続いて入ってきたという。増田さんはすぐに家に戻って靴を取りその女性に渡した。その光景は今も頭から離れないという。
翌日、矢野さんと阪神淡路大震災のボランティア関係者(震災がつなぐ全国ネットワーク)が那須町に入り、午後から社協で会議。「ここに災害専用のボランティアセンターを立ち上げよう」と決め、場所、資金、資材、組織、人集めなど準備を開始。地元住民かつ地元ボランティア代表で増田さんが事務局長となった。9/1「那須町水害ボランティアセンター」がスタートし、これが日本初の災害ボランティアとなった。1カ月で5500人のボランティアが450件の被災家屋の片付けをした。これがVネットとの活動の始まりで、その5年後エコハウスの立ち上げを行うことになる。
Vネットに救われた命
2010年頃、エコハウスの活動に没頭するあまり、持病の糖尿病を放置していた増田さん。ある日の会員総会で、当時の理事長が突然「緊急で審議したいことがある。増田を入院させる決議を取りたい」と提案した。審議の結果、満場一致で入院が決まった。検査の結果、それまで二型糖尿病(生活習慣病)だと思っていたものが、実は一型糖尿病であることが判明した。もしあのとき入院していなければ、失明や透析に至っていた可能性もあったという。Vネットは団体の活動を支えるだけでなく、「人」を守るネットワークでもある。増田さんは、Vネットの人たちの優しさに救われたと語り、深い感謝の思いを述べていた。
矢野さんのマジックワード「いいね!」「やろうよ!」「すごいね!」に背中を押されて
那須水害の支援のためにボランティアセンターで活動していたとき、「こういうことをやりたい」と話すと、矢野さんは必ず「いいね!」「やろうよ!」と言ってくれたという。少しでも行動すると「すごいね!」と褒めてくれた。この三つの言葉が、魔法のように増田さんの背中を押してきた。
Vネットがあるからこそ、安心してさまざまなことに挑戦できる。困ったときには相談でき自信もついてくる。そんな場所であることがVネットの大きな長所なのだ。
《編集後記》
Vネットのよさを改めて振り返り、再発見できたとても温かい放送となった。「いいね!」「すごいね!」「やろうよ!」という三つの言葉は、Vネットに関わっているとよく耳にする言葉だ。それに加えて「素晴らしい!」という言葉にも、私は何度も助けられてきた。私も、身近な人を認め、応援できる存在になりたいと思う。(ラジオ学生 野田)
10月14日のみんな崖っぷちラジオでは、原爆被爆者の小松宏生(こまつひろみ)さん(94)をゲストに迎えた。小松さんは自分の体験を一人でも多くの人に伝えるために講演活動を続けている。被爆した当時の状況や、経験をどう伝えていくかについて話を聞いた。
「太陽とぶつかった!」8月6日、疎開先で見た「ピカドン」
小松さんは11歳(小6)の時に爆心地から20km離れた学童疎開先のお寺で8月6日を迎えた。朝、みんなと庭でラジオ体操中に突然、「ピカ!」と、ものすごい光と、少し遅れて大きな地響きが起こった。キノコ雲のてっぺんだけが見えたという。何が起きたのか分からず、周囲にいた男の子は「太陽とぶつかった!」と叫んでいた。先生が広島市内に電話するが全くつながらない。1週間後、着の身着のままのぼろぼろの格好で母親が疎開先に迎えに来た。
自宅にいた母は爆風で倒れた建物の隙間にうまくはまり込みしばらく気絶していた。気がついたら瓦礫の中に埋まっていて、近所の叔父・叔母も即死。一人で荼毘(火葬)に付したあと、父(夫)を毎日探していたという。「私は地獄を見た」と後年まで言っていた。
バラックの避難所には、全身火傷の瀕死の人とうめき声
母と一緒に、行方不明の父親を探すために広島市内に入った。市内の建物は全て倒壊、応急に作られたバラックの避難所を探しても父親は見つからず、しばらくは親戚の家の宮島に住み、市内に行って父親を探していた。しかし、避難小屋に寝かせられている全身火傷の瀕死の人やその呻き声、がれきの中に転がる遺体を目にしながら探し歩くことが辛くて、母親に「もういやだ」と泣きついて一週間で探すことをやめたという。1か月間宮島にいたが、新学期の9月に実家である宇都宮に移り住んだ。だが、高熱、血尿など母親ともども謎の症状(原爆症)に苦しめられ、厳しい生活が続いた。
小松さんは、直接被爆者ではなく原爆が投下されて一週間以内に市内に入ったため、「入市者」としての被爆者となった。(このほかに胎児被爆者などがある)
「戦後50年」やっと当事者として話した
差別を恐れてか、母親から被爆した経験ことを話さないように言われ、小松さんは自分の子どもにも長い間一切経験を口にしなかった。しかし今から30年前、「戦後50年文集」の公募があり61歳になったとき、に母親に作文「もう、私たちの体験を書いてもいいんじゃないか」と勧められ、初めて自分の戦争の経験を文章に著した。それが新聞社や栃木県の担当者の目に止まり、それから30年間、自分の体験を話す活動が始まったという。
そして、今年8月6日には広島平和祈念式典に招待された。実は、8月6日当日、父親が勤務していた会社跡地に石碑が建てられた聞き、その場に行って来たという。「やっと、80年ぶりに父に会えた」と感じたという。
「戦争はいけないんだね」と参列のひ孫
現在、小松さんは栃木県内の学校など様々な場所で被爆体験を語っている。戦後80年が経過し、被爆者自身が直に伝えることが難しくなっている。それでも戦争の経験を語ることで、「戦争はしてはいけないことを、下の世代に分からせないといけない」という思いや使命感がある。今年の平和祈念式典には小松さんのひ孫も参列しており、式典後に「戦争っていけないんだね」と話していたという。また、自身の経験を伝えた世代の人が、「自分たちが伝えていかないと」という意識をもって語り継ぐ役目を担っていってほしいと語っていた。
私は被爆者から一対一で話を聞くことが初めてだった。戦争を知らない世代である私たちは、戦争経験者の話を理解することにとどまらず、「伝えていく」という活動をしていかなければならないと感じた。(ラジオ学生 井本涼菜)
10月28日のみんながけっぷちラジオは「次世代に伝える。原発避難15年目ラジオ」。今回は福島・浜通りの近代史を研究している西村慎太郎(にしむらしんたろう)さんをゲストに迎えた。西村さんは学生のときからボランティアで被災した古文書の保存活動をしており、現在も文化財や歴史資料のレスキューに取り組んでいる。
フレコンバックの中に眠っていた文書
古文書(文書)とは一般的には江戸時代などの遠い昔の村の名主や寺社が残した手紙や証文のことで、税金や村の権利などについて記されている。古文書か文書かは古さの違いで、西村さんが取り組んでいる「文書」は明治以降に書かれたものを指す。福島の場合は、明治から平成の比較的最近のもの(150~50年前)が多い。だが近代の史料、特に震災当時の情報は貴重だと言う。原発事故が起きた地域では帰還困難区域の場所もあり、廃屋になって家屋解体で今まさに失われつつある。「解体現場でフレコンバック(廃棄用の黒い大きな袋)に入っている資料を救ったこともあった」と西村さん。
震災・原発避難当時の状況を知るという点で近代の歴史資料は重要である。文書だけでなく、震災当時のミニコミ誌や地域性が出る新聞の広告・チラシなどを保存することで、地域研究やメディア研究などに活かすことができる。
「浪江にそんな歴史が!」文書を通して気づく
西村さんは救出した地域の歴史資料を発掘・保存し、すべての古文書に対して目録を作り、年に数回開催される「浪江を語ろう!」報告会(浪江町地域文化フォーラム主催)で発表している。当初は興味を示さなかった地元の人も、「浪江ってそんな歴史があったんだ」と気づく機会になっているという。移住してきたのかそこで生まれたのかは関係なく、誰もが「歴史」という軸でつながって浪江を語り合えるのが、古文書レスキューや報告会の意義である。
9月に栃木県小山市で開催された「浪江を語ろう!スピンオフ企画 双葉郡を語ろう!」のイベントでは、アットホームな雰囲気のなか、参加者も登壇者も関係なく、みんなが楽しくふるさとである双葉郡について話している姿が印象的だった。原発事故や震災当時の話を継承するだけでなく、それ以前にも営まれていた日常を思い出すこともまた大切だと思った。
【ラジオ後記】今回西村さんの話をするまで古文書について全く知らなかった。古文書が意外と身近な存在で、地域研究の重要な資料になり得るかもしれないと知り、実家に古文書があるかどうか探してみようと思った。今回のラジオや記事が、より多くの人が地域の古文書や歴史に興味を持つきっかけになることを願う。(ラジオ学生とま)
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9月30日のみんながけっぷちラジオは「自由ゼミ」で、鉄道大好き!ラジオ学生の井本涼菜さんによる「鉄道×SDGs」を放送した。長野県出身の井本さん。地元長野電鉄・屋代線の廃線を小学生の時に経験した。高校進学や通学に苦労する友人の話をよく耳にしたという。調べると、全国の地域鉄道の約8割が赤字路線で、存続が危ぶまれる現状が浮き彫りになった。「鉄道の廃線は単なる交通手段の消失に留まらず、地域社会に多大な影響を及ぼす」と井本さんは話す。
鉄道は人集めの「核」。廃線でなくなるもの
廃線がもたらす地域社会への影響は大きく3つ。
①交通弱者の孤立:高齢者や学生など、車を運転できない人の主要な移動手段が失われ、日常生活や進路選択に影響が出る。
②環境負荷の増大:鉄道の代わりに自家用車やバスの利用が増加することで交通渋滞が悪化し、二酸化炭素排出量が鉄道のおよそ7〜8倍に増加するなど環境問題が深刻化する。
③街づくりの停滞:駅は「街のシンボル」であり、人を集める核としての役割を持っている。その拠点を失うことは地域の商業活動の活性化を妨げる。
駅を「通る場所」から「集まる場所」へ
前述した長野電鉄の屋代線のアンケートで、「屋代線を利用しない理由は何ですか?」の質問に「利用して行きたい場所がない」という声が多くあったそうだ。つまり逆説的には、「駅が単なる通過点ではなく 『目的地』として機能する必要性があるのではないか」と井本さん。その考えがより強くなったのは、夏休み中の旅行で行った京都駅の「展示パネル」だという。京都駅では学生や企業が連携して、駅を「町の入口」と捉え直すワークショップが開催されている。その展示パネルには例として「墓参りに行きたくなる駅」…駅のそばにお墓を造り、移動の目的を創出することで鉄道の利用機会を増やすといった例や「すべての世代が遊べる駅」…駅を公園のような広場にし、通勤通学の合間や休日に誰もが立ち寄って楽しめる地域住民の交流拠点とする等のアイディアがあった。
ジリ貧の「駅と鉄道」。遺産をどうする?
放送中は、他にも「こんな駅があったらいいな」を、井本・ミヤラジ片岡さん・ラジオ学生の加藤(=私)・の3人で意見を出し合った。
◎「聴く体験を共有できる駅」:駅ピアノやライブ会場、ラジオの公開スタジオなどを設け、「聴く体験」を人と共有できるプラットフォームとして駅を活用する。(井本)
◎広場がある駅:自然豊かな広場のある駅を作ることで、駅そのものを見るために訪れたくなるようにする。(片岡)
◎働くための駅:移動中のビジネスパーソンや学生が集中して作業できる、オフィススペースとしての機能を持たせる。「仕事の打ち合わせが午後に1件だけあるから遠くに行けない」という人をターゲットにする。(加藤)
駅は街の入口―過疎の解決のため、まずは鉄道から
「駅は街の入口」というフレーズがとても印象的だ。「地方の過疎」という日本中が抱える問題に対して、鉄道を軸に考えることは新鮮だった。「地域鉄道だから都会の駅のように立派にする必要はない。移動さえできれば良い」という考えのままでは、地域の路線はこの先ますますなくなってしまうかもしれない。それぞれの地域にある、なくしたくない路線。久しぶりに乗ってみると新しい発見があるかもしれない。(ラジオ学生加藤)
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9月23日の「次世代に伝える。原発避難15年目ラジオ」は、福島県浪江町出身で歌人の三原由起子(みはらゆきこ)さんをゲストに迎えた。三原さんが短歌と出会ったのは中学生時代。不登校になったときに先生から声をかけられ、高校生から短歌を始める。その後も歌人として活動を続けた三原さんだが、大きな転換期となったのは原発事故。事故をきっかけに2011年9月に東京・下北沢で「いりの舎」という出版社を立ち上げた。現在は一般社団法人浪江町地域文化フォーラムの理事として浪江町の文化や歴史の継承に努めている。
—復興と言われてしまえば本当の心を言葉にできない空気―
この歌は三原さんの歌集『土地に呼ばれる』の中の一首。事故後、「復興」という言葉が免罪符のように使われ原発事故がなかったことにされている。元々建物があった場所は更地に変わり何もなかったことになり、CMなどでの広告で見せかけの復興が謳われる。見せかけの復興に対してそこに住んでいる人は違和感を抱いているにもかかわらず、本当の気持ちを言えないのが現状だ。
「表現しなければ誰にも伝わらないし、自分の代わりはいない」
事故前に三原さんが短歌のテーマにしていたのは仕事や恋愛などの何気ない日常のこと。だが事故後は原発事故の影響が日常になり、原発について詠うことも多くなった。3月11日を起点に日常が変わり自分の生活が原子力災害と関わるようになったからだ。三原さんが原子力災害を詠う理由はそれだけではない。被害にあった人間が表現しなかったら誰が表現するのか、という意識が原動力にもなっており、「表現しなければ誰にも伝わらないし、自分の代わりはいない」と語った。
三原さんが短歌を詠う上で大切にしている価値観は、「美化しないこと」。美化して明るい世界を演出するなどしたくない。見せかけの言葉を使わずに自分の心に忠実に表現することを大切にしているという。
福島の故郷を、栃木で語る。県外での開催は未来への種まき
ラジオ当日。直前まで小山で「浪江を語ろう!スピンオフ企画 双葉郡を語ろうin小山」が開催されていた。双葉郡出身の避難者約30人が参加したこのイベントでは、三原さんを含む報告者が震災直後と現在の町の写真を比較しながら、郷里を参加者と一緒に思い出した。写真が映し出される度に懐かしむ声や景色の変化に驚く声があがり、終始アットホームな雰囲気のイベントだった。
震災前の思い出や共通の話ができることで、原発事故が起きた場所というフィルターを外して純粋に福島の記憶を楽しみながら共有し、そしてその記憶を後世に残すことができる。
事故が起きてから15年目の現在も県外で避難生活を続けている人は多い。「浪江や双葉郡を語るイベントをその土地だけでなく県外でも開催することで、未来への種まきができる」と三原さんは語る。
原発事故は福島だけの問題ではなく、みんなの問題
すぐには活動や意識が広まらなくても、何年か後にふと思い出した時に自分の意識となって考えるきっかけになる。原発事故は福島だけの問題ではなく、みんなの問題である。原発事故に限らず、1人でも多く社会に関心を持ち続け、社会課題を「みんな事」として考える人が増えてほしい。
【ラジオ後記】
三原さんの歌集『土地に呼ばれる』(2022、本阿弥書店)を読み、素直に感じたことを素直なまま言葉に表現しているからこそ、事故に対するありのままの想いが届いて苦しい部分もあった。映像で見ているわけでもなく音が聞こえるわけでもないのに、文字だけで私の心が突き動かされていく感覚が不思議だった。改めて原発事故の被害にあった人たちの声を知ることの大切さを知るとともに、私がまだ知らない表現方法で原発を継承している人がいるかもしれないから、もっと知り続けたいと思った。(ラジオ学生とま)
三原由起子さんの歌集はこちら↓
歌集『ふるさとは赤』 https://amzn.asia/d/15MqJJO
歌集『土地に呼ばれる』 https://amzn.asia/d/cfTf6uB
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9月16日のみんながけっぷちラジオでは、茂木町の農家民宿+パン屋「月noco」(つきのこ)の君島佳弘(きみじまよしひろ)さんをゲストに迎えた。茂木町は栃木県と茨城県の県境で自然豊かな環境にある。春から秋まで農家民宿、冬は天然酵母のパン屋、年間を通して米や大豆などの農業体験など事業は多岐にわたる。今回は君島さんに就農の経緯や現在の取り組みを聞いた。
報道写真から、農業の魅力にはまる
学生時代は東京で報道写真を学んでいた。各地の食肉処理施設の取材を通して食べ物について関心をいだく。それまで自分たちが食べているものの源を知らずに生きていることや、その社会の現状に疑問を持ち始めた。一方で学生時代に東南アジアやアフリカの農村地域へ写真を撮りに行ったときに感じた農村風景の魅力にも惹かれたという。そんな経験から「この風景の写真を、撮る側ではなく創る側になりたい」と思い農業の道に進むことに決めた。
8年前にたまたま参加した茂木町で開催されているオーガニックマルシェに参加したとき、茂木町の自然や那珂川の風景、コミュニティの居心地の良さに惹かれ移住を決意。現在も茂木の美しさと人とのつながりが原動力になっているという。
アメリカ発の「食べられる校庭づくり」
君島さんが力を入れている活動にエディブル・スクール・ヤードがある。訳すと「食べられる校庭づくり運動」。公立学校の教育の中で食べ物を育てて食べる授業を取り入れていく取り組みである。もともとはアメリカ・カリフォルニア州の学校で始まったものだが、君島さんはこれを栃木県の小学校での普及・実践に取り組んでいる。茂木の小学校ではお米や大豆、じゃがいもを育てたり、地元の有機農家が生徒と一緒に野菜を育てたりしている。食べ物を育てるだけでなく、子供たちは箸づくりにも挑戦し、家庭科の授業では自作の箸で自作のお米を食べる。「子どもたちが自然とうながれる機会を作りたい」と語った。
食は、環境と観光の入り口
(ラジオ後記)農業人口の減少と農業従事者の高齢化が問題になっている。君島さんの報道写真や海外経験は「食べ物を作る」ことや茂木の自然の魅力を実感しているからこその行動だと思った。食は観光の入り口で、環境への入り口でもある。月nocoへの訪問やお米作り、エディブル・スクール・ヤードを通して環境に関心を持つ人がより増えていくことを願う。(ラジオ学生とま)
月noco HP⇒https://kimijimay.wixsite.com/tsukinoco
インスタグラム⇒https://www.instagram.com/tsukinoco_2019/
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9月2日のみんな崖っぷちラジオではとちぎVネットの「能登ボランティア」に参加している小林幹宏さん(78)を招いた。小林さんは、東日本大震災の時に「自分にできることがあるのではないか」と災害ボランティアを行った。その後は栃木県内で発生した水害のボランティアも行った。現在は月に2回能登で活動を行っている。今回はボランティア活動の原動力をお聞きした。
災害は恐ろしいが共存しなければならない
最初に災害ボランティアに参加した東日本大震災の時。被災した地域で大変なことが起きていて、自分にできることがあればと思い、月に1回の活動を1年半継続した。宮城県北部の南三陸町から仙台の若林区まで90㎞の広い範囲で活動した。現地は、「この世のものとは思えなかった」という。
能登も同じ光景であった。家が潰れたまま残っている姿や道路がうねるように変形し原型をとどめていなかった。
「津波も洪水も水害は他人ごとではなく、どこでも発生し被災することがある。ただ、そのことを過度に考えていたら暮らせない」という。
話を聞くこともボランティアの1つ
能登で行っているボランティア活動の1つは「足湯ボランティア」だ。仮設住宅に住んでいる高齢者の孤立を防ぐために足湯をしながら話をしたりマッサージしたりする。仮設住宅は、狭い部屋の中に閉じ込められているようであり、外に出ようにも仕事もやることもなく、今までの近所の人がいないがために交流する人がいない。このような状況で生活を続けると生きていることがどうでも良くなって、災害関連死にもつながりうる。この状況を改善するには、話を聞くことが必要だ。誰かに話を聞いてもらえることが気持ちを軽くする。そのため、人と人のつながりを作ることが支援活動につながるという。
現場に行くことで生じる「ボランティアの力」
小林さんは「ボランティアの内容は何でもいい。ボランティアの力は、その場所を見ると『何かやってやんなくちゃ』と思うこと。そしてその場所に行ったときに、自分がいかに楽な生活をしているかが分かり、自分の抱えている悩みが小さく感じられて精神が強くなって帰ってくる。それこそがボランティアの原動力だな」という。
私自身、災害ボランティアは肉体労働が中心であり、自分にできることはないのではないかと、勝手にボランティア活動への参加を諦めていた。しかし、今回のお話をお聞きして、その場所に行ってそれぞれが自分にできることを見つけて取り組めるものであることを知った。まずは現地に行ってみることから支援が始まるのだと強く感じた。(ラジオ学生 井本涼菜)
ラジオ音声は以下のURLからお聞きいただけます↓
https://youtube.com/watch?v=XOVVl9jfxm0&si=w05-K7kF5EV3txfP
7月22日のみんながけっぷちラジオは北村雅(きたむらただし)さんをゲストに迎えた。北村さんは福島県双葉町出身で、現在は栃木県小山市で暮らしている。防災士、シンガー、劇団のサポートなど多方面で活躍している。そんな北村さんに「小山市から原発事故を語り続ける」というテーマでお話を伺った。
震災・原発事故を知らない人に3・11を語る
北村さんは毎年3月11日に小山市内の喫茶店で東日本大震災や原発事故について話し、振り返る場を設けてきた。そして今年は3月8日から3月13日にかけて小山市民ギャラリーまち美で「東日本大震災・原発事故と防災」展を開催し、北村さんの講演会のほかに自身の書籍などの展示、東日本大震災や原発事故に関わった人や活動してきた人の講演会を行った。
小山市で原発事故について話すことの意義は、震災を体験していない市民に対して北村さんの考えや体験を伝えることだと言う。小山市は自然災害が少なく、東日本大震災の時も建物倒壊の被害などはなかった。震災のことを知らない人たちに向けて話し、理解を深めてもらうことは難しそうだ。しかし、北村さんは「福島県では、震災を経験した人にはお互いに話せないと言う。福島県内で震災について語ったり、学校の授業で触れたりしにくい風潮がある」と言う。つまりタブー(禁忌)になっているのだ。だからこそ、原発避難を客観視できる栃木県、小山で震災・原発事故を伝えている。
来年は原発事故から15年という節目の年だ。原発事故について話す機会をどんな形で設けるかはまだ模索中だという。
「原発は国策だ。」当事者は日本人全員
東日本大震災から今年で14年。被災者の原発事故に対する考えに変化が見られるという。当時は原発を憎む声がほとんどだった。今も被災者の気持ちは晴れないままだが、最近では「原子力発電所があったから生活できたんだ」という声も出るようになった。原発による恩恵と、原発事故による被害は別問題だ。北村さんは講演会などで、「そもそもなぜ原発が建設されたのか」について話すようにしている。「原発は国策だ。この国に住んでいる以上無関係ではないことを胸に刻まなくてはならない」という。
被災者、避難者を個人として捉える視点
東日本大震災、原発事故による被害は様々で、被災者の体験と考えも誰一人として同じではない。毎年3月11日なると津波による死者数が報道されるが、単に数で捉えるのではなく、「一人ひとりが違う」のだ。北村さんは、「双葉町で生きて双葉町で死ぬと思っていた人が、双葉町で死ねないことも災害関連死だ」と捉えている。故郷を奪われた人たちの声が国政に反映されていないのが現状だ。
原発事故の説明は社会科の教科書でたった3行で終わってしまう。3月11日に何が起きたのか、どのように人々が向き合ってきたのか、生きている人が語って伝えていくことが必要だ。
§ §
《放送後記》東日本大震災と原発事故に対する問題意識が薄れつつあることは大きな問題である。また、薄れるどころか最初から問題意識を持っていない層を巻き込んでいくことも必要だと思う。「原発は国策である」ということの言葉の重さを感じ、私を含める日本に生きる全員が当事者だと言うことを受け止めなくてはならない。(ラジオ学生 野田)
8月5日のみんな崖っぷちラジオでは、とちぎベリー会の森あき子さんを招いた。ベリー会は、引きこもり、不登校の人たちの家族会だ。主な活動は月例会という家族相談会や居場所、苺屋(いちごや)を運営している。「引きこもりが生きやすい社会はみんなが生きやすい社会」として、啓発活動も行っている。
親の元気を子どもにも。家庭でも「役割」を
森さんは、子どもが引きこもりで、「頼る場」としてベリー会を見つけた。活動の中で同じ境遇の人たちが勉強しながら子どもへの接し方を模索し、ベリー会の活動に積極的に参加するようになった。
「とにかく、親が元気にならないと子どもも元気にならない」と森さん。親が暗い顔が子どもにも伝染してしまうのだ。さらに「子が自分のことを責めることにもなりかねない。親には子を安心させられる力があると思う。常に子の味方であってほしい」という。また親子の信頼関係を築くと当事者も外に出るきっかけを作りやすい」と話しており、段階を踏んだ関わり方が重要だという。「家の中で役割を与えて、果たす経験」をすることで、外に出られ、働ける一歩へとつながるという。
「当事者も、私たちも、みんな魅力を持っている」
森さんは「当事者はみんな持っているものがすごい!」と目を輝かせながら話した。引きこもりや不登校になると「自分は生きている意味がないのでは」と考える人が多いが、みんなそれぞれ魅力を持っている。その持っている宝石の可能性を信じ、輝かせるという夢を持つことで当事者も生きる意味を見出せる。周りの人もそれを認めることで、当事者の自己肯定感を上げる。
「この宝石は私たちも必ず持っているもので、みんな生きていい価値がある。だから悩まず自分を信じてよい」という。このような心の豊かさを持つことが生きる力につながる。
苺屋が外出のステップに。居心地の良い居場所を目指す。
苺屋は、県庁の近くにある居場所として存在するカフェ(飲食店)である。そこでは当事者が集まって話したり、ゲームをしたりする場を作っている。森さんはこの場が居心地のいい、ほっとする場所となることを目指している。苺屋があることで外へ出るというハードルを下げ、またほかの利用者とコミュニケーションをとることで働くことや学校へ行くことにつながった若者もいる。家か学校、家か職場、という極端な二択ではなく、このような第三の居場所があることは息抜きする場所が与えられて、生活がより豊かになる。森さんはこの豊かさを育てている。
最後に「悩んでいる当事者や保護者は、どこでもいいからつながってほしい」と訴えていた。どちらも悩んでいることを話せる場所があることが、「元気づくり」にもつながる。みんなが心が豊かになる社会を目指していきたい。(ラジオ学生菊池)
とちぎベリー会 https://khj-tochigiberry.com
東日本大震災から14年。福島第一原発の事故によっていまも多くの人が故郷を離れて生活を続けている。今回のラジオでは原発事故をきっかけに
島根県松江市で暮らす桑原達治さん(福島県双葉町出身)をお迎えした。
行き場のない憤り―それでも「罪を恨んで人を憎まず」
震災前、桑原さんにとって原発は非常に身近な存在だった。父親が原発関連会社に勤めており家庭でも原発の話を聞くことが日常だった。近隣にあったPR館へ子ども会や学校の遠足で頻繁に出かけていたという。そのため、危険や反対といった意識は全く持っていなかったそうだ。
しかし、桑原さんは2011年の原発事故によって故郷と自宅を失った。「ふるさとを奪われた」という喪失感から、自然と原発に対して憎しみに近い感情を抱くようになった。ただし東京電力の社員を恨んでいるわけではなく「不運が重なって起きてしまった事故」と受け止めている。桑原さんは自身の今の気持ちについて「罪を恨んで人を憎まず」と語った。
自宅解体「苦渋の決断」
2021年、放置されたままの自宅を解体した。地震で屋根が崩れその後は雨漏りやネズミ・イノシシの被害が続出。やむを得ず解体に踏み切ったという。思い出の品や写真などを少しずつ持ち帰ったが多くは処分することになった。遠く離れた島根県から通うことの難しさもあり苦渋の選択であった。
「なるべく迷惑をかけたくない」と思う、障害持つ人の災害時
桑原さんは脳出血になり左半身に麻痺が残る。現在もリハビリを続けている。そのため災害時には次のような不安を抱えているという。
・高台への避難が体力的に難しい。
・津波のスピードに追いつけるか不安である。
・避難所での生活環境(ベッドやプライバシーの確保)が十分でない可能性がある。
特に印象的なのは「障害を持つ人はなるべく人に迷惑をかけまいと頑張ってしまう」という言葉だった。いざという時、支援をお願いできる雰囲気づくりが重要だと考えさせられた。
「都市が電気を使っている」。リスクを地方だけに押し付ける構図はおかしい!
桑原さんが現在暮らす島根県では島根原発2号機が稼働している。原発への想いを桑原さんは次のように語った。
・火力発電はCO2を排出し、再生可能エネルギーは不安定である。
・だからといって原発が「安全」と言い切れるわけではない。
・放射能は目に見えないため人々が「得体の知れない恐怖」を抱きやすい。
そして何より、地方にリスクを押し付け都市部が電力を大量に消費する構図に疑問を投げかけた。「電気を使うのは全国の人々なのだから発電や廃棄物処理の問題についても都市部の人々が一緒に考えるべきだ」と訴えている。
原発事故が残した「分断」と「不公平」を乗り越える
桑原さんは放送中、原発事故について「罪を恨んで人を憎まず」と語った。この境地に達するまでに、どれほどの怒りや悲しみを桑原さんが乗り越えてきたのだろうか。きっとそれは私たちの想像をはるかに超えるものである。
原発事故が残した「分断」と「不公平」をどう乗り越えるのか。障がいや年齢に関わらず誰もが災害時に安心できる仕組みをどうつくるのか。これらの問題をみんなで考えなければならない。桑原さんをお迎えしてその大切さをひしひしと感じた。(ラジオ学生加藤)
8月12日のみんな崖っぷちラジオでは、「戦後80年とその後」について宇都宮大学国際学部教授の清水奈名子先生をゲストに招いた。清水先生は日本平和学会の会長を務めており、平和の概念についてや、平和に対する向き合い方など、沢山お話を聞いた。
平和とは、「人が人らしく生きられる世界」
8月になると「平和」という言葉を耳にする機会が増える。しかし、その言葉が具体的にどのような状況を指しているのか考えたことはあまりないだろう。戦後80年の間に社会も「平和」の概念も少しずつ変化している。冷戦以前は戦争や争いごとのない状態が平和だと考えられていたが、冷戦終結以降(1989~)からは「人が人らしく生きられる世界が平和」という考えに変化していった。
先生は、戦争は急には始まらない。戦争は、社会の中で自分が大切にされていないと思う人々の不満が溜まり、暴力でしか解決できないと思い込んでしまう状況の中で生じる。そのため「社会の中で、疎外感を抱いたり搾取されたり大切にされていないと思う人をどれだけ減らせるか」が、遠回りのように見えて実は平和につながる道である。
歴史教育とともに平和教育が普遍的になることが必要
世界では今も争いが絶えないが、一方で日本では戦後80年が経過し、社会で戦争の爪痕を見る機会や戦争を体験した方から直接話を聞く機会も減少した。この中で「平和を次の世代にどう伝えるか」が課題となっている。日本では学校などで平和教育が行われている。しかし、その内容には都道府県ごと市町村ごとの地域差がある。個人の受け止め方も様々だ。また、指導者(先生)によっても違いが大きく、平和教育の効果が十分に発揮されているのかにも疑問が残る。戦争の記憶が遠くなっているが、これから戦争を起こさず平和を維持するには、歴史を学ぶことに加えて考え方の意識改革が必要だと思う。
平和教育の場でも日常生活でも「本当にそのことが正しいのか」と自ら問いを立て、主体的に考えを深めていくことが必要だと私は思う。
「戦争は人の心の中で生まれる」陰謀論は敵
最後に清水先生がユネスコ憲章の全文を紹介してくれた。「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。相互の風習と生活を知らないことは、人類の歴史を通じて世界の諸民族の間に疑惑と不信を起こした共通の原因であり、この疑惑と不信の為に、諸民族の不一致があまりにもしばしば戦争となった」
これを書いた人は第一次世界大戦、第二次世界大戦を若くして経験した人たちでしょう。その人たちが教育や科学を拠り所に異なる人との相互理解を深めることが「平和への道」と示唆していると話す。たしかに、SNSで流れてくる「陰謀論」で片づける前に、自分で考え、自分で疑問に思う学問的・科学的・道徳的な力が、人間の内側から平和を意識し日常生活や行動に反映させることになり、平和な世界への第一歩であると思った。(ラジオ学生 井本涼菜)
ラジオ音声は以下のURLからお聞きいただけます
https://youtube.com/watch?v=nj5KNDm6IX0&si=8UplxtdkiN9zk1O2
7月8日の「崖っぷちラジオ」では、NPO法人エコロジーオンライン代表の上岡裕さんをゲストにお招きし、これまでの活動や環境問題への向き合い方についてお話を伺った。エコロジーオンラインは音楽やメディアを通じて環境情報を発信し、SDGs、福祉、防災、国際協力など幅広い分野で社会課題の解決に取り組む。上岡さん自身元レコード会社勤務の経歴を持ち、25年前から音楽業界のネットワークを駆使した環境啓発活動を行ってきた。音楽プロモーターとして坂本龍一さんやエレファントカシマシを始めとする有名アーティスト支えた後、エコロジーオンラインを設立し、音楽と環境、そして地域福祉を結ぶ活動に携わっている。上岡さんは昨年、感染性心内膜炎で心臓手術を受けた。その影響で脳卒中の後遺症が残り「失語症」を発症。少したどたどしい会話ではあるが、「それもいい経験」と今回ラジオでお話しいただいた。
音楽と環境とのつながりを生かした活動
エコロジーオンラインの活動の一例として、ATENOTE(アテノオト)プロジェクトがある。アテとは能登でヒバの木(ヒノキ科アスナロ)のこと。このアテを使って楽器を作り復興支援の一助にする。「能登」と「音」が含まれている絶妙なネーミングだ。楽器でミュージシャンとの橋渡しやイベント支援をする。建築財としての能登ヒバは輸入材に押され低迷していたが、音楽と日本の森の新しい魅力を結びつけるこの取り組みは、災害復興×森林活性×音楽というユニークな視点で、地域資源を生かした事業モデルのサポートとなった。
また、エコロジーオンラインは、栃木のFMラジオであるRadio Berryと連携して、SDGsをテーマにしたラジオ番組の制作を長年にわたって続けている。ここでは、上岡さんが失語症を患った経験や音楽には癒しや記憶回復の効果があることから、毎日1曲、1970〜90年代のヒットソングを選曲して流している。
Think globally, act locally. 誰かと誰か、「点と点を繋つなげる」こと
エコロジーオンラインは、世界規模での気候変動という環境問題に対して、地域密着型のグローカルなアプローチを実施している。上岡さんは地域の大学や企業との連携することで、若者や子どもたちに「気候変動は自分たちの未来と深くつながっている」と感じてもらえることを大事にしている。実際に現在は宇都宮大学の環境を専門に学ぶゼミとの共同プロジェクトも進んでいる。「環境問題は誰かが一人で解決できることでは決してないけれど、個人や誰かの取り組みを繋つなげることで、「点が線に、線が面に」なっていく瞬間がかならずある。上岡さん自身も、エコロジーオンラインでの活動を通じてそのことを実感すると同時に、その手伝いをすることにやりがいを感じているという。
ただの「気候変動」で済ませない。「気候変動を止める」行動をする
気候変動はもはや抽象的な問題ではなく、私たちの生活に直接影響を及ぼす現実の課題である。2023年には上岡さんの地元・栃木県佐野市で41度が記録され、Radio Berry主催のフェス「ベリテン」では、落雷による事故も発生した。こうした事象が私たちの命にかかわる問題であることを自覚していても、私たちは「気候変動の影響だ」と言って済ませてしまいがちだ。エコロジーオンラインは東日本大震災の時に被害を受けた地域へソーラーパワートラックを派遣したり、途上国に小さなエネルギー機器の寄付をするなど、グリーンパワーを通した支援活動を実施してきた。こうした活動は私たちが今考え、実行するべき必要なものである。私たちがこうした環境問題を自分事として捉え、次のアクションをとるかどうかが将来にかかっている。今回、崖っぷちラジオの放送にも毎回登場する「地球は地域の大きな寄せ集め」という言葉の意味を改めて実感した。
「みんながけっぷちラジオ」×「NPOエコロジーオンライン」上岡裕」08/07/2025 - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=OLtNlCE8m7I
7月29日のみんながけっぷちラジオでは、宇都宮大学のDE&I推進センターの川面充子先生をゲストに迎えた。DE&Iとはダイバーシティ(多様性)、エクイティ(公正性)、インクルージョン(包摂性)のことで、多様な人たちがそれぞれ尊重される働きやすく学びやすい環境づくりを進めている。昨年度、大学にもともとあった男女共同参画推進室と障がい学生支援室を発展的に統合させたものだ。先の2本柱の授業はもちろん、理系の女子学生を増やす取り組みを行ったりと活動は多岐にわたる。今回のラジオでは「とちぎ×ジェンダー」というテーマでお話を伺った。
男女の賃金格差が全国最下位! 「100:71」の栃木
ジェンダーとは「社会的に作られた性」のこと。生物学的な性ではなく「女はこうあるべき」「男らしく」という考え方や役割などのように社会的につくられた性差を指す。無意識のバイアス(偏見)や相互理解不足など、本質的な課題が見えにくくなっているのが現状だ。栃木県はジェンダーギャップ(性差)が全国最低レベルの現状。特に男女間の賃金格差がひどく、厚生労働省の2023年度の調査によると、栃木県は男性の賃金を100とした女性の賃金比率が71で都道府県の中で最低だった。考えられる原因は女性の管理職が少ないことや非正規雇用が多いこと。栃木県から他県へ女性の流出が多いのもこうした現状が関わっているのかもしれない。
「誰もが自分事として考えれば変わる」
ある授業で川面先生が社会のジェンダー問題について話した時、男子学生が「問題解決能力がないと思われるから他の人に相談できない」と答えたという。これも社会が「理想の男らしさ」を無意識のうちに形成してきた結果である。ジェンダー問題は特定の性だけが抱える課題ではなく、社会を構成する1人1人が関わっているのだ。「誰もが自分事として考えれば変わる」と川面先生は語る。栃木県では男女格差が顕著にみられる一方で、共働き子育てしやすい街ランキングで宇都宮市は上位に組み込んでおり、環境づくりを見直すポテンシャルはある。栃木県全体でみんなが声をあげられるようになれば、さらに誰もが暮らしやすい栃木を実現できるだろう。
【ラジオ後記】
無意識のうちに性への社会的な固定概念が作られているかもと感じた。その環境にいれば、自分や周りの人たちの選択肢や生き方を制限してしまう加害者になるかもしれないと思った。栃木県が性別関係なく誰もが声をあげられる暮らしやすい場所になる一歩として、私も学生や社会人などいろいろな人とジェンダーについて議論してみようと思った。 (ラジオ学生とま)
質問してみたい方はどんどんコチラまで!!→([email protected])
リスナーの皆さんのご意見・ご感想もお待ちしております!
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ミヤラジ(77.3FM)にて毎週火曜19:00~20:00オンエア!
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6月3日のみんながけっぷちラジオでは、認定NPO法人うりずん理事長の髙橋昭彦(たかはしあきひこ)さんをゲストに迎えた。NPOうりずんは医療的ケア児とその家族が当たり前に暮らせる社会を目指して在宅医療や訪問診療、日中の一時預かりなどをおこなっている。医療的ケア児とは日常的にたんの吸引や人工呼吸器の使用など、医療的ケアを必要とする子供のこと。この分野はまだあまり知られていないが、2021年に「医療的ケア児支援法」が成立し、社会的関心が高まっていることを表している。20歳未満の医療的ケア児は全国で2万人いるとされ、支援の必要性は非常に高い。うりずんは宇都宮市の徳次郎町にあるひばりクリニックに隣接しており、髙橋さんはクリニックの院長も務めている。
「やらない理由を考えず、やる理由だけを考えた」
髙橋さんはひばりクリニックを開院した当初から在宅医療に取り組んでおり、その中に人工呼吸器をつけた子供もいた。ある平日の昼間にその子の家庭を訪問すると、玄関に出てきたのは父親だった。母親は高熱で寝込んでおり、代わりに父親が子供のケアをしていたのだ。その当時はまだ「イクメン」という言葉も一般的になる前で、育児は母親や祖母などが担うのが普通だった。しかし医療的ケアを必要とする子供の場合はそうはいかず、頼れる場所が少ない現実を知った。
「やらない理由を考えずにやる理由だけを考えた」。
その高橋さんの決意の下、人工呼吸器をつけた子供の預かりが2011年にスタートした。全国でも数か所しかない取り組みだった
外出も本人と社会を変える。「夜の動物園」で経験値を0から1へ
地域に開かれたNPOを目指したうりずんの取り組みは、もちろん施設内にとどまらない。宇都宮市内の動物園でうりずんの利用者たちが自由に夜の動物園を楽しむ「ドリーム・ナイト・アット・ザ・ズー」を2014年から行っている。医療的ケア児は重度の身体障害や知的障害がありほぼ寝たきりの人も多い。家族だけでは外出もままならないのだ。子供たちはそこで初めて動物を間近で見たり、実際に触れて動物のぬくもりを肌で感じたりして、「経験値を0から1」にする機会となっている。また、日中に開催したときもあり、一般のお客さんの中で医療的ケア児も一緒に動物園を楽しむ空間となった。こうした子供たちは家に閉じこもりがちだが、一般の人も外に出ることで、重度の障害児の存在とその対応(バリアフリー化)に気づくことも多いだろう。
【ラジオ後記】
取材で実際にうりずんを訪れたが、その安心感に満ちた温かい雰囲気に非常に驚いた。髙橋さんはもちろん、そこで働くスタッフの皆さんが心から笑顔で迎えてくださり、うりずんについて丁寧に紹介してくれた。このような環境だからこそ、親は安心して子供を預けることができ、子供たちもまたうりずんで楽しい時間を過ごせるのだろうと思った。
また、髙橋さんは最近『うりずんの風に吹かれて-重い病気や障害、医療的ケアのある子どもとともに-』という本を出版した。放送では話しきれなかったことも書かれており、普段なかなか知ることのできない世界を知るきっかけになると思う。ぜひ多くの方に手に取っていただきたい。 (ラジオ学生とま)
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7月15日火曜日の「みんな崖っぷちラジオ」では、ゲストに林業会社・青葉組/山鳥舎の鈴木由清さん(33歳)を迎え、山の保全と造林・湿地づくりについて放送した。
幼少期、チョウの幼虫がナミアゲハではなくクロアゲハに羽化したことに衝撃を受けて生き物に魅了された鈴木さん。地元鹿沼の自然観察会に参加し、生き物・自然に関わりたいと想い続け、進学を機に上京後、鳥類調査の仕事をしていた。現在は鹿沼に戻り「自然資本の成長」をテーマに林業の新たなビジネスモデルを模索する青葉組㈱に勤めながら、造林・湿地づくりの個人プロジェクト「山鳥舎」や仲間とのユニット「こさば」での活動も行っている。
鳥類調査から「山を保全しながら成り立つ林業」への転身
鈴木さんは鳥類調査員として、ダム建設や高速道路建設に伴う環境アセスメント(希少生物の生息調査)に携わっていた。特に猛禽類の調査では、その生息環境である森の生態系をより深く理解する必要性を感じたという。また、環境調査では保全策を提案するだけで、実際の山の管理に踏み込めないことに限界を感じたことが、林業へ転身するきっかけの1つだったと語る。人が所有する「民有林」にも鳥たちが暮らしていることに着目し、地元で盛んな林業を通じて、より直接的に山の保全に関わりたいと考えるようになった。
鈴木さんが行う「造林」は、素材生産が終わった後に、再び山を育てる仕事である。具体的には、伐採した山で取りこぼした丸太や散らばった枝葉をまとめる「地ごしらえ」や「植樹」、苗木の育成のために下草を刈り払う「下刈り」などで、これらを青葉組㈱と個人プロジェクト山鳥舎の両方で行なっている。両者に大きな違いはなく、依頼主によって棲み分けがなされている。
日本の林業は「素材生産」と「造林」を分けて考えていることが問題であると鈴木さんは話す。分業の大きな問題として、再造林の放棄が挙げられる。また、素材生産だけを考えて作業すると造林の仕事の負担が大きくなり、結果的に効率の悪い林業になる。具体的には、苗木を植えるのに適した場所を、素材生産の方が集材後に造材する場所として使ってしまうことが挙げられる。
ただ植え、保育するだけではない―造林の仕事をアップデート
青葉組㈱がテーマにする「自然資本」は単に木材や水といった商品としての価値だけでなく、それらを支える生き物、岩石、土壌、独自の景観など、山全体を包括的に「価値ある自然」として捉える考え方だ。青葉組㈱は、「ただ苗木を植え、保育するだけ」のイメージが強かった造林の仕事に「自然資本の造り手」という価値を付与し、新しい林業の形を模索し続けている。このような取り組みは地域だけでなく業界全体が変化する必要があるため、社会に与えるインパクトの大きさを重視し、NPO等ではなく株式会社としてビジネスを展開しているという。
「単一の樹種とともに多様な樹種」で守る自然資本
鈴木さんは、日本の生物多様性の豊かさについても語る。日本が島国であること、そして北から南まで多様な気候区分と地形の起伏があることが、固有種の多さにつながっているという。特に栃木県は、鹿沼市内の標高差だけでも多様な環境が存在している。また、奥日光の戦場ヶ原には北海道の鳥類が生息している点など、非常にユニークな生物多様性を持っていると話す。
しかし、栃木県では戦後の拡大造林によって広葉樹林が針葉樹林に変わったことで、生き物の層が大きく変化した。単一の樹種だけでなく、多様な樹種を意識することが重要だという。
鈴木さんは「地域の自然資本はその地域のアイデンティティだ」という。これが鳥や虫がいなくなることの「何が問題なのか」の答えだ。多様な生物が失われることは、その地域の豊かさが失われ、単純化されてしまうことにつながる。だからこそ、山作りの立場から地域の自然資本を守り、木や生き物の多様さを維持していくことに尽力したいと語る。
今回のラジオの事前取材では、鈴木さんが鹿沼市にある仕事場の山を案内してくれた。そこには、トチノキやヤマザクラの木々、美しい鳥の鳴き声、トンボやチョウなどのたくさんの昆虫の姿があった。幼い頃から当たり前に感じていたこの環境は、日本の素晴らしいアイデンティティである。多様な生き物が棲む日本の山を守るために私たちが最初にできることは、その素晴らしさを、自分の肌で感じることかもしれない。(ラジオ学生 加藤)
7/29(火)のがけっぷちラジオは宇都宮大学のDE&I推進センター特任助教の川面先生をお呼びし、「ジェンダー×とちぎ」というテーマでお話ししていきます。そもそもジェンダーとは何か、栃木県はどんな現状なのか、詳しく聞いていきます!
毎週火曜の19:00~、アプリ「FMプラプラ」にてお聞きいただけます。ぜひ!!
6月10日のみんな崖っぷちラジオでは、「国際刑事裁判所と戦争」について宇都宮大学准教授の藤井広重先生をゲストに招いた。学生を指導する傍ら、国際刑事裁判所に勤務している。実際の話を聞けるという貴重な回であった。
国際刑事裁判所(ICC)は国際社会全体の関心事である重大な犯罪(集団殺害、人道に対する罪、戦争犯罪、侵略犯罪)を犯した個人を訴追・処罰するための常設の国際裁判所で、2002年に発足した。現在120カ国が加盟している。同じオランダ・ハーグにある国際司法裁判所(ICJ)は、戦争当事国間の争いを裁く “民事”の裁判所である。国連とは別組織だが協力関係にある。ICCの所長は日本人の赤根智子判事が務めている。より簡単なイメージとしては、国際版の刑事裁判所がICC、国際版の民事裁判所がICJだととらえるとわかりやすい。
「国際刑事裁判所」で働くことの意義と難しさ
藤井先生は国際刑事裁判所で働くことの良さは、「被害者に直接アプローチできること」という。ICCで働くきっかけもここにあった。国際法などの法律は平和な社会を作るためにあるが、法を守らせたり、法によって裁いたりしないとただの空文である。その意味で「戦争被害で困っている人の道しるべ」となる存在がICCである。「法を使って誰かの役に立ちたい」という思いも藤井先生を突き動かした。「直接成果を感じられなくとも、この組織の一員として働けることに誇りを感じる」と話す。
もちろん難しさもある。「証拠収集」である。武力紛争下では証拠はなくなってしまう可能性があり、また殺されたり、死んでしまった人から情報を得ることもできない。生き残った人から何とか情報をもらう。さらに「証人を依頼する」のも大変だ。武力紛争を起こした人(多くは権力者)は生きているため、証人をやりたがる人も少ない。コストもかかるため、証拠集めで行き詰まってしまうことも多々あるという。
国際法が根拠の国際社会―法を平和づくりの武器にする
国際社会は中央政府がないため、国際法を破っても逮捕されたり、罰せられることはない。しかし、例えばアメリカが軍隊派遣するときは国連憲章第51条の「自衛権の行使」を提示するなど、自分たちの行動の正当性を主張するために国際法が必要になる社会に変わってきた。藤井先生はICCの意義について「つい100年前までこのような秩序がなかったのに、少しずつ法律を持ち込む社会に変わった」ことを実感し、感銘を受けたという。法律が大事な道具として扱われ、認められたことが人類の大きな一歩になったと話す。「法律は誰かが何かで困ったから作られるもの」であり、私たちの武器となる。法律は一種の「眼に見える根拠」となるため、使い方を知っておくべきなのである。私たち個々人が、国際法をよく知っていなくても生きていける社会は平和とも呼べるが、国際法はより積極的に平和を作る武器となることを心にとどめておきたい。
「平和は、武力行使した側/された側、両方みないと構築できない」
武力行使は国が長く深く考えた結果、手を出したもの(実力行使)である。今世界をにぎわわせているウクライナ戦争でのロシア、パレスチナでのイスラエルもしかり、武力行使した側から見れば彼らなりの考えや見方など、違う側面も見えてくる。「平和は、武力行使した側、された側両サイドをみないと構築できない」と述べた。
ICCはあくまで中立な立場なので、どちらかに肩入れできない。しかし、犯罪が行われた地域への捜査は現地政府の協力が不可欠である。だが、現地政府が自国に不利になる情報にアクセスさせるはずがない。協力してもらえるアクターが限定される中で、果たしてそれは中立といえるのか。難しい問題である。ICCに対して不満を持つ国はこの点を特に強調して主張する。今後、ICCは様々なアクターと結びつく必要があり、その中立性を確立する姿勢が求められる。
「難しいものを難しいまま理解する力」が大切
藤井先生は、私たちに「難しいことを難しいまま理解することが必要だ」と話す。難しい問題は簡単に説明できないからこそ難しいものであり、直面する課題は深刻だが、それを考えるプロセスやあきらめない力が大事だという。また、学生に対してよく「人を見て物事を考えなさい」と指導をするという。法律は武器であるが、道具にすぎないものであり、重要なのは主体である「人」なのだ。私たちも日常生活の中で「人」のことを念頭に置いて話したり考えたりすることが大事であり、よりグローバルに考えると、今実際に世界で何が起こっているか、そしてそれを両側面から考える力を身に着けたい。(ラジオ学生菊池)
ラジオ再録》https://www.youtube.com/channel/UC7FypuAUxZEhsbCDDoqaUYg
7月1日のみんな崖っぷちラジオのゲストは、とちぎ県北ボランティアネットワーク(Vネット県北事務所)の安井将太さん。安井さんは、県北の福祉やボランティアが元気になるように、YouTube「ボランティアのしょうちゃんねる」でボランティアに関する情報や活動について発信している。
県北事務所はおおまかに4つの活動(仲町ほほえみセンター、スマイルハウス、フードバンク、YouTube)をしている。
2月4日放送のみんながけっぷちラジオはNPO法人ひまわりのKPさんをゲストに迎え、「障がいを持つ方への就労支援」というテーマでお話を伺った。
作業は、自分の目標と自分のペースにあわせて
NPO法人ひまわりは精神に障害者への就労支援をおこなっている。作業所としては宇都宮で一番古い。普段の作業は企業からの下請け作業で、自動車部品の組み付け、印刷物封入などを行っている。もう一つは自主製品の生産で藍染、ポストカードなどの雑貨の製作を行っている。放送当日にKPさんが利用者が作ったテルテル坊主のキーホルダーをプレゼントしてくれた。なんだか見ているだけでほっこりするような表情だ。実際にこの心が温まるような作品が購入者を引き付けているという。
作業所に登録しているのは25人で、毎日の7,8人が通っている。個人の目標、支援の仕方を決める個別支援計画にそって作業を行うため、毎日の人もいるが、多くは週3日ほどだ。作業は作業室で自分に合ったものをおこなう。「集中スペース」という喋らずに集中する場所で作業することも可能だが、普段は雑談しながら和やかに行われている。
お昼には「ひまわりご飯」を購入することもできる。お金がない人、お弁当作れない人もいるので、ご飯100グラムを10円で購入すれば、ほかに納豆と卵があれば、それらを炒めてチャーハンにしてもらうことも可能で、誰かの手が加わった温かい食事をとることもできる。
「何に苦しんでいるのか」 利用者自身を知るためのサポート
KPさんは作業所で利用者さんとコミュニケーションをとり、サポートをする仕事をしている。利用者さんが「こういうものつくりたい」というものを商品化させるために働きかけたり、「これを食べに行きたい」という利用者さんの声を拾ってみんなで外食に行くための計画を立てたりしている。
この仕事をしようと思ったのは、精神障害者を知りたいと思ったから。「障害を持っている人について知らないでいると、怖いなと思うかもしれないし、偏見もあると思うが、実際に接してみると全然怖くなく、やさしい人ばかりだ」と知った。そこから、「この人たちは何に苦しんでいるんだろう」と考えるようになり今もそのことを胸にサポートを続けている。みんながけっぷちラジオをお聴きの皆さんやこのブログをご覧の方もぜひ遊びに来て、どんなところか知ってほしいという。
安心できる「いつ来ても変わらない場所」をめざす
「日々の業務の中で、利用者さんの調子がいい日も悪い日もあるが、利用者さんがちょっとでも自分らしく生活できたり、できることが増えたりすることがやりがいだ」という。
ひまわりの心がけは「できることはやる」ことと「皆の話をよく聞くことを大切にする」こと。些細なことでも面談で聞いて気付けるように心がけている。また、いつ来ても変わらない場所であり続けることも心掛けている。利用者の方に「ここに来れば居場所がある。安心できる。」と思ってもらえる場所であり続けることを目指している。
《放送後記》
就労支援によって障害者の居場所をつくることができる。作品のテルテル坊主をもらってとても心が温まった。今後も作品を購入することなどを通してNPO法人の活動や作業所を応援したい。
(ラジオ学生 野田)
4月22日の「次世代に伝える。原発避難15年目ラジオ」では、「ともしびプロジェクト宇都宮支部」で活動している八木茂さんから話を聞いた。ともしびプロジェクトは2011年3月11日の東日本大震災をきっかけに生まれた団体だ。「忘れないをカタチに」をキーワードにして2011年から毎月11日にキャンドルに明かりを灯し、SNSで想いを共有し、被災地域に発信する。宇都宮支部ではそれに加えて福島でのスタディツアーや講演会などを行っており、八木さんはその企画・運営に携わっている。
「時間が止まった生活」や日常に触れる
ともしびプロジェクトの一環で、浜通りの被災地を訪れるスタディツアーがある。これは2018年に「栃木避難者母の会」のメンバーと一緒に福島県浪江町・双葉町・富岡町を訪問したことから発足した。八木さんは、現地で原発避難の現状を聴いたときに際、そこにはそれぞれの生活があったことを痛感し、ともしびプロジェクトとして始動しようと決意した。参加者は教室に整然と置かれたランドセルや、予定が書かれたカレンダーなど、時間が止まったままの学校や住宅を見ながら、現地での暮らしの痕跡に触れることで、「被災地」という言葉の奥にある日常と向き合う。
ただ行くだけでは終わらない、「伝える」ツアーづくりの工夫
スタディツアーの参加者からは、次のような声が寄せられている。「震災について、私の知識の無さにびっくりした。何も知らなかった。11年間何をしていたんだろう、当たり前ってなんだろうって心から思えた。大勢の方と一緒に学べて本当に良かった」。
ツアー参加者、当事者に徹底的に寄り添い、ただの見学で終わらない、心に残る学びの場にするために、八木さんは次の5点を心がけているという。①家や学校などの日常生活に触れること、②見るだけでなくて当事者の話を聞くこと、③これからの地域社会を担う若者たちに参加してもらうこと、④被災者の方との打ち合わせは念入りにすること、⑤実際の活動の前後に、顔合わせ・活動後に振り返りの時間を設けること。ツアーに講師役として参加したコメントお姉さんの田中えりさんも、この話を聞いて「だから安心して参加できたんだ」と話していた。
原発事故の「わからない」と向き合う
八木さんは、「津波による事故と原発事故は分けて考えなければならない」と話す。津波に対する教訓を聞く機会はあったが、原発事故はいろんな人の話を聞いても「わからない」と思うことが多かったからだ。「原発事故」は本当に個々のケースが複雑で、それぞれの辛さがあり、まとまらないことが多い。八木さんは、「だからこそこれからもできるだけ多くの人の声を聞いていきたい」と、一人ひとりと丁寧に向き合っている。
これからを担う私たちの役割は関心を寄せ続けること
この先の展望として「スタディツアーを福島だけでなく宮城でも開催し、そのアウトプットとして防災サミットもやりたい」という。次世代の若者に伝えたいことは、とにかく関心を寄せてほしいということだ。八木さんが伝えることの大切さを知っているからこそ、さらに若い人から若い人に伝え続ける横展開を期待している。そしてさらにその関心を寄せ続ける「ともしびプロジェクト」でありたいと語った。そのためには、やはり実際に現地を訪れて自分自身で感じて考えることが重要だと八木さんの話を聞いて改めて思った。(ラジオ学生 山本)
エコ・ハウス、毎日160人がリサイクルで利用
3月18日のみんながけっぷちラジオでは「エコ・ハウスたかねざわ」の増田茂さんをゲストに迎え、エコ・ハウスでの活動や環境問題についてお話していただきました。
高根沢町立の環境学習テーマ館で、かつ実践の場である「エコ・ハウス」では、リサイクル品の回収を始はじめ、森林整備、ユーズドショップ、近隣小学校への出張授業等など、環境に関する様々な取り組みを行っている。中でも大きく取り組んでいるものが、リサイクル品回収と森林整備だ。
リサイクル品の回収は多岐にわたっていて、町で回収しているよりももっと細かい。増田さんは「利用者は年間5万人ちかくです。1年を通して300日程度営業しているので、1日160人ちかくの方に利用されている」と言う。
森林整備は、エコ・ハウスに隣接する雑木林で行っており、近隣の会社や保育園、スポーツ競技団体、大学教授とともに整備を進めている。手入れされた森林は子どもの遊び場や動植物の生態調査などに活用されている。
気候変動を止めよう!「家庭内の脱炭素化」
増田さんは「家庭内での脱炭素社会を進めていきたい」と言う。現在、地球温暖化は年々進行し、100年前と比べ、宇都宮市の平均気温が2度以上も上がっている。
「2015年に定められたパリ協定では産業革命以降からの気温上昇を1.5℃に収めようと決めたが、宇都宮市はもう0.5℃以上と大幅に超えてしまっている」。
「みんなでどうにかしていかないといけない問題」だという。例えば、ゴミの分別の不十分による焼却場から出るCO₂の増加、電気のつけっぱなしによる電力の余剰消費など、ひとりひとりの意識の低さが見られる点をも多くあると増田さんはいう。
そこで、エコ・ハウスでは、夏の暑さの対策としてエアコンの効いた部屋を一般開放し、地域の憩いの場として使ってもらうことをやっている。「1人よりも10人で涼めば電気の消費量が10分の1」、を掲げて活動を行っているそうだ。
年々暑くなってきている夏、CO₂の排出量を抑えることができれば持続可能な社会の形成に繋つながってくると思う。ひとりひとりの意識が変われば、カーボンニュートラルもSDGsも達成できるかもと考えた。(ラジオ学生:高松)
2月11日の 『みんながけっぷちラジオ』はNGO「日本国際ボランティアセンター(JVC)」スタッフとして海外で34年間活動してきた谷山博史(たにやまひろし)さんをゲストにお迎えし、「沖縄戦の過去と辺野古新基地建設問題」をテーマにお送りしました。谷山さんは現在、沖縄県名護市で平和活動をしているため、今回は沖縄からリモートでご出演いただきました。
なぜ沖縄へ?アフガニスタンで見た現実
東京都出身の谷山さんが沖縄に活動の拠点を移すきっかけになったのは、およそ4年にわたるアフガニスタン駐在の経験です。アフガニスタンで谷山さんが見たのは、米軍による「罪のない人々の死」という悲惨な現実でした。
アフガニスタンで戦争をする米兵(海兵隊)はどこからやってくるのでしょうか? 実は、日本の「沖縄」です。沖縄は世界の戦争の拠点になっており、米軍に土地を提供する日本は、いわばアメリカが起こす戦争に加担させられていることになります。長らく世界で活躍されてきた谷山さんですが、アフガニスタンの実態をきっかけに、平和活動をするならまずは自分の足元である日本の地で、なかでも沖縄から、という想いに変化していったそうです。
止まらない新基地建設、根底には沖縄への「差別」がある
防衛省が公開している資料によると、沖縄県の全体面積に占める在日米軍施設・区域(専用施設)の割合は70.27%です[1]。国土面積のおよそ0.6%しかない沖縄の土地が7割以上米軍に使用されているのです。現在も辺野古基地建設を巡って様々な問題が起きている最中であり、先行きは見えないままです。米兵による人権侵害や事故が多い普天間基地を移転する目的で30年前に選ばれたのが名護市辺野古地区です。移転は国外と思っていたのに、あろうことか沖縄に「新しい基地を作っている」のが実態であり、普天間基地も未だ稼働している状態です。そのため、沖縄の人々は辺野古基地を「辺野古"新"基地」と呼びます。
この不条理は「差別」以外の何者でもない、と谷山さんは言います。沖縄への差別は戦前の琉球王国時代から存在し、奄美にルーツがある谷山さんの家族(母親)は、生まれた場所の話を一切しなかったとのことです。
日本唯一の地上戦、「家族が家族を殺し合う」その凄惨さを忘れない
日本唯一の地上戦があった沖縄では、県民の4人に1人が亡くなりました。世界で類を見ない凄惨さだと、谷山さんは話します。「アメリカ兵に捕まるくらいなら自分たちで死ぬ」と決起し、ガマ(洞窟)の中で多くの家族が亡くなりました。
戦争を二度と起こしてはいけない、という絶対的な信念を持った「非戦」の遺伝子が沖縄の人々の血には流れ続けています。そんな沖縄の人々が米軍基地建設に反対する想いの強さは宇都宮で暮らす私たちと同じでしょうか。
NIMBY(ニンビー)の墓場、「沖縄」
NIMBY(ニンビー)という言葉があります。"Not In My Back Yard"の頭文字を取ったもので「(迷惑な施設は)自分の庭には置かないで」という態度を指します。刑務所や核の最終処分場、軍事施設などの設置を議論する場面で使用されることがあります。
谷山さんは「本土の人々がNIMBYの態度を取り続けた結果が今の沖縄への基地集中につながっている」と話します。
根本の解決のためには、そもそも基地建設というテーマにおいてアメリカとの間に構造的な差別を生まないこと、外交による「軍拡に依らない平和をつくること」が重要だと強調していました。
谷山さんはうるま市の「自衛隊の射撃訓練場建設の反対運動」についても紹介してくれました。沖縄のとある高校生がこう言ったそうです。「県民みんなで反対の声を上げて施設の建設は白紙撤回されました。しかし私たちは沖縄県だけではなく、日本の他の県にそれを作ることにも反対です」。
NIMBYはこうやって「みんなの問題」として引き受けること、「自分だけ良ければ」を葬り去ることが重要だと感じました。(ラジオ学生:加藤)
聞き逃し再録⇒ https://m.youtube.com/watch?v=7F_a8FcLBm4
12月17日のみんながけっぷちラジオでは、益子で、風土性に立脚した体験交流事業の企画・運営や、地域調査研究、コンサルティング、事業提案、情報発信、産業振興など「風土性に立脚した」各種事業を行う有限責任事業組合「風景社」の簑田理香(みのだりか)さんと、廣瀬俊介(ひろせしゅんすけ)さんをゲストに迎えた。2008年に仲間4人で会社を立ち上げた。ウェブクリエーター、デザイナー、編集者、アートディレクターの本業の腕を活かして風景社を動かしている。ラジオでは、風景社の仕事、また「良好な風景」の定義から二人が目指す風景について話を聞いた。
土地の風景を守り、未来へ伝える。風景社の役割
きっかけは2009年に始まった益子町の地域再生のためのアートイベント「土祭(ひじさい)」でつながったという。土祭主催者の馬場さんは、「その土地独自の風土に根ざした文化を立ち上げること」を大切にしており、考えに共感した4人は土地独自の文化や芸術、そして風景を守るために風景社を設立したと箕田さんは話す。
“良好な風景”は、自然と人の営みの共存
「良好な風景」と言われて、思い浮かぶものは何だろうか。青々とした山々や田園風景など、緑の多い風景を思い浮かべる人が多いかもしれない。反対に、乱開発され、山肌がむき出しになっていたり、粗大ゴミが山積みにされている風景は、“良好な風景”から遠いだろうか。箕田さんは、良好な風景とは「自然と人間の営みが健全な形で保たれていること」と話す。人間が自然を搾取しすぎていたり、自然の驚異に人間がおびえることなく共存している環境が最善という。
広瀬さんは「人も生き物も健康に生きられる環境の姿」を目指したいと話す。しかし、誰かが「美しい」と言った環境が、他の人も美しいかどうかは別の話。美しさは人それぞれで、都市と自然が共存している環境が好きな人や、緑あふれる環境が好きな人もいる。本当に大事なことを見失わないようにしながら、自分が思い浮かぶ風景を作れるような環境を目指したいと話す。
風景とつながる「世界」の問題
時代が進むと、どうしても失われてしまうものは多い。風景もその中の一つである。広瀬さんがしもつかれを例として説明してくれた。しもつかれは栃木県の郷土料理で、鮭の頭や酒粕、根菜などから作られ、保存に大変優れている。原料は、近年収穫量が減少している。原因は地球温暖化による水温上昇である。秋に上がってくる鮭の数も減少していると広瀬さんは話す。
鮭が上がってきて卵を産み付ける水音や、鮭を観察しに来る小学生、私(蓮井)の実家近くでは毎年秋の風景の要素であった。これらがなくなってしまう日も近いかもしれない。また、鮭の輸入が増えると輸送の燃料消費や養殖いけすでの水質汚濁を増長させる。地球温暖化という世界規模の問題が、私たちの日常生活の中にある風景にまで明確に影響を及ぼしている。こうした広い視点も持ちながら、風景社では環境や景観を切り口とした市民向けのワークショップや街歩きプログラムも行っている。そこに住む人たちの暮らしや仕事と風景のつながりを見つめることで、持続可能な社会の断片が見えてくる。
最後に、箕田さんおすすめの一冊を紹介する。アリス・ウォータース他著、『スローフード宣言――食べることは生きること[海士の風]』。この本をきっかけに少しでも風景に興味を持っていただけることを願っている。(蓮井)
Youtubeでも聞けます→https://youtu.be/to5laKjJtas?si=pRceYTVd3T7lDCU8
11月26日のみんながけっぷちラジオでは、発災当時、双葉町社会福祉協議会職員だった北村雅(きたむらただし)さんと、ラジオ学生でスタディツアーにも参加した千葉奈央(ちばなお)さんをゲストに迎えた。二人は震災当時それぞれ双葉町、浪江町に住んでおり被災後栃木県に移動した。今回のラジオでは『東日本大震災スタディーツアー@双葉・浪江in2024』の想いを語ってもらった。
「自分の過去と向き合ういい機会になった」
「東日本大震災スタディーツアー@双葉・浪江in2024」は、3.11の震災・原発避難関係団体である「ともしびプロジェクト」や「栃木避難者母の会」、そしてUP(宇大生プロジェクト)によって、11月9日に開催された。ツアーには、このラジオの出演者でもある北村さんや半谷さん、田中さん、横山さんなど被災者がゲストとして同乗した被災地訪問だった。参加者は、ゲストの講話や震災遺構などの見学、被災した自宅への訪問を行った。
千葉さんはスタディーツアー参加が始めてで、「自分の過去と向き合ういい機会になった」という。千葉さんが特に印象に残ったのは、田中さんが「13年たった今でも、心の整理がつかないため実家に戻れない」と言ったこと。復興が進み、きれいな現地と「被災者の心のギャップの大きさ」に衝撃を受けた。そして「13年はちっぽけなもの、時間が解決する問題ではない」と強く思ったと話す。
私(蓮井)も取材でスタディーツアーの振り返り会に参加したが、その時に見た、半谷さんの自宅紹介のスライド。「自宅のピアノで止まった時計」や「予定が書き込まれた2011年3月のカレンダー」、「出しっぱなしの調理器具」など、時間が止まってしまった自宅と、解体された自宅周囲の風景に衝撃を受けた。
「災害は自分事」にしてほしいのが被災者の思いかも
ラジオの中で、北村さんや千葉さんが風化について言及した。震災から13年経過した今、風化は日常だけでなく、イベントへの参加にも影響している。「興味がないとイベントに参加しない、そうすると知る機会も減ってしまう」と北村さん。また、千葉さんが震災関連のイベントに参加したことを友人に話すと「意識高いね」や、被災経験を「大変だったね」などと言われることが多い。だだの尊敬や共感ではなくて「自分が経験した災害は誰にでも起こりえること、震災について意識してほしい」と思っているという。
日本に住んでいる以上、地震やそれに伴う二次災害は他人事ではない。だが、どこかで「自分は大丈夫」と思っているだろう。経験した人たちの声に耳を傾ける、企画に参加することで「自分事かもしれない」と意識することができると思った。(蓮井 菜乃花)
Youtubeで聞ける→ https://youtu.be/cH7FZK1oTYU?si=8RkX2yBXY4cZxM0c
1月7日のみんながけっぷちラジオはゲストに下野新聞社の佐藤さんをお迎えし、「とちぎボランティアネットワーク(以下Vネット)30周年!これまでの活動を振り返る」というテーマで放送した。
阪神淡路大震災、全国初の「ボランティア・バス」
とちぎボランティアネットワークは1995年12月1日に創設された。阪神淡路大震災の支援をしていた当時は「阪神の復興を願うとちぎ人ネットワーク」という名前で活動しており、ボランティアの情報の場だった。
佐藤さんは創設当時を知る人物のひとりだ。取材や支援を通してvネットと関わってきた。30年前の1月17日に阪神淡路大震災が起きた。被災地で介護が必要だけど水も物資もトイレもなく、食べることも我慢しなくてはいけないという状況に置かれた人たち(全身性障害者)をどうにか支援できないか、とういう考えのもと県の社会福祉協議会と協力して先駆的な活動を行った。まだボランティアという言葉が一般化してなかった時代にボランティアバスを全国で初めて運行した。他にも炊き出しなどで支援を行った。
情報錯綜。「力になりたい熱意は空回り」
ボランティア活動は大変なことばかりだったという。一番困難だったことは情報の錯綜。どこにどんな支援が必要なのかが手探りの状態で、情報共有はうまくいっていなかった。支援してもらったものも実際は必要ではなかったり、すでに十分にあったりして物資の山ができることもあった。物資だけではなく、ボランティアしたい人、支援が必要な人をつなぐすべがないなど、双方向の情報共有ができていなかったのだ。
佐藤さんも実際に兵庫県西宮市でボランティア活動に参加した時にこの問題にぶつかった。被災地に行っても「間に合ってます」と言われたり、必要と言われてもどう運んだらいいのかわからなかったりと、力になりたいという熱意は空回りした。お金もものも必要なところに届かない状況に対して切ない気持ちになったという。
そうした問題はゲリラ的な活動ができても組織だった活動ができなかったことに起因すると振り返る。今では当たり前のボランティアコーディネートだが、当時はそうした中間支援が乏しかった。中間支援は目立たなくて地味に思えるかもしれない。しかしこれがないと現場に反映できず組織だった活動ができない程に非常に重要な役割を担っている。「ボランティア?なにそれ?」という状態から、今や一般的にその言葉が使われる社会に変化した。Vネットの活動も進歩している。ただ物資の支援を行うだけではなくて今では足湯を運営するなど、ただモノを配るだけではなくて話を聞いたりして交流できる場を提供している。今となっては初めて行く被災地にもボランティアが受け入れられるようになっており時代の変化感じると振り返る。
民間ならでは発案力と行動力、腰の軽さ
Vネットのすごいところとしてボランティアバスの運行など一見無茶に見えることを実現させてしまうところだと話した。募金などでしか支援できないかと思ったところに人を送り込むシステムを作った。民間ならではの発案力と行動力がVネットのいいところだ。また、現場にいく腰の軽さもVネットの特徴であり、外に対して支援できていることに加えて、NPO認定の支援などを通して地元の市民活動を掘り起こしてきた。このことはすごく大きいことだという。
Vネットはボランティアしたい人を応援し続ける
ボランティア元年と言われる阪神淡路大震災当時から30年経って、世代交代世代交流と言われる場面も出てきた。佐藤さんは学生の活動が街を元気にすると話した。若い人に活躍してもらうことでボランティア活動は持続可能になるという。しかしボランティアの現場での次世代の育成が難しいため課題は多い。また、認定NPOの収益事業に力を入れて社会活動を活発にするための資金を確保することも大切だという。コストパフォーマンス重視の現代社会にあっても活動目的もはっきりさせて、目的を忘れないで活動を続けられることが望ましい。いろんな人がVネットの活動を知って興味をもって寄付などが活発になればいいなと話した。
さらに、「Vネットは誰でも気軽にいつでも顔を出しても居心地のいいところだ」と佐藤さんは考えている。NPOはVネット以外にもたくさんあるので居心地のよさそうなところ見つけてぜひ自分で参加して欲しい。ボランティアをする人にとっても心のよりどころになるところなので気軽に参加してもらえればいいなと振り返った。創設当時から変わらずVネットはボランティアしたい人を応援する場所だ。
【放送後記】
阪神淡路大震災から30年という節目を迎えた今年こそ自分ができることを探して行動してみるべきだと思った。SNSで様々な情報が飛び交う時代になったが過去の災害から学び、正確な情報の共有が実現できる世の中になることを望む。(ラジオ学生野田)
↓YouTubeで聞けます!https://www.youtube.com/watch?v=FLJT9y636B8
明日のみんながけっぷちラジオのゲストは沖縄から!
NGO「日本国際ボランティアセンター(JVC)」スタッフとしてアフガニスタンやタイ・カンボジアでご活躍されてきました、谷山博史さんをゲストにお迎えします。
谷山さんには、1年前にも当番組へご出演いただきました。
今回は沖縄の米軍基地を巡るさまざまな問題について、1年経った新情報も交えつつ、新たな視点でお話をうかがいます。
そして、今回のラジオ学生のコーナーでは、ラジオ学生の加藤によるギター弾き語りを予定しています。歌唱曲は当日のお楽しみです!ぜひお聴きください!
質問してみたい方はどんどんコチラまで!!!
リスナーの皆さんのご意見・ご感想もお待ちしております!
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ミヤラジ(77.3FM)にて毎週火曜19:00~20:00オンエア!
FMプラプラのアプリやブラウザからも聞けます
ブラウザ:(https://fmplapla.com/)
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(ラジオ学生:加藤)
1月28日の「次世代に伝える。原発避難13年目ラジオ」では、ゲストに浪江町出身の田中えりさんをお招きした。日本大震災当時、宇都宮大学の一年生で、浪江にいた田中さんの家族は一人暮らしのアパートに避難してきたという。ご家族は現在もふるさとを離れて栃木県で生活を続けている。(田中さんは来月から原発避難13年目ラジオ(第4火曜)のコメントお姉さんです。乞うご期待!)
生活基盤を失う。脆弱な人をより苦境に立たせた支援打ち切り
田中さんにとって原発は生まれた時にはすでにあり、生活の一部だった。田中さんは、皆が安全だと言っていた原発で事故が起き、急に自分の地元やよく知る地名が毎日ニュースに出てきて現実を受け止めきれずに戸惑ったという。福島原発事故では、放射能漏れによって16万4800人が避難を余儀なくされ、生活基盤を失った。2017年3月末の区域外避難者(=自主避難者)への住宅支援打ち切り以降、特に脆弱な立場にある人が住まいの確保や生活費の負担などの問題で苦境に立たされた。「原発避難はただの引っ越しではない。原発被害者は、避難を強いられたことの大変さや辛さを軽視する世間の声、自分や家族の健康への不安や恐怖と共に生きてきた」と田中さんは言う。
自己決定権の侵害。「住みたい人も、住みたくない人」も追いやられる。
福島では、避難生活を続けたくても続けられない人もおり、「自己決定がなされない」という現実が突き付けられた。浪江町を含む避難区域は、政府の指示により避難解除になるまで誰も町に住むことができなかった。また逆に、避難者の生活再建が進んでいない状態で「追い出し裁判(※注)」も行われ、〝国内避難民〟の権利が侵害されるような出来事も多発した。
1986年のチェルノブイリ原発事故後では「チェルノブイリ法」が制定され、国民投票や住民の意思による避難や居住の選択が可能であったが、福島原発事故ではそのような政策は打ち出されなかった。日本では「居住の権利も、居住しない権利」もなく、自己決定権を尊重する考えがなかった。
13年前、原発事故によって多くの人々の健康や生活、そして日常の幸せが脅かされたにもかかわらず、国は今もなお原発を手放そうとしない。
「2023年以降は再稼働がどんどん進み、次に事故があった場合の議論はほとんどなされない中、再稼働の話を見聞きするたびに、かさぶたを剝がされる気持ちだ」と田中さんは話す。
心の傷、「時間が解決しない」。PTSD発症は「戦争レベル」
心は目に見えない。原発事故から14年近く経った今でも、避難を強いられ、その選択を負わされた多くの人が心の傷(心的外傷)を抱えている。田中さんも「帰る実家がなくなり、一緒に生きてきた先祖代々続く土地が奪われ、ずっと続いていくと誰しもが思っていた未来が突然断ち切られた」思いがあるという。さらに心の傷は、帰還困難区域に住んでいた人たちだけでなく、「自主避難者」も同じように高いストレス状態にあるという。早稲田大学の避難者1万6000人に対するアンケート調査では、4割の人がPTSD(心的外傷後ストレス障害)を抱えていると推定された。この数値は日本の災害のでも突出した数字で、むしろ戦争、沖縄戦で見られたレベルの値という。
田中さんは「この辛さは時間が解決すると思っていたが、傷が癒えるのではなくどんどんつらさが増している」と話す。「本当だったら地元で過ごせたはずだったのに、それがなくなった」という事実を痛感する日々が続く。復興が謳われ原発事故が風化することで、「大した被害ではないと言われている感覚」も蓄積する。大切な場所が奪われた心への負担は想像するよりもずっと大きい。
見えにくい「原発の被害」を言語化する。社会を変えるためにも「対話」
私たちは、原発事故後の今を生きる社会の一員として、「誰もが当事者であり、誰も無関係でない」ことを忘れてはならない。「原発事故があったことよりも、そのあとの人生を生きるほうが辛い」という人もいる。原発事故とその後の困難な人生経験がもたらすという被害は、あまりにも軽視されている。このような社会を変えるためには、当事者である私たちが共に考え声をあげ続けていくことが必要だ。これは原発に賛成か反対かという単純なものではない。この問題がどんどん複雑になる中で、「自分は今こう思うという対話を続けていきたい」と田中さんは語った。
今回、田中さんが伝えてくれた言葉を忘れずに、この問題について批判的に考え、それを伝える努力を続けたい。(ラジオ学生山本)
※注:追い出し裁判とは、主に賃貸住宅や仮設住宅などに住む人々に対し、貸主や自治体が退去を求めて提起する裁判を指す。福島第一原発事故に関連しては、避難者が住んでいた国家公務員宿舎や民間借り上げ住宅(みなし仮設住宅)からの退去を求める訴訟が起こった。
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https://m.youtube.com/watch?v=n1ycjxGvWgU
奥能登、町野町は老若男女問わず魅力的な人が多い。目力がある。過酷な自然の中で生き抜いてきた知恵や力強さが目に現れるのかもしれない。よってイケジョ・イケオジの含有量が高い。
金蔵地区の石崎さんもその例にもれずイケオジである。石崎さんは料理も上手く、自家栽培のブルーベリージャム、山から採ったきのこの佃煮、こんかいわし(ぬか漬け鰯)を使ったジェノベーゼなどどれも優しい味を作り出す。
その石崎さんが朝から冷凍しし肉(イノシシ肉)を持ってきてくれた。今晩はジビエでビールだ!
「自分で捌いたの。自分でワナで獲ったの」
18時からのボランティア・ミーティング中から、石崎さんはしし肉をさばき始める。生姜と醤油で下味をつけ、金蔵集会所の業務用ガスコンロで焼き上げていく。火力が良いためたちまち食欲をそそるいい匂いの煙が立ち上がり集会所中に広がる。会議なので台所にはしし肉を焼き続ける石崎さんと私が残った。しめしめ、手伝うふりをして面白い話を独占できる…。
金蔵での楽しみは石崎さんの語り部だ。私はたいてい傍らに陣取り話を聞く。金蔵の歴史、地域おこしの取り組み、金蔵の地の利、復興への思い、金蔵の怪談などなど。今日の話題はなんだろうと楽しみにしながら「この猪はどうやって手に入れたんですか?」と軽く話を振ってみる。奥能登は物々交換が盛んなところなので、きっとお手製のジャムや佃煮やキムチと交換にこのお肉を手に入れたんだろうと考えていたが、いとも簡単に
「うん、自分で捌いたの」
一瞬思考が止まる。・・・今、なんつった?
「罠を仕掛けて、自分で獲って捌いたの」
キターーーーー!!!!
今日の話題は猪狩りと、その捌き方!
話しながらもまるで焼肉屋の店先のような良い匂いと煙を放ち、しし肉は次々と焼き上がっていく。それを嗅ぎ眺めながら、猪を仕留めるところから始まり、捌く様子を微に入り細に入る語りを聞く。語りの間からふっと獣の臭いが立ち込めた、ような気がした。
移住したら、イノシシ狩りだ!
すべての肉が焼き上がり、ビールでしし肉を頂く。・・・美味しい。 以前、しし肉を食べたときには獣臭く、もっと固かった。石崎さんの手によるものはどれも優しい味がする。イノシシも例外ではなかった。野生で生きていたと思えるしっかりとした歯ごたえはありつつ、熟成が進み思いがけずに柔らかい。臭みは全くなく、むしろ肉の甘みを含んだ香りを感じる。丁寧な仕事があってのこの糧だ。命を頂戴するありがたさをつくづく感じる。
「イノシシ狩りに連れて行くと、大抵の人は食べられなくなるよ」
気のせいだろうか、そういうIさんの口調がなんとなく挑発的に聞こえた。
よし、金蔵に移住をしたら石崎さんのイノシシ狩りについていこう。
めったに食べられないけれど、一緒に狩りに行けば食べられます。さあ、町野へ行きましょう(M.Midori)
12月10日のラジオではNGOパルシック(PARCIC)の糸井さんをお迎えし、パレスチナ・ガザ地区に対するイスラエルの一方的な攻撃(戦争)の問題についてお話を伺った。1946年の第一次中東戦争以来、多くのパレスチナ人が故郷を追われ難民となっている。ガザ地区はその難民と子孫が住んでいる“巨大な難民キャンプ”だとも言える。“国境”は2重のコンクリート壁に囲まれ、海からも完全封鎖され「天井のない監獄」とも言われている。
推計18万人が死亡、190万人の家が破壊。水食燃料なし。飢餓。
昨年2023年10月7日から事態は再び緊迫し、ガザ地区においてイスラエルによる爆撃、砲撃、戦車と武装兵士による地上戦で、一方的に、武器を持たない民間人への無数の非人道的行為(殺害、拷問、レイプ、略奪等)が行われている。直接死は4万5300人、行方不明と関連死は推計で18万人、家がない人190万人、道路・上下水道も破壊されて国境封鎖により食料・燃料・水・医薬品などの物資も入らず、飢餓がおこっている。ほぼすべての学校と病院も破壊されている。
ガザ地区は宇都宮とほぼ同じ面積(365平方キロ)に栃木県より多い人口(約220万人)が暮らす超過密都市だ。100年に及ぶイスラエルによる度重なる国際法違反と現在の紛争が織りなす複雑な状況の中、パルシックはガザ地区を含むパレスチナ地域(ヨルダン川西岸地区)での緊急支援活動を展開している。
根本的解決のために、「問題を伝え理解者を増やす」アドボカシー活動
パルシックは、災害や紛争で困難に直面する人々への支援を行いながら、農業支援や生業再建などの長期的な協力環境関係を構築する復興支援も行っている。なかでも糸井さんはアドボカシー(権利擁護・代弁)活動を中心に取り組んでいる。単なる支援に留まらず、問題の根本的な解決を目指し、パレスチナを含む国際問題世論の形成に焦点を当てる。特に、現地で出会った人々のために働くことは、糸井さんにとって大きなやりがいで、出会った人の置かれている現状や苦境を、多様な機会と複数のメディアを使って広報し、理解して協力してもらう。オンライン講座やYouTubeでの情報発信、日本政府(国会議員、政府要人)への働きかけなど、多岐にわたる活動をしている。
それとともに現実のNGO現地事務所の運営は、パレスチナと日本の時差や、緊急事態への迅速な対応が求められ、「夜間の対応が日常的」だそうだ。さらに、イスラエルの攻撃下にあるガザの現地スタッフとの連絡は不安と隣り合わせだ。現地では飢餓状態が日に日に悪化しており、飲料水もない。住民の9割が家を奪われテント暮らしを強いられている。実際にUNRWA=国連パレスチナ難民救済事業機関の職員が命を落とすという事件もあり「連絡を見るのが怖い時もあった」と話す。
「不処罰」をゆるす国際社会を変える
糸井さんが問題視するのは、ガザやパレスチナの現状惨状やイスラエルの傍若無人を前にして、停戦に向けて「適切に介入できていない国際社会の姿勢」である。そのため民間人を攻撃しないなどの国際法の遵守を求める声を広げるとともに、日本国内ではオンライン講座やSNSを活用して状況を伝えている。さらに、外務省への要望書提出や国会での超党派の「人道外交議員連盟」や「日本パレスチナ友好議員連盟」に対する勉強会を開催するなど、政府レベルでのアクションを促す活動も展開している。毎日無実の人が殺されている事実において、国際政治を変えるにはまずは日本国内世論を変えなければならない。
「民際」―民と民が支え合うこと
「ガザの人々はSNSなどを通じて世界中の人々の声や反応を目にしています。そのため私たち日本人がパレスチナの状況を知り、それを周囲の人に伝えることが重要です」という。糸井さんは国際ではなく「民際」として、市民と市民が互いに支え合って助け合う社会を目指したいと語った。
現在ガザでは外国人ジャーナリストがイスラエル軍の攻撃で次々に死亡するという組織的殺害も行なわれており、「現状を伝える人」の命も脅かされている。だからこそ、今起こっていることを軽視せずに自分にできることを行動に移すことの重要性を再確認した。自分もSNSや寄付を通して少しでも現在の状況改善のために努力したい。(ラジオ学生 山本)
県内中学生「4人に1人が通えていない」。全国ワースト1
12月3日のみんながけっぷちラジオではNPO法人キーデザインから土橋優平さんをゲストに迎え、不登校の問題についてお話を伺った。
2024年10月、文部科学省は「日本の小・中学校における不登校児童生徒数は約35万人に上る」とのデータを発表した。これは11年連続で過去最多を更新している。栃木県内は中学生の10%、つまり10人に1人が長期欠席者。さらに土橋さんが「不登校予備軍」と呼ぶ、別室登校や給食・放課後のみ学校に来る中学生を合わせると、県内の中学生の4人に1人が日常的に学校に通うことができていないという。これは全国でワースト1。土橋さんはこの状況への危機感を訴えた。「不登校は子どもが『逃げたい』と発するSOSのサイン」。しかしその背景には大人のSOSの声も隠れている。今回は不登校と家庭の現実に迫った。
将来への不安、お金の心配。親も疲弊
子どもが不登校になることで、親にとって何が問題になるのか。土橋さんは2つ挙げる。1つ目は心理的負担である。子どもが学校に通えなくなると部屋に引きこもってご飯も食べなくなったり、場合によっては自傷行為や暴力など危険な行動をとるようになったりする。それを目にした親が抱く子どもの将来への不安は大きな心理的負担になるという。
2つ目は経済的負担である。不登校の子どもが増加するに伴い「不登校離職」も深刻化しており、不登校の子どもをもつ親の4人に1人が休職、または退職せざるを得なくなっているという。家庭の収入が減る一方、フリースクールや子どもの居場所は利用料がかかる。不登校が家庭の経済状況を圧迫する現実もある。
親は子どもが社会とつながる最後の砦(とりで)。しかし親もさまざまな要因で疲弊している。
大事なのは、「子どもの笑顔が戻ること」
キーデザインでは、子どもと親の両方を支援している。フリースクールは開校日に自由に訪れて好きなことをして楽しめる居場所的役割だ。また、外に出ることや大人との会話も難しい子どもの家庭を訪問するのがホームスクールである。
さらに親には、LINE相談窓口「お母さんのほけんしつ」を開設。全国約4,500人が登録し、常時約50人が、スタッフとLINEでやり取りをしている。栃木県内の相談者にはキーデザインも含めた各地のフリースクールや子どもの居場所、県外の相談者にはその地域の居場所や行政につなぐこともあるという。
子どもや親にとって一番大事なのは、「子どもに笑顔が戻ること」。土橋さんはそのために、子ども親、どちらの支援も大切にしていると話す。
「何かできることはある?」と声かけて!
不登校の背景には、本人の問題ではない様々な課題が隠れている。子どもも親もがけっぷちなのだ。その上で土橋さんは「当事者を孤立させないことが大事」だと話す。不登校の子どもやその家庭が身近にあるとしたら、無理に子どもを学校に行かせようとするのではなく、「何かできることはある?」と声をかけてほしい。もしかすると親にとって自分の不安やストレスを誰かに話すだけでも心理的負担を軽くすることができるかもしれない。またそれと同時にキーデザインのような支援団体につないでほしいという。不登校の子どもと家庭を支えるネットワークの重要性も訴えた。(ラジオ学生 ながたき)
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11月19日のみんながけっぷちラジオでは、益子町で竹林整備を行う「ヒジノワタケ部」部長の伊藤奈菜さんをゲストに迎えた。伊藤さんは千葉県出身。5年ほど前に地方暮らしに憧れて益子町を訪れた。それがきっかけで現在は千葉県と益子で二拠点生活をしながら週4日、益子での活動している。「里山の自然や四季折々の風景が益子の魅力」と話す伊藤さん。自身の活動やそこに込める想いを聞いた。
多様性の破壊、獣害、災害リスク。放置竹林問題。
地方の人口減少や生活様式の変化により、私たちと自然の心理的距離は大きくなりつつある。それは益子の竹林でも顕著だという。竹は成長が早く繁殖力が高い。そのため竹林が整備されず放置されてしまうと他の樹木を枯らして植物の多様性を壊すほか、荒れた竹林へのごみの放棄や害獣被害にもつながる恐れがあり、竹林が地域住民から近寄りがたい場所になってしまうという。さらに竹は樹木とは異なり根が浅いため、斜面に生えていた場合、土砂災害のリスクも高まる。
このような被害を防ぐためにも竹林には定期的な整備が不可欠であるが、実際に整備をしながら竹林を維持していくことが難しい人や場所も増えてきている。そこでヒジノワタケ部は2年ほど前から竹林整備の活動を始めた。女性メンバーも多く、参加者同士の交流も楽しみながらアットホームな雰囲気で活動を行っている。
竹林を守る。竹と共にある暮らしを。
ヒジノワタケ部では竹の伐採作業のほか、竹の活用にも力を入れて取り組んでいる。竹ひごでかごを編む昔ながらの竹細工や畑の土壌改良に効果的な竹炭など活用の幅は広い。さらにその広がりは食の分野にも及び、「ましこのまだけで作ったまじめなラー油」という食品の開発も行ったそうだ。
「竹の活用方法は無限大。そう思うと竹は厄介者だけど、豊かな資源に見えてくるんです。伐採をするだけではなく、竹を暮らしの中で使っていくヒントを伝えていきたい」。最近では地域のイベントで商品の販売や竹ひごを使ったワークショップを行うブースを出展し、普段竹に触れる機会がない人にも興味をもってもらえたと話した。
「竹林を守る。そして竹と共にある暮らしを」。今後は活動で得たノウハウを、竹林整備したいと思っている人にも伝えていくことで、大切な資源をずっと残していきたいと話す。(ラジオ学生 ながたき)
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