丸山さんはずっと浪江町に暮らしていました。地震直後、揺れは大きく、建物が倒壊していて、自身の職場から車を乗り継いで数時間もかけて帰宅したそうです。
3月14日、浪江町は放射線基準値がとても高くなっていて、丸山さん宅に防護服を着た警察が来て「なぜ避難していないのか?」と聞かれ、初めて避難することになったと言います。浪江町を出た後は津島地区、二本松市東和町に移り、最終的に娘がいる首都圏のほうに避難されました。
■2024:「失われた日常へと戻る」活動
今回のボランティア活動を通して強く感じたのは、2024年の緊急対応の段階から、2025年の農作業を中心とした生活再建、そして現在に至るコミュニティの再建へと復興が確かに一歩ずつ前進しているということである。その変化は劇的なものではなくむしろ静かで緩やかなものであったが、だからこそ一層深く人々の暮らしの中に根を下ろしているように感じられた。
2024年に初めて現地を訪れたとき、そこにあったのは災害の衝撃がまだ生々しく残る風景であった。室内に積もる埃や瓦礫を取り除く作業は、単純でありながらも重く、終わりの見えない営みに思えた。しかしその一つ一つの作業は失われた日常へと戻るための不可欠な一歩であり、まさに「ゼロからの再出発」を支えるものであった。
■2025:「未来への種をまく」活動
それから一年後の2025年、同じ土地に立ったとき復興は次の段階へと移行していた。瓦礫は片付けられ、再び土に触れ、草を刈り、豆をまくといった農作業に取り組んでいた。これらの活動は単なる労働ではなく「未来の種をまく」という意思の表れであり、生活を取り戻そうとする力強い営みであった。復旧から生活再建へ――その移行は、地域が再び息を吹き返し始めていることを示していた。
■2026:「コミュニティの再建」活動
そして今回、2026年に訪れて感じたのは、その先にある「コミュニティの再建」がさらに一歩進んでいるということである。仮設住宅に併設された交流センターでは、足湯や酒場のような交流の場も定着しつつあり、そこでは住民同士だけでなく、外部から訪れた人々も交わり、新たな関係が築かれている。安価で気軽に立ち寄れる酒場は、人々が日常的に集い、言葉を交わす場として機能しており、そこには確かな「つながり」の回復が見て取れた。
■賑わいの場だけでなく、人間関係をもう一度耕し直す試み
かつて、災害前に他の村や見知らぬ人と友人関係を築いたという話があったように、この地域には元々人と人とを結びつける土壌があったのだろう。現在行われているこうした取り組みは、その土壌をもう一度耕し、新たな形で関係を育て直す試みのようにも感じられる。人口減少や高齢化が進む中で、こうした交流の場は単なる賑わいづくりではなく、地域がこれからも存続していくための重要な基盤となっている。
■竹切り・草刈りは、人々が地域に関わり続けるための「きっかけ」
また、去年の枯れた土地で大豆を試しに植えるところから始まり、現在では稲が安定して育てられるようになった風景を見て、土地が息づきを取り戻したと感じた。竹切りや草刈りといった作業も、単なる環境整備にとどまらず、人々が地域に関わり続けるための「きっかけ」としての意味を持っているように思えた。作業を通じて生まれる会話や協働の時間は、目には見えにくいが、確実に人と人との距離を縮めている。
復興とは、壊れたものを元に戻すだけの過程ではない。それは、人々の関係や記憶、そして未来への希望を少しずつ編み直していく、長く続く営みである。2024年の緊急対応、2025年の生活再建、そして2026年のコミュニティの再生へと続くこの流れの中で、自分はその一端に触れることができた。そこには、目立たなくとも確実に前へと進む力があった。
今回の経験を通して、復興の本質は「人」にあるのだと改めて感じた。この地に生きる人々の営みと、その中で生まれるつながりこそが、未来を形づくっていく。これからも、この静かな変化に目を向けながら、自分にできる関わり方を模索し続けていきたい。(李睿天:りえいてん/宇大大学院2年・災害研究)
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スゴイ運転と思ったが、実は道路ガタガタ
能登のボランティアに参加したことのある友人に能登の塩を渡され「あなたなら行ける!」と強めに声をかけられ参加。友人から事前に話は聞いていたが、行って何ができるか、他の人に迷惑をかけないか、不安と緊張でいっぱいだった。当日、一緒に行く方達に会い、皆さんの優しい雰囲気に3日間大丈夫かもと思う。高速を進み、能登に近づくにつれてガタガタな道を進んで行く。すごい運転だと思ったが、後に地震で地盤が歪み道がガタガタになったことを知った。そんな道を進み宇都宮から7時間程かけて能登に到着。
●人と会う場の提供。足湯と酒場。
1日目午前中は「足湯」に参加。仮設住宅の集会場に足湯をセッティングし来る人を待つ。友達を誘ったり、馴染みのボランティアさんに会いに来られたりと参加者は10人程。一人ずつ足湯とハンドマッサージをさせていただく。家族や日中の過ごし方などを話してくれた。一人の女性は週に3日仕事をしているが、他の日は「みんな暇でしょ?」と仲間を集め雑巾を縫うなどしている。午後もハーバリウムの教室があると楽しそうに話してくれた。
夕方から「夕暮れ酒場」に参加。開店前から何人か集まってくれていた。女性の方が多く家族で来られる方もいた。杖でやってきた高齢の男性。知り合いはいないようで誰とも話さない。ビール1本とせんべいを食べ、みんなの様子を静かに見られていた。話かけると年齢や仕事など教えてくれた。特に男性の方にとって外出の機会は少なく、閉じこもりがちになってしまう。夕暮れ居酒屋の目的は、外に出ない方を外に出すこと。歩いて行ける夕暮れ酒場、男性にとってはたくさんの人がいる賑やかな場を楽しめたのではないか。定期的に来てくれて誰かと顔馴染みの関係ができたら目的達成+αの効果を得られると思う。
仮設住宅に住む人が足湯や酒場に参加することで、他者と交流できる場の重要性と定期的な場の提供の必要性を感じた。
●能登の現状と現地の方の心。私にできる復興支援。
2日目は、土砂に埋まった花壇に花が植えられるように土を平らにするなどの作業をした。粘土質の土はとても重かったが、みんなで行うと思ったよりも早く終わった。
復興は進んでいないと聞いていた。実際に現地を見て、土砂崩れの場所が多々あり、木々が倒れ道を塞いでいる所や流れてきた木が家の中に刺さっているなど町の様子は災害時のままの所が多かった。しかし、農家の人は田植えの準備を始めたり、花壇にサルビアを植えたいと話されたりしていた。現地の人達はボランティアの力を借りながら自分たちの生活に向けて進んでいるように感じた。一緒に活動したボランティアさんは粘土質の土を活かして何かできないか、風景の綺麗な所に人集める方法など復興に向けての提案していた。
今回初めて参加し、能登の方達の素敵な笑顔と温かい人柄に触れることができた。私に何ができたかわからないが、実際に行ってみて能登の現状、感じた事を人に伝え知ってもらうことが今の私にできることだと思う。出会えた能登の方達と3日間温かく一緒に過ごしてくださったボランティアさん達に感謝したい。(小林菜津子/宇都宮/作業療法士)
最初にぶつかったのは片道9時間の壁…
4月10日から12日までの能登ボラに参加するため、10日夜6:00とちぎボランティアネットワークの事務所からワゴン車に乗り込んだ。私は乗っているだけだったが、9時間の道のりで早くも心が折れかけた。地震の影響で地面が凸凹になり、車が大きく揺れることも多かったが、無事、宿である金蔵集会場に深夜3時に到着。運転手のみなさん、本当にありがとうございました。
家も畑もなくなった。仮設住宅暮らしの生きがいはなに?
数時間寝て1日目の活動がスタート。午前中は足湯を行った。足湯につかっているお客さんにハンドマッサージをしながら、お話を聞いた。午後は夕暮れ酒場を開催。私もビールとおでんを買い(400円)、みんなで乾杯し、おしゃべりしながら楽しんだ。
皆さんとお喋りして気が付いたことはズバリ「生きがいの大事さ」だ。「地震と豪雨によってこれまで暮らしてきた家や畑、仕事を失い、仮設住宅に来てからは毎日ぼーっと過ごしている」と寂しそうに話す人や、「仕事がある人がうらやましい」と嘆く人が多かった。生きがいや人生の楽しみを突然失うことの辛さは計り知れない。私はなんと返したらいいかわからず、その場では相槌を打つことしかできなかった。
その一方で、NHKの夜ドラ「ラジオスター」(月~木22:45-23:00)が新たな楽しみになっていると感じた。「○○さんが映ってた」「俺も映ったんだ」と話す顔は楽しげだった。足湯や夕暮れ酒場の活動も能登の皆さんの楽しみになっているといいな。
楽しい未来が待っている!私(20)より若々しい柴野さん(80)
2日目は土砂をかぶってしまった花壇の整備からスタート。粘土みたいな土砂を耕して、平らにするのはかなり力が必要だった。その花壇にこれから植物を植える計画をしているのは80歳の柴野さん。他にもいろんなものを育てていて、最近マスカットの栽培をはじめた。柴野さんの前には未来しかない! 就活を目の前にして足踏みしている自分の目には柴野さんが眩しく映った。
私もできることからやってみる! 「家族&友達 巻き込み計画」
倒れたままの木。ブルーシートで覆われた家。地震によって隆起し、遠くなった海岸線。今まで写真で見てきた光景を実際に見て衝撃を受けた。故郷がこんな状態になり辛いはずのみなさんに「大学生頑張ってね」と声をかけてもらい、私のほうが励まされてしまった。2日目の昼に集会場を出た。また9時間かけて宇都宮に戻る。帰り道は辛いどころか、むしろ次に能登ボラに参加するときのことを考えていた。次回からは学校の友達や家族を巻き込み、回を重ねるごとに能登ボラの輪を広げていきたい。(野田小百合/宇都宮大地域デザイン科学部3年)
●驚愕した「継続する力」とその源泉
私が最も心に残ったのはボランティアに参加されている方々の継続する力でした。まず能登まで栃木から車で片道9時間、およそ550kmの長丁場の道のりを移動しました。私は長野から相乗りしましたが、この往復を震災発生の2024年元旦から今に至るまで継続している点に驚きです。
私は思わずその力がどこからくるのか、ボランティアメンバーに尋ねました。ある方は親戚が台風の被害に遭ったことをきっかけに、住居の泥はきを手伝い、課題が自分事化されて、ボランティアをするようになったとのことでした。苦労もある一方、その時間は日々の生活にメリハリを与える大切なものだそうです。
●耕作放棄地の整備を支援。体を動かすのは気持ちがいい
私は今回の支援活動で5年放置された畑に縦横無尽に伸びるツタ(葛)を刈り取る作業をしました。昨秋に大きな草は刈ってあり、他のボランティアグループ4人とともに、草刈り機や鎌でツタを切り、熊手で集め、燃やすという作業を7人が共同で実施しました。
久しぶりの運動で体の節々が筋肉痛になりましたが、太陽や風を感じながら体を動かすのがとても心地よかったです。畑の景色はみるみる美しくなり、地域の方に喜んでいただけました。
●仕事後の団欒と人の温もり
ひと仕事を終えた後には地元の温泉に入り、メンバーと団欒の時間を楽しみました。参加者のバックグラウンドは様々で、ボランティア以外にも海外旅行やお酒など自分の知らない様々な話を聞くことができました。宇都宮で過ごした学生時代に触れた栃木人の温かみを思い出し、ホームグラウンドに帰ってきた安心感がありました。
●また参加します。いつかお会いしましょう
このボランティアは毎月第2・第4金曜日に実施しています。活動拠点とする金蔵地区は歴史的に外部との交流が盛んな場所であり、活動に初めて参加する方でも安心です。私もまた参加しますので、いつかお会いしましょう。(青木岳大/長野市)
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気合入れすぎの1年間、でした!
15年前、3.11当時は川崎にいて宿ったばかりの双子がお腹にいる状態だった私にとって、災害は身近なものだった。でも当時は宇都宮に里帰りして産める病院があることに安堵していたし出産後は育児に追われていたしできるることなんて限られていた。
「能登の震災で何かできことはあるのか役に立てるのか」と思いスイッチが入ったのは昨年。事前ミーティングまで出て行く気満々だったのに、金曜発のスケジュール時間をまちがえ、出発時間に間に合わず!それから1年見送った。
念願叶っての今回。満々のやる気は維持していたけれどやっぱり不安もあった。道中長いし、気持ちだけではもちろんダメだから体力持つのか、見知らぬ人たちと行けるのか、留守にする間の家庭はまわるのか、などなど。でもまた1年待ってなんかいられない、行く!と決めてまずやったのは持病の薬確保のための通院、そしてヘアカット(笑)。そしてそして夫への上目使いからのお願い(苦笑)。こんな段取りで向かった集合場所のVネットでは拍子抜けした。もっと学生や学生並みの体力ありそうなメンバーが揃っているのかと思いきや・・。想像とは真逆。定年退職された方々。もう何回も何十回も参加されているという。私もできる!と確信した瞬間だった。
メンバーは様々な背景を持ち合わせている方々、面白くあったかい人ばかり。終始笑い声が響く。さらには宿泊場所の集会所では午前3時到着なのに、灯りや暖房をつけて待ってくれている人まで。
わかめ漁89歳、黒ニンニクくれた。じぃぃんとした。
数時間寝てメンバー同士で作った朝食を食べ、私は個人宅で引き受けてくれた足湯のほうへ。
お一人で住んでいるという女性の素敵な家にあがらせてもらい、足湯の準備をした。前もって動画を見ていたものの、経験のあるメンバーにレクチャーしてもらった。いざ89歳の男性の足湯を経験。わかめ漁をやっている方、口数は少ない、隣で同時に始めた自治会長の話を頷きながら聞いている。足湯に浸かってもらっている間、ハンドマッサージをしながら話を引き出したかったのだけどできなかった。最初だからこんなもんかな…。後で分かったことに、この男性、一度帰って、また来て自作の黒ニンニク持って来てくれた。じぃぃいんとあったかくなる。おじいちゃんありがとう。初黒ニンニク実食。おじいちゃんの心も感じ甘酸っぱかった。
「話すことは放つ」こと。苦い思いを閉じ込めたままにしない
足湯が終わると隣部屋でお茶会。保育士の女性から、秋くらいからボランティアはめっきり減ったこと、仕事がある金沢市のような都市に親世代が行ってしまったので子どももさらに少なくなっていること、残っている子は人数少ないから好きな部活には入れず、今活動している部活に入っていることを聞いた。自宅を開放してくれた女性は、地震後の豪雨時には能登を離れていたのでそのときにいなかったことで災難を免れたけれどそのことが返って能登の人たちへの申し訳なさが残っていると話してくれた。聞くことしかできないけれど「話すことは放つ」こと。苦い思いを閉じ込めたままにしないで良かったと感じた。
夕暮れ。ポスティングで大盛況! 100円飲み食いイベント
別れを告げて一度、寝泊りしている集会所に戻り、またみんなでお昼をささっと済ませて夕暮れ酒場の準備にとりかかる。仮設住宅の集会所で夕方から2時間限定で開くもの。今回、メンバーが早朝にチラシを一軒ずつ配布していた。メインは日本酒とおでん。しかもおでんの種類を増やした。期待大!オープン時間前には集まり座り始めた。メンバーと急いでおにぎりを握る。地元ボラの坂本さんも手伝ってくれた。栃木産も含めた日本酒数種類、冷蔵庫にビール、大鍋におでん、おにぎり、お菓子スタンバイOK。すぐさま嬉しそうにしている高齢男性から100円を手渡される。酒ならどれでもいいと言う。次から次へと来て座る。用意した座席はあっという間に埋まった。みんな1杯じゃ帰らないから頬っぺた赤くして次を頼む。会話も笑い声も緩んだ顔もミックスされていい空間に。ちょっと飲み過ぎたような男性は家の前まで一緒に行った。世帯ずつの仮設住宅は避難場所よりはいいかもしれないけど、人との距離はどうなんだろう、週末酒場で男性だからこそ集えて思いを出せる場っていいなぁ、もちろん女性も来てくれていたのでみんなで食べたり飲んだりって昔からある行事と同じだと実感した。
大盛況に大満足の私たちも帰って温泉に行き、地魚の刺身を分け合い、早めに就寝。翌日はスーパーおじいちゃんの柴野さんの果樹園の整理やハウスを建てるための伐採とその整備。みんなで泥だらけになりながら半日作業して帰路に着いた。
何でも自力の能登ボラ。料理力、運転力、体力、逆境乗越力も付く!
さて初めて参加した能登ボラ。単独での参加は最初こそ緊張もあるが年代もバックボーンも様々な集団だからこそ新入りの受け入れも柔軟で許容力がある。長い移動、どこでも眠れる術や自炊もするので、ある材料で調理する手腕も身に着けられ、力作業ではジムに行くより鍛えられ、逆境を力に変える人生の大先輩たちにリアルに会い、被災先の方たちの笑顔と感謝は自分に充電された。こんな私(母親)が不在だから夫(父親)が頑張り家庭をまわし父親力も上げてあげ、ジェンダー平等にも貢献し、ちょっといいことしたなぁと自己陶酔。
そんな夫に留守の間の感謝を込めて「フグの卵巣糠漬け」をお土産に。猛毒なものも糠の力か発酵か無毒化されているなんて、日頃うるさくわめいている私(猛毒)に能登時間(発酵)をプレゼントしてくれたこと関連あるに違いない。能登ボランティアは第2・第4金曜日出発、次はどうですか?(山本緑)
■「ぼーっとすれば鳥の鳴き声」だけの中で、農家の底知れぬ気力を感じた
今回、私は 1 年ぶりに栃木ボランティアネットワークの一員として能登を訪れた。活動 1日目は、午前中は拠点近くの農家の手伝いをした。ビニールハウスの部品分けと桃の木の支柱をはずす作業だ。ボランティア 8 人でテキパキとこなしていき、あっという間に終わった。これを普段は 1 人(か2人)で行っているのかと考えると頭が下がる思いだ。
農家は自分の意思で自分が動かなければ何も始まらない。80 代のあの方(※写真左)のどこからその気力が湧いてくるのか。ボーっとすれば鳥のさえずりしか聴こえてこない静かで広大な自然の中で、底知れない気力を感じた瞬間であった。
その日の午後はゆうぐれ酒場を開催した。想定よりも客足が少なく、振り返りのミーティングで様々な課題があげられていた。事前の告知や酒場の目的について周知すること、看板やメニュー表の配置などなど試行錯誤しながらの運営なのだなと思った。
でも、改善点を見つけられることは、住民に対してうまくはたらきかけをしたい、何かきっかけを与えたいという気持ちをボランティア皆が強く持っているからなのだと思う。この思いが空回りではなく、対象となる住民にしっかりと伝わり良いはたらきかけとなることを期待する。
■私の能登は、新しい人とのつながりが生まれる場
活動 2 日目は女性チームで足湯をした。ボランティアの 1 人が、来てくれた住民に「折り紙でひな人形を作ろう」と提案すると、「狭くて置く場所が無いからね~」 「そんな器用じゃないし…」と言うものの、両面にきれいな柄のある折り紙と好きな色を各々が選び始め「 みんなで作ろう」ととても明るく前向きな雰囲気になった。順番に折り方を教えると隣の人同士でもう一度確認し合い、難しそうなら手を貸し、完成すると互いに褒め合い、照れくさそうにニコニコと笑顔になっていた。その後、足湯も実施し、帰り際「来てよかった~」と言ってもらい、そのような時間を一緒に過ごすことができて嬉しかった。
何度も能登にボランティア活動に行く中で、私にとって能登は、被災地としての場所ではなく、新たな人とのつながりが生まれる場所だと感じている。ゆうぐれ酒場や足湯を通して接した方はもちろん、道の駅で声をかけた人、温泉で熱いお湯が出てくるシャワーを教えてくれた地元の人、様々な人と関わることの充実感が、このボランティア活動にはある。特に能登ボラという同じ意志を持って出会った栃木ボランティアのメンバーは様々なバックグラウンドで日常では出会えないような世代の人たちだが、その人その人の色があり、集団としてとてもカラフルで活気あふれる雰囲気が、私は大好きだ。これだから能登ボラはやめられないのかもしれない。(守愛美:もり・まなみ/大阪大学看護学部・2年)
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■15㎞、大したことない。昨日と比べたら
今日は月曜日。午前中の仕事は職場(那珂川町馬頭)から一番遠い世帯への訪問。「15キロの移動は遠い! カーブも段差も多い、道が狭い」などいつも思っている。でも今日の私は違う。「なんていい道だ!」と車を走らせる。軽自動車が高級車に感じてしまう。
週末は5回目の能登のボランティア参加だった。真っ暗な道。「ジェットコースターに乗っているみたい」と誰もが言う隆起した道路。みんなで運転しながら金蔵集会所を目指す道路はずっと工事中。ハンドルを握る運転手にはずっとリスペクトだ。
■仕事仲間(移住者)に誘われ、「音楽隊」で能登ボラ・デビュー!
レディオベリーからは「さくら」の歌。能登ボランティア参加から1年が経つ。
昨年の桜が咲く頃、仕事仲間の相談支援専門員が能登に移住すると知った。「能登ボランティアで音楽隊に参加しない?」と声をかけてもらい、私は参加を決めた。音楽家さんとその仲間たちに交じり、何とか口を動かし、リズムに乗り、心を動かされた能登ボラ「音楽隊」だった。
■相談支援専門員の「地域課題解決・企画書づくり」のオンパレードだった
「足湯ボランティア」にも参加したくなり先輩ボランティアに教えてもらった。すると「田んぼで枝豆をつくる」や「夕暮れ酒場」など次々とやってみたいことが現れて参加した。
Vネットで企画されるボランティア活動は目的、目標、手段がある。もちろん課題も振り返る。職場の相談支援専門員研修で行う「地域課題解決のための企画書づくり」がオンパレードだ!!と思った。目的を理解し私は私の小さな目標を持ち、参加を続けたい。
■Vネット本体の「貧困化ニッポン!討論会」にも行った! 貧困観が拡がった。
今年1/18はVネット祝30周年事業もあり、「貧困化ニッポン。どうする?」で語られることも聞いてみたくなり参加した。職場では、男性の困窮支援の関わりが多いが、子供の貧困、ひとり親の困窮支援も増えている。幅広い世代の困窮支援、いろんな状況と様々なつながり、支援方法もそれぞれの立場によって違う、など・・・。私の職場ならどうするか・・・と思考が拡がった。
■体力もつく。援農ボラ+岬の階段300m
15キロの移動時間はあっという間だった。八溝の杉花粉が降り注ぐ家の玄関まで、支援物資が入った段ボールを抱えて登る坂道100mの門場はキツイ・・。
「あら? 今日の私は息が上がらない。鼻水も出ない。うそでしょ!」
ひとりニヤリとしてしまう。あ~あれだ!「金蔵の果樹園作業」で身体を動かした時間と能登半島のまっすぐな水平線を見たくて登った階段300mの成果だ! 日本海はどこまでも広く、穏やかに力強い波を繰り返していた。
「おはよー!!」いつもの業務がはじまる。思いもよらぬオーダーもあったが、体も心も余裕のよっちゃんだった。能登ボランティアは私の体と心を上手に動かしてくれているのだろう。うれしいことだ。令和8年度の私の能登ボランティアはどう続くか? ありがとう能登。ありがとうVネット。(檜山淑子/那珂川町社協職員:写真左から3人め)
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年末年始の下野新聞の一面に出ていた能登の記事で「まだまだ支援が足りていないこと、栃木から移住して支援されている人」のインタビューを拝見し、私に何かできないかと考え応募しました。
「待ってたよー!」&気遣う仮設くらし。【足湯・お茶会in町野】2/14 AM
「待ってたよ~」とVネットの車を見かけると、大きく手を振る女性の姿に驚きました。私たちの到着と同時に集会場には数人の方が集まり、そんなに楽しみにしてくれているのかと期待と不安が生じました。足湯でぽかぽかになったところで、「室外機に氷が付いて、カタカタうるさくて眠れなくてね。お隣さんにも迷惑かと心配で。市役所に相談しても1~2ヶ月かかるし。」との相談がありました。一緒に仮設を見に行くと、びっくりする程の氷が室外機に張り付いていました。慣れない仮設での生活でも近隣を気遣い、市役所の現状に諦め、Vネットが頼りにされていることを知りました。当日の活動は行ってみないと分からないとの事前説明に大きな不安と焦りでしたが、その場のニーズに応える多様性、臨機応変な対応が何よりも現地に求められていることだと思いました。
仕掛け作り⇒住民ができるように⇒発展見守る。【夕暮れ酒場in東大野】 2/14 PM
「なぜボランティアで酒場なのか?」、最初は全く理解できませんでした。もっと力仕事できるのにと不思議でした。しかし、オープンを待ち構え続々とお母さんたちが来られ、あっという間に満席。飛び交う笑い声に、意図的な交流の場作りが必要で求められていると分かりました。そして、ワンコイン(100円)での物々交換もほぼ完売。おでん、日本酒、チョコ、おせんべい等、想像を超える需要でした。その場で袋を開けみんなに振る舞い、次々とお喋りに花が咲いていました。口数の少ないおじさんからも、「あっちの男性におかわり届けて」と何度も注文が入りました。飲食店やコンビニもない町だからこそ、居場所が必須で、Vネットはそのための仕掛け作り、仕組み作りをしていることを学びました。そして何よりも、その集落で住民が継続してできる種まきを行い、その発展を見守るという重要な働きかけを実感しました。
復興を支える力としてのボランティア 【片付けin正願寺&仮設から引越し】 2/15 AM
住民から、お寺行事の行灯の片付けの依頼がありました。1人では大変な数ですが、数人でやるとあっという間でした。少しの困りごとを気軽に頼んでいただけることをとても嬉しく思い、今までのVネットとの関係性構築と感じました。
「ね~、困っとるげん。どないしたらええがやろか…」と一人の方が金蔵集会所に直接来られ、朝一番での相談でした。仮設住宅からのソファーや下駄箱等、大きな家具の運び出し依頼でした。見せてもらった仮設住宅の間取りの狭さと段ボールベッドは衝撃的でした。リフォーム後の自宅は仮設の6、7倍の部屋面積。そこに家具が運ばれとても満足そうで「泊まってもいいよ!」とのお言葉をいただきました。
町野の道路の大きな穴や土砂崩れ、傾いたままの家屋や電柱等は、住民の生活や心の深い傷となっており、復興支援には住民同士の交流やつながりも必要と思いました。一人では小さな力でも、集団になると大きな力が発揮できることも学べ、日常では体験できない貴重な経験に感謝し、今後も復興を支える力を身につけたいです。(大塚美幸)
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■当初の不安「邪魔だと思われたらどうしよう...」
今回、私はとちぎボランティアネットワークが主催する「奥能登・週末ボランティア」に、1/9-11の3日間参加しました。石川県を訪れるのも、能登半島に足を踏み入れるのも初めてでした。
災害ボランティアの経験も多くない私は、正直なところ「現場で必要なのは力仕事だけで、力がない人が行っても迷惑なのでは」「邪魔だと言われたらどうしよう」と、どこかで怖がっていたのだと思います。行きたい気持ちはあるのに、一歩を踏み出せない。そんな自分がいて、災害ボランティアを勝手に遠い存在にしていました。今回は過去に同ボランティア参加経験のある大学の友人からの勧めもあり、実際に参加する決心が付きました。
■夕暮れ酒場と足湯が教えてくれた「場」と「話」
実際の活動の中心は、仮設住宅での「居酒屋開店(夕暮れ酒場)」と「足湯ボランティア」でした(毎回固定の活動ではないそうです)。夕暮れ酒場は、私が想像していた“災害ボランティア像”を大きく覆しました。重いものを運ぶだけが支援ではなく、集まって話し、笑い、少し肩の力を抜ける「居場所」をつくることも、確かな支えになるのだと感じました。
足湯では、温かさそのものが会話のきっかけになり、近況や困りごとだけでなく、昔の暮らしの話、好きな食べ物の話など、いろいろなお話を聞かせていただきました。こちらが何か“解決”できなくても、うなずき、聞き、同じ時間を過ごすことが、安心につながる場面があるのだと学びました。参加者の方々は、見えない未来への不安を抱えながらも、日常の楽しみの一つとしてその時間を大切にしてくださっていました。
■「ゼロに戻す」だけでなく「プラスを生む」支援へ
今回の一番の気づきは、災害ボランティアは“マイナスになった地域を0に戻す”ことだけではない、ということです。0になってしまった地域や、そこで暮らす人々の「少し幸せな日常=プラス」を生み出すお手伝いも、同じくらい大事なのだと初めて実感しました。
一方で、能登半島の中を移動するたびに、道路の片側が封鎖され交互通行の信号が続く景色を何度も目にしました。私の暮らす地域ではめったにない光景が、ここでは日常に溶け込んでいるようで、驚きと同時に「こんな状況が当たり前になってしまっていいのか」というやるせなさも湧きました。大地震、そして豪雨災害と重なる困難の中、すぐの復旧は簡単ではないかもしれません。それでも、いつかこの“日常”が本当の意味での日常に戻る日を願い、私もできる形で関わり続けたいと思います。(伏本遥/宇大・大学院2年)
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1月9日から11日まで、初めて能登の災害ボランティアに参加しました。私自身も震災で被災した経験があり(宮城県)、「被災者の方々に寄り添った支援がしたい」という思いで向かいました。一方で、正直なところ「自分に何ができるのだろう」「役に立てるのかな」という不安も抱えていました。
■夕暮れ酒場で見えた、
“お金があるからこそ生まれる交流”
今回参加した活動のひとつが、仮設住宅で居酒屋を開き、住民の方々の憩いの場をつくる「夕暮れ酒場」でした。
最初は、「なぜ支給ではなく、お金を払ってもらう形にするのだろう」と疑問に思っていました。しかし、いざ開店してみると、「○○さんのために一杯買わせて」「今日はあなたにごちそうさせて」
そんな掛け合いが自然に生まれ、お互いをねぎらい合う温かい空気が広がっていきました。利益が出ないように最大限調整しているのですが、“お金を介するからこそ”生まれる交流があることに気づかされました。
また、能登のボランティアでは「仮設住宅からなかなか出てこない男性陣にどう楽しんでもらうか」が課題だったそうです。今回、男女問わず多くの方が足を運んでくださり、楽しそうに過ごす姿を見て、課題解決の糸口が見えたような気がしました。
■ 足湯ボランティアで広がった小さな女子会
もうひとつの活動は足湯ボランティアでした。この日は女性の参加者が多く、自然とプチ女子会のような雰囲気でした。足湯をしながらお話をさせていただく中で、「仮設住宅だとやることがなくて退屈なの」。そんな声も多く聞かれ、こうしたイベントがもっと頻繁にあればと思いました。
私がネイルをしていたこともあってネイルの話になり、「爪がかわいいだけで、なぜか一日気分があがるよね」といった話もしました。次に行くときは、ネイルの時間もつくれたらいいなと密かに思っています。
▮ 通い続けて、顔なじみになって…ようやく再生
活動初日に、「復興よりも再生へ」という言葉を聞きました。元に戻すのではなく、新しい形で暮らしを取り戻していくこと、その考え方を軸に、地域づくりを進めていきたいとおっしゃっていました。そして、そのためにボランティアとしてできる支援は、通い続けて、顔なじみになって、ようやく少しずつ見えてくるものなのだと実感しました。
私は今回が初参加でしたが、これまで通ってきたとちぎボランティアネットワークの方々が築いてきた信頼関係のおかげで、自分にも何ができるかが少しずつ見え始めた気がしました。今まで尽力してくださっている方々に、心から感謝しています。
また、今回学んだことは、話を聞くこと、一緒に楽しい時間を過ごすことも立派な支援になるのということです。参加する前までは、ボランティアというと力仕事や専門性が必要だと思っていましたが、仮設住宅から外に出て、楽しい時間を過ごしてもらうことも、心のケアとして重要だと感じました。この活動の輪がこれからも広がっていくことを願っています。(木村有里/宇大大学院2年)
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1年半ぶりの能登、地道な草刈が確かな貢献になる
今回の能登ボランティアに参加し、輪島市町野地区を拠点に休耕田の草刈り、仮設住宅での夕暮れ酒場、そして豪雨被害を受けた海岸で被害を受けた旅館の片付け作業を行ってきました。私自身、能登での活動は1年半前の穴水町での地震災害支援以来で、久しぶりに訪れた能登は震災の爪痕を残したうえに加えて、昨年9月の豪雨被害で傷ついた町野の風景を目のあたりにして、復興には時間がかかるという現実を改めて実感しました。
豪雨の影響で手入れが行き届かなくなっていた田んぼには、自分の背丈よりも高い草が生い茂り景観を損ねていましたが、仲間と草刈り機を使いながら作業を進めると、鬱蒼としていた場所が次第に明るく開けていき、元の景観に近づいていく実感があり、地道な作業でも確かな貢献に繋がっていることを感じることができました。
被災旅館の片付け。1年間、一人でやってきた奥さんの手伝い
仮設住宅での夕暮れ酒場では、料理や飲み物を用意した集会所が住民の皆さんの笑顔であふれ、「こんな場所があると気がまぎれる」「誰かと笑って話せるのは久しぶり」といった声が聞かれ、仮設での生活は不自由なことも多い中、こうした交流の場が皆さんの心の支えとなる素晴らしい企画でした。
さらに被災旅館の片付けでは、お一人で片付けている家主の方と一緒に家財の運び出しを行いましたが、「その一つ一つに思い出があるけど、捨てるより仕方がない」とおっしゃっていたことが強く心に残りました。
「災害から1年、ずっと来てくれる栃木の皆さんに感謝」
一年半前に穴水町で活動した時と同じように、今回も現地で多くの気づきがあり、支援が必要な時期はこれからも長く続くでしょう。「災害(水害)から一年経つけど、今も変わらず来てくれる‟栃木“の皆さんに感謝しています。」とおっしゃる方がおり、とちぎボランティアネットワークの継続的な活動が復興の一助となっていることを実感しました。これからも自分できる事をできる形で関わり続けたいと思った3日間でした。参加させていただきありがとうございました。(2025年11月21日~23日参加 矢口雅章)
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現地に行く決断から、新たな学びや気づきを得る
能登ボランティアに参加するきっかけになったのは、ラジオ学生として能登ボランティアの小林さんにインタビューを行ったことだ。
「現地に行けば必ず自分にできることがある」という言葉が私の心を動かし、まずは自分の目で現場を見てみたいと思った。実際に活動してみると、集会所で足湯をしたり、人生で初めての草刈機を使って田んぼの草刈りをしたり、様々な活動を行っているうちに、あっという間に帰りの出発時間になってしまった。今回はその中で印象に残った出来事と感想を紹介する。
小学生の会話は「小中統合になる話」「避難所の話」
土曜日に「夕暮れ酒場」を行った仮設住宅の集会所で、小学生の子どもたちに出会った。元気いっぱいの小学1年の女の子が私に話しかけてくれて、学校生活の話やかけっこなどで一緒に遊んだ。その後に集まった小学4~6年生の子と帰り道に話を聞いていると、小学生らしい何気ない会話の中に「避難所」という言葉が自然に出てきたことに驚き、印象に残った。また、小中学校が統合して義務教育学校になることから、新たな校章に関するワークショップを行っている話もしていた。最初は楽しそうに話していたが、同じような口調で少し面倒だと呟く声には、子どもたちの複雑な気持ちが滲んでいた。小学生たちの会話から、非常時の生活が学校生活にも影響していると実感し、それでも前向きに生きている小学生の姿が強くたくましく見えた。
災害でできた新・絶景! 自然の美しさと残酷さも見た。
日曜日は、筋肉痛が残った体で残りの草刈りを行った。「草刈機の操作は男性の仕事」という固定観念を持っていたが、実際に作業してみて自分も扱えるし、作業終了後には大きな達成感を得た。この機会が無ければ挑戦しなかったかもしれない。19歳になった今でも、新しいことに挑戦してできるようになった瞬間の手応えが、嬉しさとして心に残った。
作業後に、南志見から珠洲市の塩田までの海岸沿いを車で走った。雲がかかった空の下でも海は綺麗で、荒い波の音も心が落ち着くような気がした。しかし、浜辺には流木が積み上がり、災害の爪痕が残されていた。海の反対に目を向けると、国道は土砂崩れで通行できず、見たことのない白や黄色の岩石の上に、新しい曲がりくねった道路が建設されていた。自然の美しさと残酷さが合わさった場所が存在することに衝撃を受けた。能登で見た美しい景色が自然によるものである一方で、地震や土砂災害を引き起こしたのもまた自然であることに気づかされた。今回のボランティアでその場所に生きる人の強さと、自然の美や脅威を知った。そして、能登が以前よりずっと身近な存在になり、この場所の為にもう一度何かをしたいという気持ちが自然と湧いてきた。(井本涼菜)
■先祖代々の田んぼを直し、米作り!
私は能登半島の先端、珠洲市長橋町の棚田の復田作業をお手伝いしています。最初は2024年7月に母校の金沢工業大学のOBとして「揚げ浜式塩田及び周辺地域の復興活動」に関わったことがきっかけで、海辺の塩田を登った急斜面の上にお住まいの国吉さん(70代)と出逢いました。
国吉さんの田んぼは震災で水路が崩れ、ため池からの水が引けない状態でした。片足が不自由で「もう原野に戻してしまおうか」という思いと「先祖代々の農地を自分の代で原野に戻してしまってよいものか」という葛藤のなかで、でも諦めきれずに農機具を手放さずにいました。
お宅を初めて訪れた時、歴史ある佇まいと立派な神棚、そして里山と海が一体となった田畑の景色に感動しました。海辺の揚げ浜塩田へつながる山・里の暮らし、時代を超えて営まれてきたこの景色は未来に伝えたい地域の宝だと感じ、国吉さんと栃木の仲間と一緒に農地の復旧に取り組むことにしました。
■寂しい仮設の印象が変わった「夕暮れ酒場」
とちぎVネットの活動に参加したのは、つい先月(10月)です。真岡で有機栽培の稲作の指導を一緒に受けている友人から「毎月2回能登でボランティア活動がある」と聞き早速連絡しました。とちぎVネットが拠点にしている輪島市金蔵は、長橋から車で30分の距離です。向かってみると、そこは昔話の景色のような美しい棚田の広がる地域でした。そして金蔵の集会所に集う皆さんが、農を軸にした地域復興活動に精力的に取り組んでいます。私が活動する長橋地域とも連携した活動をしていきたいと思いました。
私が参加したボランティア活動は、刈り払い機での草刈りと仮設住宅での夕暮れ酒場です。仮設住宅の印象は(時節柄、急に冷え込んで来たせいかもしれませんが)人気のない・工事関係者以外に外を歩いている人があまりいない、ひっそりとしている、というものでした。夕暮れ酒場でも、皆さん入ってくる時はなんとなく縮こまった感じでしたが、段々に笑い声が起こり、会話がにぎやかに交わされ、歌謡曲の合唱が始まりました。おつまみが足りなくなると「家から持ってくる!」とおかずが盛られた大皿を手に戻られた女性もいました。お酒を飲まない人も、工事関係の人も、一緒にその場を楽しんでいる様子にとても嬉しくなりました。
■「心も体も元気に」能登は可能性に溢れている
自然の恵み豊かな能登は、都市部が過密化すればするほど、より魅力を増すのではないかと思います。海・山・里の自然を五感で身近に感じ、新鮮な旬のものを人々と分かち合って食べる。そんな日々を過ごしていると、心も身体も元気を取り戻すような気がします。ドローンの物流が盛んになればインフラの物理的課題が変化するかもしれませんし、能登は可能性に溢れていると私は思います。ぜひ栃木の皆さんにも能登の自然に触れ、人々との交流を通じて能登の魅力を感じていただきたいです。(村上光子)
「お茶はいらない!」
「とちぎさんが、お酒飲ませてくれるげといね(くれるそうだよ)」。
仮設の集会所の外に、何度か来ているおばあちゃんが散歩していたので、足湯と、夕暮れ酒場屋台の事を伝えました。しばらくしてお友達を連れて足湯をしてお茶していました。
屋台の時間までまだ少し時間があったので、おかわりの飲み物を聞いたら「お茶はいらない !」ときっぱり。
「日本酒を飲みたいげわ」という強い意思が100円を握りしめた手で伝わってきました。お酒を飲むのを楽しみにしているとハッキリわかりました。
「おばあちゃんたちは、過去にお酒を何時飲んだか?」
「覚えていない」
忘れたくらいの久々の日本酒をとっても待ち遠しく黙って座っている。そのおばあちゃんたちは日々、高齢者の椅子付き手押し車や、介護杖を持ち歩いている人もいます。「帰り道は大丈夫かな」と少し案じましたが…。
「2杯目はいらない! これでもう充分やさかいに」
夕暮れ酒場で飲みたいと言うおばあちゃんたちの1杯の日本酒を飲んでいるお顔は、言葉に表現できない満足感。皆さん無言で、マスクを急いで上げ下げしながら、おつまみの芋類をぱくぱく食べ、お酒が入っていた湯飲み茶碗は空になり、夜空になってきました。
「2杯目はいらない! これでもう充分やさかいに」
日々、部屋にはテレビの声が流れ、でも今日は集会所でにぎやかな声が聞こえ、引き込まれるように皆さんの声を聞いていたい。
「この場に一緒におりたいげわ」という表情で黙って座って余韻を楽しんでいるおばあちゃんたち。
帰る姿は、玄関の外で椅子付き手押し車や、杖を持って歩いて行く。今、日本酒1杯やビール1缶飲んでいたとは思えない姿に、何か心が満たされた背中に見えました。
仮設の夜、飲む場所もないまち
ふと集会所に顔をみせに来た女性も「私、お酒よう飲まんげわ!」と言ったものの、栃木の地酒で女性に飲みやすいわよと話したら「1杯だけ飲んでみようかなと」快く喜んで最後まで会話を楽しんでいました。
アルコールを飲めない方々も人々との交流が楽しそうでした。今回初めての夕暮れ酒場。1杯100円儲けなし4時から6時の2時間でした。
その後私たちボランティアは、別室でミーティングして終わったのが7時前。でもその時間でも自治会の役員さんや足湯で来た女性たちは、まだ帰りたくない様子で残って雑談をされていました。
あたりが暗くなった仮設の夜空。住民の皆さんはとても晴れやかなスッキリとした表情で帰られました。 (aiko)
10月10-12日に、人生ではじめてのボランティア活動に参加しました。緊張しながらの参加でしたが、終わってみるとボランティアみんなの強い想いと、町の人の優しさ、前向きな姿、まだ不安、不便、人の目を気にしてしまい自分を抑えてしまうような姿などを感じた三日間でした。
夕暮れの一杯「またやって!」
活動の一つに、広大な土地(休耕田)の草刈りがありました。刈ってもまた生えてくる草との戦いの中で「大豆まき」に挑戦されたそうです。日照りが続き育ちませんでしたが再度挑戦するも、大豆の中身が育たず断念。今は次に向けて思案中との事です。そして今回も広大な土地の草刈りをしていました。
もう一つの活動は、狭い仮設住宅の人が家に籠らないように今回は特に「男性が外に出てくるような企画」を立てました。
夕暮れ時の「一杯100円の居酒屋屋台」です。来たのは10人位、男性も女性も同じ位の数で、80代の女性も90代の友達誘って来ていました。とても楽しく、皆さん「待ってました!」という感じでした。初めての企画なので今後が楽しみです。ボランティアは物資を与えることだけではないと改めて知ることができました。
手伝いのボランティア増えてほしい
私は足湯のボランティアをしました。震災から1年9か月、豪雨災害から1年、町の人の心の中を想像しながらお話ししましたが、何人もの人が「今が幸せ」と前向きな言葉を頂きました。翌朝、集会所の玄関にお野菜の入った袋に「昨日は足湯ありがとう」の文字。これまで寄り添われた先輩ボランティア皆さんと地域の方々との心のつながりを見せて頂きました。
「また町野町の素敵な風景を見てみたい」と想わせて頂きました。これからもまだまだ続く復興支援ボランティア活動。お手伝いのボランティア方が増えていくことを願います。(星野明美)
夜中3時着。真っ暗
8月の第2金曜から日曜にかけて、はじめて能登ボランティアに参加した。宇都宮市内にある事務所に集合したのは金曜日の午後18時ごろ。私を含めて大学生が3人とその他にも初参加の人も複数人いて、緊張しがちな私でも安心した気持ちで馴染むことができた。
宇都宮を出発は19時頃。そこから車での長旅が始まった。途中何度か夕食休憩やトイレ休憩をはさみながら、能登に着いたのは午前3時ごろ。辺りは真っ暗で何も見えないから「能登に来た」という実感は無かったが、グーグルマップの現在地を見て長距離を移動したこと改めて気づいた。
海の近くで足湯。豆大福づくりにワクワク
1日目の土曜日は、曽々木振興センターで足湯の会をした。来てくれる方々に足湯でリラックスしてもらいながら、手のマッサージをして冷やしたタオルでリフレッシュしてもらう。窓から綺麗な海と空が見える位置で、心も体も視覚的にも心地よい空間になったのではないだろうか。午後は地元の方が提供してくれたもち米と小豆を使ってみんなで豆大福を作った。豆大福をすべて1から作ったことは初めての経験で、終始ワクワクしていた。
「笑顔=不安がない」ではない。
2日目は町野の仮設住宅で足湯をした。あいにくの雨で来てくれる方は少なかったが、その分ひとりひとりとじっくり話せた。印象的だったのは、「笑顔=不安が無い」ではないということ。能登で出会う地元の皆さんはとても明るくて笑顔にあふれていると私は感じた。けれど、足湯の時間を通して時間をかけてコミュニケーションをとると笑顔の奥にある感情が見えてくる。ぽつりぽつりと当時の状況を話し始めたその表情から、未だ残る不安や恐怖を感じ取った。
いま、能登の状況を知っている人はどのくらいいるだろうか。能登を気にかけている人はどのくらいいるだろうか。全国ニュースで多く取り上げられたのはやはり災害があった直後であり、今はあまり報道されていないように感じる。しかし、報道されていないからと言って能登の状況が元に戻ったわけではない。私が見たのは、青い海・青い空・美しい緑があふれる能登。明るくて優しく話してくれる地元の人たち。けれど同時に、1階が押しつぶされたままの家屋や土砂崩れで茶色い土がむき出しの森、そして笑顔の裏に不安を抱える人たちも見た。どれも本当の能登の姿。テレビや新聞の情報だけでは分からない痕跡がまだ残っていたのだ。私は今回のボランティアを通し、実際に行って、目で見て、話して、自分の心で感じることの大切さを学んだ。これを読んでくれたあなたにも、ぜひ能登ボラに参加してあなたの心で感じていただきたいと思う。(ラジオ学生とま)
私は大学で災害に関する研究や教育をしていますが、いざ災害が起きて現地に足を運ぶと、「自分に何ができるのだろう」と戸惑うことがあります。特に私は運転や農作業、力仕事が得意ではなく、「本当に役に立てるのか」と不安に思うこともあります。週末ボランティアに参加したいと思っても、出張や家族の予定が重なることもあり、行けない理由(言い訳)はいくらでも見つかってしまいます。金曜午後の授業を終えて夜に出発し、日曜の夜に帰宅するまで家を空けるため、家族と週末を過ごせない寂しさを感じることもあります。
「足湯」で話しする。「その場で、共に、できること」
それでも現場に行ってみると、片づけや清掃といった作業だけではなく、被災された方のお話を聞いたり、生活のちょっとしたお手伝いをしたりと、さまざまな役割があることに気づかされます。特に印象的だったのが、「足湯」を通じた傾聴活動です。これは洗面器などにお湯をためて足を温めてもらいながら、手や肩のマッサージをしたり、ゆったりと会話をすることで、心のケアや交流、ニーズの聞き取りなどを目的とした支援です。被災された方が安心して話せる場をつくることで、少しでも気持ちが軽くなるようにと願いながら活動しています。ボランティアは「特別な技術を持った人」だけができるものではありません。「その場に行き、共に時間を過ごし、できることをする」こと自体が、支えになるのだと実感しています。
「よりそう」は、行政とは違う支援
9月14、15日に行った足湯での傾聴活動では、仮設住宅が地震前の家に比べて狭く、ストレスがたまるというお話や、集会所でクラフト作りをして気分転換をしているというお話、肩こりで眠れないという悩み、お孫さんの勉強のことなど、さまざまなお話を伺いました。中には、地震直後に家屋の下敷きになり、近所の人に引き上げられて助かったものの、夫は救助が間に合わず亡くなられたという、胸が締めつけられるような体験もありました。マッサージをしながら話を聞く中で、何を質問すればいいのか、どのように返事をすればいいのか、相槌や表情はどうすればいいのかと悩むこともあります。特に初めてボランティアに参加する場合や、初めて出会う方との会話では戸惑うことも多いです。それでも、足湯の後にすっきりした表情で「ありがとう」と帰られる姿を見ると、少しほっとします。行政は道路や橋の復旧、学校や住宅の整備といった大きな支援を担っていますが、それだけでは届かない部分があります。日々の暮らしの困りごとに寄り添い、心に耳を傾けることは、ボランティアだからこそできる大切な支援です。その存在は、復興の過程で欠かすことができません。
授業で学生がボランティアを報告。「私もできるかも!!」
私は大学の授業で被災地の様子を伝えていますが、それを聞いた学生が「自分も行ってみよう」とボランティアに参加してくれることがあります。これまでに数十名の宇都宮大学の学生が奥能登に行き、足湯をしたり、草刈りをしたり、炊き出しをしたりしました。中には、東北や栃木での被災経験を持つ学生もいれば、マレーシアや中国など海外から来た留学生もいます。彼らは宇都宮から8時間以上かけて現地へ行き、精一杯活動してくれました。そして、その学生たちが授業で写真を交えながら自分の言葉で体験を報告すると、それを聞いた別の学生が「私もできるかもしれない」と思い、また新しいボランティアにつながっていきます。こうした「学びと実践の循環」が広がっていくことを、とても心強く感じます。一緒に活動した仲間や現地の方々にとっても、その存在が励みになっているのではないかと思います。
「また来ると言ってもらえるとほっとする」
被災地は時間の経過とともに情報や注目が薄れがちです。しかし、どこにいても関心を持ち続けることは大切です。今は情報技術が発達しており、現場にいなくてもできることはたくさんあります。それでもやはり、現地に足を運び、人の声を聞き、共に考える経験は、かけがえのない学びであり、被災者の支えになります。
復興は長い道のりです。一人ひとりの力は小さくても、それが積み重なれば大きな希望になります。どうか多くの方に被災地へ関心を寄せていただき、可能であれば現地に足を運び、被災者に寄り添う活動に参加していただければ幸いです。別れ際に「また来ます」と声をかけると、「また来ると言ってもらえるとほっとする」と話してくださった被災者の方がいました。その言葉を胸に、これからも現地を訪れたいと思います。(飯塚明子/宇都宮大学)
現実は重い「いつまでいるんかな」
8月22日~24日の「能登地震の週末ボランティア」に参加しました。現地に入ってまず驚いたのは、震災から1年半も経つにもかかわらず復興が十分に進んでいない現状でした。倒壊した建物や手付かずの場所が多く、時が当時から止まっているかの様に感じられ被災された方々のご苦労を目の当たりにしました。
25日の支援ではお茶会に参加しました。皆で話す場だったので思ったほど緊張しませんでした。しかし「いつまで私たちは仮設の生活をするのか」という言葉を聞いたとき、場の空気が一瞬暗くなり、その瞬間利用者の方々が置かれている現実の重さを改めて感じました。
26日の支援では足湯を担当しました。正直に言うと最初は無理に話題を考えたり、「これを話していいのかな」と考えながら会話してました。しかし皆さんが足を温めながら少しづつ笑顔になっていく様子を見て、無理に話しを作らなくてもいいのかなと思いました。会話が途切れる事もありましたが、相手の様子を見ながらよりそうことの大切さを学ぶ良い経験になりました。短い時間でしたが利用者の方と穏やかなひとときを共有できて良かったです。
新潟中越地震以来20年ぶり!
今回、支援に参加したきっかけは、東日本大震災の時に「石川県のFKキッズ」という団体が県北の子どもたちの事を思い、石川県に保養に招いて下さったことでした。本当によくしていただきました。
私は現在、介護福祉士を目指す専門学校の2年生です。過去にたくさんの方々にお世話になった経験から「残りの人生は人助けに関わる仕事に就こう」と決意しておりました。
とちぎボランティアネットワークには新潟県中越地震以来約20年ぶりでした。それにも関わらず当時と変わらず温かく対応下さり、大変ありがたく感じました。また機会を作り参加させていただきたいです。大変お世話になりました。(内山)
私は今回初めて災害ボランティアに参加しました。自分自身はじめて被災地の方とお話した機会であり、能登の復興はまだまだと知る機会でした。
「もし、停電したら・・と、眠れない」 簡単には癒えない心の傷
1日目はまず海まで50mの曽々木振興センターで足湯をしました。百歳体操を終えた地元の人が主で、私も手のマッサージなどをしながら皆さんの話を聞きました。最も印象に残っているのは「震災のことが今でもフラッシュバックしてしまう」という話でした。仮設住宅がオール電化のため「もし電気が止まったら」と寝る前に考えて不安になるとのことでした。停電して、食べ物が全部だめになった経験を話してくれました。私は仮設住宅で安心できる設備が整っていても当たり前に不安になるし、心の傷は簡単に癒えるものではないと実感しました。
午後は別の地区の集会所で地元の人がくれた餅米やあんこを使って豆大福を作りをしました。ケース2個分の豆大福を作り、地元の皆さんが協力してくださって成り立っているボランティアだと感じました。参加者が少なかったので仮設住宅に住んでいる人にも食べてもらえたら嬉しいと感じました。
雨の日の仮設集会所に大勢の人が来る理由は、「ぼーっとしてるしかない」から
2日目も仮設住宅で足湯でした。この日は朝からひどい雨で、外での作業ができない天気でした。そのためか家にいる人たちが沢山訪れてくれました。仮設住宅にも人が集まり話をする機会を作れることは非常に重要だと感じました。特に「雨の日では農作業もできず、家でぼーっとしてるしかない」という人も多くて、こういう機会があることは生活に楽しみを持たせるために必要だと感じました。
また、小学生の子は「子供が少なくて外で遊ぶ場もなくて、スポーツはできてない」といいます。集会場でもタブレットのゲームで遊んでいましたが、雨なので外は無理と思い話しをするだけでした。今度は外で一緒に体を動かす機会を作ることができればと思います。
今回のボランティアで、関心を持ち続けることの大切さを改めて感じました。「住民が日常生活を送ることができれば、復興になるのか」と考えるとそれは全く違うと思いました。災害で仕事場がなくなり町外に出ていかなければいけなかった人や、住宅の撤去ができずに仮設住宅にとどまっている人など、テレビでは報道されていないが災害をきっかけに何かを我慢したり、制限したりして生活を続けている人が多くいました。その問題が今も解消されず、現在でも残っていることから災害ボランティアは一時的ではなく継続していかなければならないのだと肌で感じた。そして今後も機会があれば参加したいと思います。(水嶋遥菜/宇都宮大学地域デザイン科学部4年)
能登半島の北部、海と山がせめぎ合うように連なる奥能登の輪島市へ向かう車中で、一年ぶりの私は窓の外に広がる深い緑を見ながら、自分が中国人としてここでどんな役割を果たせるのだろうかと考えていた。能登半島地震から1年半が経ったとはいえ、過疎と高齢化は進み、耕作放棄地も目立つと聞く。そんな土地で私に与えられたのは、草刈り、豆まきといった、ごく素朴で、けれど住民にとっては切実な作業だった。
「人手が足りなくて草が伸びると、ほかの復興作業もできないさ」
朝七時、金蔵にある小さな集会所に集合すると、キッチンから淹れた味噌汁の香りが漂う。簡単な打ち合わせの後、慶願寺で草刈りの仕事を始めた。前回の草刈りの経験があるので、今回の刈払機の使いは結構余裕であった。刃が草に食い込むたびに、ずっと忘れていた土と植物の匂いが鼻腔を満たし、汗の滴とともに異国であるはずの土地が少しずつ身体になじんでいく感覚があった。「人手が足りなくて草が伸びると、ほかの復興作業もできないさ」──その言葉を聞いた瞬間、私の中で「草刈り」は単なる整備作業ではなく、集落の暮らしと誇りを守る最前線だと思い至った。
動画で見た・流しそうめん! やりながら「境目」を考えた。
午前の草刈りを終え、簡単なおにぎりを食べた後、大豆の種まき仕事が始まった。農作業は初めてだったから、何をどうすればいいのかまったくわからなかったが、皆様に親切で優しく扱われ、より楽な労働をしながら勉強させてもらった。豆まき機から落ちた大豆を埋めながら、私は「境目」について考える。日本と中国、海と山、人と自然、そして都市と地方。奥能登はそれらの境界がにじむ場所だ。ここでは海風が田んぼを潤し、山の沢水が漁港を冷やす。私自身もまた、国境を越えてこの小さな畑の一隅に立ち、言語や文化の隙間を自分の手で少しずつ埋めているのかもしれない。
午後二時半ぐらいに、農作業の仕事がしばらく休み、楽しい流しそうめんの時間が来た。これまでネットの動画で何度も見ただけだったが、今日ついに実際に見えた。また、栃木から来た餃子や大阪から来たたこ焼き、冷たい生ビールに加え、太陽にいじめられた農作業の仕事から生き返った感じがした。それも後の続ける農作業の仕事の力の源になっている。
大豆のような汗が大豆と共に土に埋め込む。新「希望まき」かも
一日目の夕方、お風呂から帰ってきて、金蔵集会所に待っているのは、美味しく豊かな晩御飯であった。みんな畳の上でテーブルを囲み、能登飯を食べながら酒を飲み、談笑した。私たちは片言の石川弁と栃木弁、標準語、そして私のつたない日本語を交えながら、中国の面白いことを話したり、日本のあっちこっちを紹介されたり語り合った。
二日目の朝日、昨日の経験があるので、自分で豆まき機が操作できた。人数は少なくて日差しは強いけれど、大豆のような汗が大豆と共に土に埋め込むのは、嬉しくてたまらない。これは種まきだけでなく、希望まきでもあると思う。一年前に始めてここに来た時、まだ半壊した家屋の片付け仕事ばかりしたんだが、今回は来年の希望を象徴する種をこの土に埋めることになった。これが奥能登が次の復興段階にたどり着いたというのであろう。道は一歩一歩作られ、困難は一つずつ克服されていくということである。
中国も日本も地方の課題は同じ。「手」の連携が必要
奥能登での二日間は、一見すると単調な肉体労働の連続に過ぎない。けれど草の刈り跡、大豆を埋めた土、テーブルを囲むみんなの笑顔が、確かに私自身の内側に小さな変化を残した。中国でも日本でも、地方の課題は似通っている。高齢化、担い手不足、気候変動──それらに向き合うには、国籍を越えた「手」の連携が欠かせないことを、私はここで学んだ。帰路、再び車窓に映る緑を見つめながら、私は奥能登で交わした無数の「ありがとう」の重みを反芻した。支援に来たつもりが、与えられたものの方が多かったのではないか。次に訪れる時、草はまた伸びているだろうが、そこに集まる手と手の記憶は、確かに根を張り続けているはずだ。(李エイテン:宇大・国際学部大学院2年)
寝袋要らなかった。
活動報告 6月27-29
27日16時に祥雲寺を出発、休憩取りつつ、28日0時頃に能登・金蔵集会所到着。和室の窓を開け網戸にして涼しく眠れた。寝袋は使わず大判バスタオルをタオルケット代わりにした。
28日朝 爽やか。
朝食後ミーティングで本日の役割分担。 am:金蔵草刈隊に参加する人、大豆栽培の人、足湯ボラ(曽々木)の3班、pm 草刈と大豆栽培の人は同じ活動、足湯は場所移動して金蔵集会場になった。
夕方オンライン会議で、今後の足湯ボラについて考えて行こう、と。7.8.9月の暑い時期は冷おしぼり&コンロを使って簡単な軽食を共作等で、お茶会メインはどうか?等の案があった。実際、今日の金蔵集会所の足湯後に皆さん残ってお話をされている時間を楽しんでいる様に見受けられました。
豆の着色にびっくり‼ 作業は、地元の協力者もいて成立つと痛感。
29日 今日はamだけの活動。
草刈隊に参加する人、他は大豆栽培の2班。
白い豆をそのまま撒くのではなく、鳥に食べられない様にするため鮮やかに着色して蒔くことを知りました。メジャーで畑にラインを決め播種機(たねまき機)をコロコロ手押しすると豆が等間隔で落ち、その後、豆に土を被せ足で踏み付ける! 豆と土を密着させるためらしい。こまめに休憩を取りながら声掛けしながらの活動は初顔合わせのボラの人たちも安心して取組めて一体感まで生まれる。
大変だったけど達成感があった。作業終了後のシャワーがありがたかった。
作業にあたり、細かな配慮をして頂いた地元民石崎さんに感謝です。ボランティアも周りの方に協力頂いて成立つのだと痛感しました。運転ボラも遠路を安全に往復してくれて感謝です。(相場)
6/28半年ぶりに能登災害ボランティアへ参加させていただきました。前日は緊張感からか、あまり眠れない状態でしたが、出発前のミーティングで気さくな皆さまと顔を合わせ、リラックスして出発できました
畑?とは言えない土の塊が広がる
1日目は足湯班のつもりで向かいましたが、朝のミーティングで急きょ男性陣に混ざり大豆のタネまき班へ。普段運動もせず体力不足の自分で不安もありましたが、ここに来たら何にでもチャレンジしようと思っていたので勢いで手をあげました。
大人になって「初めて」のことが減ってきた私には新鮮な作業ばかりでした。溜め池が震災で使えなくなり、水を引けず稲が作れない。棚田を荒らさないために、畑にする作業です。募集している「枝豆畑オーナー制」、あの畑企画ですね。
畑?とは言えない土の塊が広がっていました。でこぼこの土の上を慣れない長靴で歩くだけでも一苦労でした。鳥に食べられないように白い大豆に着色します。鮮やかな赤色に驚きました。青大豆とのコントラストが見事でした。大豆に白、青、黒色があるなんて知らなかった! 悪戦苦闘しながら畝をつくり、種まきのラインを作り、種まき機で種をまき、土を被せ密着させる。言葉にすると簡単ですが、実際はなかなかのしんどい作業でした。暑さもあり、汗だくになりながらの作業でしたが、余計なことを考える余裕はありません。ひたすら体を動かす、深い緑の山々に囲まれ、鳥の声を聞きながら。休憩で飲むお水のおいしいこと。
「古い機械だからね、人も機械もメンテナンスが必要だから」。農業の苦労を想う
午前中より、午後。1日目より翌日、少しはスムーズになってきたかというタイミングで種まき機のベルトが切れるハプニング。落ち込む私に「古い機械だからね、人も機械もメンテンスが必要だから」と優しい声かけに救われました。人手の必要性も痛感しました。農家の方々は延々このような作業を続け、自然に左右され出来高の保証がない大変な仕事だと改めて感じました。消費者の立場では分からなかったことばかりです。
人手が必要。外から行くボランティアが必要
「田んぼに戻せるのに、少なくても7年はかかるな」。「若いつもりでいたのに体がいくこときかなくなってね、7年は長いよね」と軽トラの中で悔しそうに話す横顔が目にやきついています。発災から時間が経過し、住民の方々の体や事情もそれぞれ違いが出てくる時期なのだと思います。だからこそ、外から行くボランティアの力が必要になるのだろうと思います。
ご一緒に活動してくださった皆さん、何も知らない私に優しく教えてくれ声をかけあい最後まで活動できたことに感謝しています。厳しい暑さの中で活動したうえに、運転してくださった方々、本当にお疲れさまでした。ありがとうございました。私は解散時のVネットの「またお会いしましょう」という言葉が大好きです。普段は出会うことのない人々と、一緒に過ごす週末は特別で貴重なご縁だと思います。自分でも少しは役立つことがあるのかも、と思いながらまた機会を作って参加させていただきたいと思っています。ありがとうございました!(マノメ)
5/13-15、能登でのボランティアは今回で二度目の参加でした。初回(4月)の活動は、タオルで「まけないぞう」作成とアスパラガス畑の堆肥まき。はじめてのボランティア活動だったので、作業の流れについてくのがやっとでした。
「溜め込んだらいかん、ここで泣いて吐き出して行き~」
今回の二度目の活動は「足湯」と「草刈」。私は足湯の活動でした。仮設住宅の集会場に来た方々から、この足湯ボランティアのコミュニケーションと居場所づくりの必要性を深く知る事ができました。
そこで聞いた話は、
「仮設住宅に居てもすることがないから、壊れて住めない家でも庭の草むしりに行く。手を休めて海を眺めては、早く自分のこの家で暮らしたいと、想いを募らせている」と。
「もう住めない家だが、庭先に畑を少し作り通っている」と。
初めて足湯に来訪された80歳半ばの女性は「仮設住宅で家族三人暮らし、夫は認知症を患う。一度デイサービスを利用するが、その後は拒否して狭い仮設住宅で一日を過ごす」と言う。
足湯の順番待ちの間、ハンドマッサージだけをし「この手は何をして働いた手かな~」と尋ねると、急に涙を流された。
隣席で待っていた人がすかさず「溜め込んだらいかん、ここでいっぱいじゃべって、泣いて吐き出して行き~」と助け舟をだす。
その人も「ボランティアの歌を聞いたとき、こうして応援に来てくれる人がいると、胸が熱くなり泣いてしもうたわ」と話してくれた。
家族のケアしてきた女性は、自分がされることに慣れていない。
あとで足湯をしながら手のマッサージを続けると、「若いころ、お姑さんに子供を預けて働きに出てたが、長男を5歳で亡くしてしまった。その頃を思い出してねえ。でも、こんな事して貰ったらすまないねぇ~」と遠慮する。
家族のため、誰かのために尽くしてきた女性には“自分がされる”ことに慣れてない。いつも相手を気遣っている。高齢になった今でも家族の世話をしている。
私はこの人に、一時でもやすらぎの時間を過ごして欲しい気持ちでいっぱいになった。
被災から一年以上経って、違った悩みが出てくるのだと思った。だから一人で溜め込まないよう、誰かとおしゃべりする居場所を設ける活動の意義を身をもって体験した。
マレーシア学生3人の献身的な姿に惚れ惚れ
そして今回は、マレーシアからの留学生3人と一緒に活動して、彼らの愛国心からの学ぼうとする姿に、素直さと優しさを感じた。世の中にはボランティアを偽善者だと誹謗中傷する人もいるが、他人のために一生懸命活動する姿を目の当たりにした。一緒に活動してみて「人と人のふれあいの中で、自分が学ぶことの方がいっぱいある」と思った。これは参加しなければ分からないことだった。
一日の活動を終えての夕食は、みんなで食卓を囲み、お皿を回し同じものを食べる。お酒も入りながら会話も弾むと仲間意識も深まっていくようだった。地区の住民からは、自分で獲ったイノシシ肉の味噌漬けと8種類もの野草茶を煎じて差し入れしてくれた。核家族や一人暮らしも多い中、こんな食卓はとても愉しく心癒された。
栃木から8時間遠いけど、行動するボラ仲間になっていきたい
二日目に棚田の草刈りを終えたメンバーは、やり終えた達成感なのか、皆とてもいい顔をしていたのが印象的だった。この金蔵集落は緩やかに棚田が広がり、立派なお寺が5つもあるという。でも人口減少と高齢化には抗えず、この美しい集落を守っていく人がいない。
宇都宮からここまで車移動に8時間以上かかる。それでも、この現状をボランティアで支えていこうとするとちぎボランティアネットワーク。参加してこんな仲間に出会えたことに感謝し、これからも自分にできることは微々たるでも、行動するボランティアの仲間になっていきたいと、心から思える三日だった。(あみ記)
「一人でも大丈夫!」1年ぶり能登。
【2025 5/9~5/11 活動】
東京都在住 ノアさん(21歳大学4年)
◆まずは本ブログ(Facebook)をご覧いただきありがとうございます。
今石川県で現地復興をしたいと考えている方や、どんなことをしているのか気になる方にメッセージを届けたくてブログを書いています。大人に限らず大学生、高校生も大歓迎です!
私は都内在住の大学生です。私が初めてとちぎボランティアネットワークに足を踏み入れたのは能登半島地震発生の2か月後(去年の3月)でした。たった1人で踏み出したその時の緊張を今でも覚えています。しかしとちぎボラネットの皆様は暖かく迎えてくれたので心配は無用でした。そんな私が今回1年ぶりの活動を行ったのでその詳細をお届します!
お話しもあれば、体力仕事もあり。「挙手でやりたいこと決める」
◆今回チームでやった活動は?
①活動の柱である「足湯」 ②初体験「アスパラガス農園!」
まず1つ目の足湯についてです。私達ボラは足湯作りから始め、お相手と対話しながら手のマッサージを行います。最初はマッサージの難しさやお話の内容に詰まることもありました。しかし経験を積む中で「マッサージはどこが気持ち良いのか、どういうツボがあるのか」という事に興味が出て調べ、実践するようになりました。対話の部分では、「お相手が更に話したくなる内容」にも着目できるようになりました。このように1つの活動でも「もっとお役に立ちたい、上手にやりたい」という貪欲な気持ちを持つと自身の成長につながる点が山ほどあります。
2つ目の農園作業についてです。今回は農園のお父さんとボランティア6人でアスパラガスの堆肥をまきました。こちらは完全な体力仕事なので男性陣の活躍が目覚ましく、同時に非力な私は不甲斐なさを覚えました。しかし男性陣に力の加え方やコツをレクチャーしてもらい、なんとか活動を終えました。作業終わりに農家のお父さんからいただいた取りたてのアスパラガスは人生で1番おいしいアスパラガスでした。
「何でも挑戦!の姿勢」が魅力。
◆今回の感想・能登の現状・未来
震災発生から1年4か月、豪雨から8か月経つ今、必要なのは「能登を孤立させない人手」と「気力」だと感じます。現在ニュースで取り上げられることはほぼない能登半島地震。人手も足りず、人口も減っていきます。しかしその中でも懸命に生活する人がいる限り、ボランティアの輪を広げて未来を考える必要があると感じました。
◆とちぎボラネットの魅力は?
「まずはなんでも挑戦」という姿勢にあると思います。その日の朝のミーティングでどの作業に行きたいか挙手して決めます。私は慣れている活動だけでなく「未経験の活動」にチャレンジし、その中で精一杯お役に立つことと自身の学びを増やすことを重要視しています。
献身の心、勉強心、探求心が強い方は是非能登で活動してみませんか? とちぎボランティアネットワークのメンバー(みなさんもそれぞれこの活動で初めて会った人同士です)がお待ちしております!
毎月2回、週末ボランティア、詳細・申込>>>こちら
3月28日〜30日、能登でボランティア活動を行ってまいりました。移動日を除く2日間、個人として、政治を志す者として、被災された方々の力になれるよう努めるとともに、現地で見て・感じたことを政策に活かすための活動でもありました。
「援農ボラ」片付けながらの農作業。農家だけでは間に合わない
28日は、土砂で埋もれたビニールハウスの片付け作業。肥料や備品を運び出す力仕事で、農家の方だけでは到底間に合わない状況でした。昨年9月の豪雨災害から時間が経つにもかかわらず、手がついていない現実に、行政の力不足を感じました。
作業後には倒壊家屋を視察させていただきました。半壊・全壊の判定による支援額の差、公費解体の条件などを聞き、制度と現場のギャップを痛感しました。仮設住宅は整備されているものの、「残りは自力で」という無言のメッセージを感じる現状がありました。
地域の方々と交流する中で、「希望」の重要性を強く感じました。仮設住宅では設備面への不満は少ない一方で、「孤独」の声が多く、生きがいのあるつながりや会話の機会が圧倒的に足りないと伺いました。集会所もあるものの、参加にばらつきがあり孤立を招いている実情も見えました。
復興に尽力されている方からもお話を伺いました。果樹園を通じて「地域に夢を」と語るその姿勢に、深い情熱と希望の力を感じました。農福連携に挑む姿勢がとても素晴らしく、こういった熱い想いが人を動かすには必要です。
希望を核に無理のない形で人が集まる。
地域コミュニティの再生、深化。
私自身も、普段意識してこなかった視点を得る機会となりました。
「都会は人が多くて・・・」
足湯によるケア活動につきまして。身体を温めながらのマッサージや会話を通じ、ストレスの軽減を図る取り組みで、阪神淡路大震災以降、実績のある方法です。
ある80代の女性は、「孫が住む都会は人が多くて会いにいくのが負担」「腰が痛いが薬が効かない」といった声を話してくださいました。特に印象的だったのは、立ち座りや足拭きの際に「自分でやらせて」とおっしゃったこと。
「何でもやってもらうと、自分でできなくなる」との言葉に、一方的な支援が自立を妨げる可能性に気づかされました。
この日、“チーム生駒”の皆さんとも交流しました。奈良を拠点に活動され、この日は炊き出しにきていました。遠くは大分からの参加者も。「能登を置き去りにしない」という思いが日本中に広がっていることに、胸が熱くなりました。
この2日間で私ができたことはわずかですが、現場での学びを政策に反映し、「物理的な復旧+心のケア」までを含む“創造的復興”に取り組みたいと強く思いました。
「自助・共助」だけでなく、「公助」の仕組み強化に向け、今後も活動を続けてまいります。(海保とくま/東京)
宇大で能登にインタビュー…住民4割に、寺3つは再建不能?
今回の(宇都宮大学の)活動は2024 年 1 ⽉に震災、9 ⽉には豪⾬災害に⾒舞われた奥能登に行った。
地域のキーパーソンへの取材で、⽯川県輪島市町野町の⾦蔵地区に住む⽯崎英純さんに出会い、お話を伺った。
一緒に⾦蔵の誇る寺院をめぐりながらこの地域がどのような歴史をたどり今に⾄るのか、⼼惹きつけられる伝説の数々とともにお話しいただいた。また、これまでに石崎さんが⾦蔵をより良い地域にするために取り組んできた「⾦蔵について考えようの会」や「⾦蔵学校」など様々な活動についてもお聞きした。
中でも特に印象に残っているエピソードが「なぜ⾦蔵で地域おこし活動を続けるのか」という私の問いに対する石崎さんの答えであった。
現在、⾦蔵では⾼齢化に加え、昨年の震災により稲作が困難となったことで⼈⼝の流出が加速し、過疎化が急激に進⾏している。家屋こそ無事なものが多いが地域内での営みの継続は難しく、100人いた住⺠の4割は避難した。また戻ってきた人も2割は集落から離れた仮設住宅に住み、実質4割程度(40人)の住⺠しか戻れていない現状であった。加えて⼈々の精神の拠り所である寺院のうち2つは復旧が進んでいるが、そのほかの3か寺は住職が戻らず、場合によっては寺の復旧がなされない可能性もあるとお聞きした。
「ふるさとを守る」強い意志
この現状だけを⾒れば「地域としての存続は⾮常に困難」な状況であると感じてしまった。では、この状況で⽯崎さんがこの地域で活動を続ける理由は何なのかお話をお聞きした。
それは「ふるさとをまもる」という強い意志に基づくものであった。ふるさととは、⼀度そこから出ていこうがそこに居続けようが、最後には⾃⾝がかえり着く場所であり⾃分にとって⼤切な⼼の拠り所である。だからこそ⾃⾝が社会に疲れ、癒しや安寧を求めたときに戻れるところ、かえれるところ、あるいは逃げられる場所(=ふるさと)を維持しておかなくてはならない。
また、⾃分のふるさとは、⾃分の⼦供にとってもふるさとであり、かえる場所ということもできる。すなわち、⾃⾝が親になることで「ふるさとをまもる」理由がまた⼀つ増えるのだともお聞きした。
最後に、これから⾦蔵を訪れこの地域に移住したいと思う⼈々にも、何を「まもりたい」と感じここに来るのか、深く考え、⽣涯を通して守り抜いてほしいと語っていた。
「まもりたいもの」は考え方として、重要
このお話を通して、「まもりたいもの」という考え⽅は今回のような地域おこしに限らず、これから先を⽣きる私たちにも重要な考え⽅であると感じた。これから先、⻑い⼈⽣を通して様々な場所を訪れ活動をしていく中で、なぜその活動を⾏うのか、その根元にあるものは何なのか、⾃⾝に問いかける際の⼀つの答えとして「⾃分の守りたいもの」は何か問い続けていきたいと感じた。
(黒尾寛太/宇都宮大学・大学院2年/地域創生科学研究科・社会デザイン科学専攻・建築学プログラム)
丸山さんはずっと浪江町に暮らしていました。地震直後、揺れは大きく、建物が倒壊していて、自身の職場から車を乗り継いで数時間もかけて帰宅したそうです。
3月14日、浪江町は放射線基準値がとても高くなっていて、丸山さん宅に防護服を着た警察が来て「なぜ避難していないのか?」と聞かれ、初めて避難することになったと言います。浪江町を出た後は津島地区、二本松市東和町に移り、最終的に娘がいる首都圏のほうに避難されました。
慣れない避難生活。「家の鍵を渡されて涙がで出た」
避難した丸山さんは娘が暮らしているアパートで一時的に暮らしました。今まで一軒家だったこともあり暮らしがとても大変で、病院やスーパー、役所がどこにあるかわからず不便なことが多かったそうです。福島では車が必須だが、首都圏では電車、バスと徒歩。それが大変だったと言います。しかし、職場は会社の本社が首都圏にあり、転勤扱いで職には困らなかったし、被災者に対するサポートも手厚く、避難から半年でマンションを借りることができ、「鍵を渡された時には涙が止まらなかった」と丸山さんはいいます。
ずっと首都圏で暮らしてきたのですが、浪江に家財を取りに行ったり、墓参りにく時に「一時立ち入り」したりします。「自分が暮らしてきた地域に入るために、役所に申請しなければならない」ことが歯がゆく、結果的に浪江町にはなかなか帰れないそうです。今後、浪江町が将来地図からなくなってしまうかもしれず、丸山さんは自分の地域の歴史を残していきたいと話していた。
自分の帰りたい場所に帰れない、ということはとてもつらいことではあるが、自分の地域の歴史を残したいという丸山さんの強い思いにとても共感することができた。
(学生:高松)
珠洲の親戚が、我が家に移住。
震災から2週間後、珠洲市の親戚夫婦が病院の閉鎖をきっかけに鹿沼市の我が家に移住しました。半年間の移住生活の間に栃木でたくさんの人と交流し、「能登人のやさしさ」を伝えてくれました。
7月、病気も奇跡的に治癒し、珠洲の自宅に戻られました。家は無事で屋根や壁を改修工事して、ゲストハウスとして必要な人々に開放したので、栃木のNPOや子ども食堂で支援団体を結成し、宿泊させてもらい音楽や演劇のイベントをしました。
国が国民を大切にしてないぞ。コミュニティを作る自覚を
珠洲には過去4回訪れましたが、復興は遅々として進まない印象を受け、国が国民を大切にしない在り方が見え、国に頼らず一人一人がコミュニティーを作る自覚を持つことの必要性を痛感しました。フリースクールと障害者施設を運営し、社会的孤立の問題に常日頃向き合っている立場から、災害に関しても孤立・孤独を防ぐために今の自分のできることは何かを探したいと思い、参加させていただきました。
「思いの丈」を聞く:苦労の家を解体/自然好きだが外出できない…
今回は足湯とアロママッサージをさせてもらい様々な思いを話してもらえました。
「自然の中にいることが好き。でもひとりで散歩をしていると自殺するんじゃないかと思われそうだから外に出られない」。
「苦労して、苦労してやっと立てた家だったんだよ。家がないと嫁さんに来てもらえないからね。でも解体されちゃった」
と、短い時間に思いの丈を話していただきました。その方たちの編み物が非常に上手だったので作品展や販売活動につなげられたらと思いました。趣味が少しでも生業に結び付くと励みになるのではないかと思います。
募金活動だけでは「心のつながり」が作れない気がする
また、初めて訪れる町野町という地域の現状と伝統文化、美しい自然と生業を必死に守っている人々に触れ、その生業を少しでも応援できたらと感じ、スーパーの商品や熟成みそ、ニンニクなどを購入させていただきました。奥能登の生業を支える購買力はまだありませんが、少しでも頑張っている地域のことを知ってもらい、身近に感じて応援してくれる人を増やし、つなげていきたいと思います。
伝統行事・情景・祭りを聞き、訪れたい人を増やす「能登カフェ」
全国各地で復興応援イベントは開かれていましたが、普通の募金活動では人と人との心のつながりがつくれないと感じていたので、今まで何回か「能登カフェ」を開催し、能登の海産物やお菓子を販売し、お茶を飲みながら、災害前の能登の美しい情景や祭り・伝統行事の話を聞く会を催してきました。販売できるもの品数が増えてくるとより一層の能登が身近になることと思います。そして、能登を訪れたいと思う人々を増やし、自然環境とコミュニティーづくりに関して考える人が少しでも増えていくことを願い、本当の豊かさとは何かを模索しながら、これからも仲間を募り活動を活性化していきたいと思います。(福田由美/NPO法人CCV=フリースクール&障害者支援)
#日本財団
#ボラサポ共同募金
去年の珠洲よりも進んでいない町野
輪島市町野町に初めて訪れる。昨年珠洲市に6月と10月にいってアロマケアをした経験よりも地域の復興支援か進んでいない。
前向きになんとかせにゃーと頑張っている方。地域でつながりボランティアさんたちと次のステップにはいあがろうとしてる方。そして長期災害被害からのストレスが心身にまで影響のある方に出会いました。
そしてとちぎボランティアネットワークの思いと行動を2泊を共にすごして、暖かいものを感じました。
体調不良と未病を防ぐ“アロマ伝道師”
私が提供できることは、長年看護師としてのスキルを伝えて、自力でセルフケアをやって「未病」を防ぐ事と、自身の体調不良をアロマケアで克服した体験から「アロマケアでの癒しとリラックス」です。
芳香が気分を明るく前向きな気持ちにしてくれたり、不純物ゼロの塗布が可能な精油で体が軽くなる体感があるからです。
このボランティアというキーワードからつながった今回のチームは明るい笑顔と実行力で、よく食べよく寝る。だからこそ、町野町の人を元気づけられている! 地域再生の光を一緒に創作されていると感じました。
受け入れて参加させていただき、ありがとうございました。また参加したいと思います。(いとうあけみ/鹿沼の人)
#ボラサポ共同募金
#日本財団
被災地のためになってるように見えない活動
私は2月中に2度、能登のボランティアに参加した。一度めは仮設住宅の集会所で足湯や「まけけないぞう」作り、栃木産いちご400パック配り。二度めはもとやスーパーの片づけとひな人形飾りだった。感じたことを述べたい。
今回初めての災害ボランティアだった。印象は「意外と小さな活動だな」とか「便利屋のようになんでも引き受けるんだな」だった。ボランティアで被災地を助けよう等と大きく意気込んでいたわけではないが「予想よりも草の根レベルだ」と感じた。また肉体労働というより、被災地の人の身の回りの悩み事を解決したり、足湯や手芸で交流することなので「本当に被災地のためになっているのか」はじめはわからなかった。
衣食住の「その後が大変」
しかし、災害から1年たった今の活動は「外部からは気づきにくい問題、政府や自治体の手の届かない問題」が多く残っているとわかった。
例えば仮設住宅の防寒対策に、カーテンを配ったり、梱包材のプチプチを窓に貼る作業があった。仮設住宅が建設され住居ができたので「問題は解決した」と思えるが、実際は地域の環境に適した家の作りでなかったり、以前のコミュニティ(人間関係)が崩れてしまったりと課題があった。災害が発生すると、衣食住という基本的な部分を整えることにまずは必死になるが、「その後が大変」なのだと実感した。
そのため、被災者が抱える大小様々な悩みについて、それを聞く人、伝える人、解決する人として継続的にボランティアを行うのはとても重要だとわかった。
被災地走る県外ナンバー。「その数だけ味方がいる」と感じていた
また、私は今回のボランティアを終えて「人のつながり」について考えた。というのも、2度目のボランティアで、おばあさんの肩もみをしていた際に「これも何かの縁やわ」と言われたことがとても印象に残っている。
私は岩手県陸前高田市出身であり、東日本大震災を経験した。当時多くの県外ナンバーの車が走り、その数だけ味方がいるような気がした。そんな経験もあってか、今回私は微力ながら恩返しのつもりでこのボランティアに参加した。このような経緯と現地のおばあさんの言葉をふりかえり、私は誰かの思いやりがまた他の誰かにつながり、そしてそのつながりが思いやりを生むのだと感じた。私は石川県の人に助けられたから石川県に災害ボランティアに行ったのではなく、様々な人に助けられ今があるから、私も誰かに同じことをしたいと思ったのだ。
ボランティアで会った人は「他人とちがうつながり」がある。
また、ボランティアをしなければ関わらなかったであろう人と話すことができた。そのような人たちとは親密にならなくても、2度と会うことがなくても他人とは違う、少しのつながりが生まれる。例えば、どこかで災害が発生したとき、「そういえばあの人は○○県出身だと言っていたな、無事だろうか」と少しでもその人、その場所を気にかけることができるようになる。きれいごとだと言われればそこまでだが、私は今回のボランティアを通じて助け合うことの価値を少し理解できた気がする。(亀井あかり/宇都宮大・学生)
#共同募金ボラサポ
#日本財団
●TV映像の「他人事」が現実味になった
以前からボランティア活動に興味があり、時間がある春休み参加しました。能登半島の被災状況は大学の講義でも紹介してもらいましたが、現地に到着して自分の目で見る被災地はより現実味を帯びてとても心が苦しくなりました。テレビの報道や写真ではやはりどこか他人事と捉えてしまう部分があり、実際に赴くことに意味があるのだと感じました。
今回のボランティアは主に足湯とマッサージ、まけないぞう作りをしました。初日、2つの仮設住宅を訪問して初めて皆さんと話をしました。思っていたよりも、自分から家族や日常生活、また被災時の話をする人が多く、話を聞いてくれる人がいることは被災者にとって心の支えになるのだと感じました。
●防ごうと思えば防げた死
印象的だったのはある人が災害関連死について話をしてくださったことです。「以前同じ老人ホームに通っていたが、災害で別の施設に移動しなければならず、のちに、施設環境が合わずに亡くなった人が沢山いる」と涙ながらに話してくれました。
災害関連死は防ごうと思えば防げた死です。被災時に考えられる環境の変化によるストレスや、その原因を考えて対策を練ることが重要だと感じました。
●仮設イベントがコミュニティを拡大している
2日めには、イベント参加者に仮設住宅の近隣に住む人、また現地NPOの仕事をしている人と話をしました。イベントが地域のコミュニティを拡大して、より強い絆になる機会を作っているなと感じました。被災地の人を繋げる機会を作ることで、より協力しやすい雰囲気を現地の人が感ていると思います。
能登半島地震から一年が過ぎ、テレビ報道も少なくなり、私の周りにも地震や洪水があったことを忘れている人がいます。しかし実際に現地で見た光景は未だに復旧してなく、復興とは程遠いものでした。仮設住宅での生活も快適ではないですし、「早く元の生活に戻りたい」と切願している人の気持ちを理解していない人で溢れていると感じます。
現地に行くのは簡単ではないし、義務でもありません。しかし、普通の生活に戻る事を望んで毎日頑張っている人ことを忘れないのが、被災地の人の後押しにつながると感じます。(大谷朱莉/学生)
#ボラサポ共同募金会
#日本財団
人は集まると自然と笑顔が生まれる
今回の能登での災害ボランティアでは、地域の人と話をしたりまけないぞう作りをしたりしました。
私は以前2回能登での災害ボランティアに参加したが、その時は地震で散らかった家の中の掃除や、浸水した床下の掃除など力仕事がメインだった。そのため今回のような被災者の方々ときちんと場を設けて交流するのは初めてで、「何かしなくては」と身構えていたが、まけないぞう作りを手伝い、話にまざり、一緒にお茶を飲み、笑顔にしてもらえる、その雰囲気の中にいるだけで幸せだった。
この活動を通して二つのことを考えた。一つは「人は集まると自然と笑顔が生まれる」ということ。ふと周りを見れば、足湯をしながら話をしている人、ほっと一息ついている人、机を囲んでまけないぞう作りをしている人、どこでも人が集まると笑顔が生まれていた。これは被災地に限ったことではないと思う。しかし地震と豪雨で突然日常を奪われ常に不安を抱えながら生活する被災者にとって、そんな不安を忘れられるひとときを過ごすことがどれだけの幸せだろうかと思う。だから、私が彼らに大きな変化を起こせなくても、皆さんが笑顔で話をし、一息ついて、笑顔で「ありがとう」と言って帰っていことが本当に嬉しかったし幸せであった。
暮らしの中に目標ができる「場づくり」
もう一つは、このような場を設けることで、生活の中に小さな目標を作ることができること。ボランティアに参加した人が、この村の住民を町(市街地)の賃貸住宅に移住させることについて、「確かに住む場所が狭い分、すべてのものが手の届くところにあって便利だ。しかし、ここにいる高齢者は、家に畑があって農作業をしつつ、近所づきあいをするという生活をずっとしてきた。その形(生活スタイル)を奪われた市街地での暮らしでは、生きていけないだろう」と話していた。
きっと現在の仮設住宅生活でも長期に強いられる狭い居住空間で、生きる意味を見失う人がいるかもしれない。だから、このようなみんなで集まるきっかけとなる場を設けることで、「これに参加しよう!」と思い、明日を生きる張り合いが見いだせると思う。人は生きる意味を見失うと生活が崩れてしまう。小さくても日々何か目標があり、その達成に向かって生きているときが一番人間らしくある形だと思う。部外者だとしても、被災地に介入し人々の交流を絶やさぬよう機会を提供してくことが災害ボランティアとしてできる活動の一つだと学んだ。
思いでつながる人は楽しい、素敵だ
それから、今回最も楽しかったのは、一緒にボランティアに参加した人たちとの交流だ。とにかくみんな明るくて、優しくて、一緒にいて楽しかった。一人一人参加するきっかけは違うけれど、ボランティアをしたいという思いは同じである。その思いでつながる人たちは本当に素敵な人ばかりだ。これは今まで3回災害ボランティアをしていて毎回感じることだ。これが、私が災害ボランティアにハマり、やめられない理由かもしれない。(守愛美/大学2年)
#ボラサポ共同募金会
#日本財団
1月10日から1月12日にかけて能登のボランティアに参加し、能登半島北部の町野地区、金蔵地区、南志見地区に行ってきました。輪島市の中心市街地から車で40分ほど離れた山間地域で、昨年9月の豪雨による被害も受けた地域です。今回は仮設住宅に住まわれている方々と二地区で復興活動に取り組まれている方々にお会いし、様々なお話や思いをうかがいましたのでこの場で共有させていただきます。
1K4畳の仮設に2人。押入れに寝ている
町野地区にある仮設住宅では60代の女性にお話を伺いました。お母様と2人で1K4畳半の部屋に豪雨災害の後から3か月以上住んでいます。お母様はダンボールベッドに、娘さんは押入れに布団を敷いて寝ていました。被害に遭った家は現在工事待ちだそうですが、大工さんの人手不足などの問題から、なかなか工事開始の目処がまだ見えていないそうです。「外は寒く、部屋の中で過ごすことが多いが、4畳半はとても狭く、二人で過ごすのは息苦しさを感じる」のだそうです。床冷え対策としてボランティアがマットを敷いており、私もやらせていただきました。
外から来てくれる、だけでエールになる。気に入ったら「Iターン」も
続いて、海沿いの南志見地区で震災前からまちづくり(村おこし)に取り組まれている会社、奥能登元気プロジェクト代表(社長)の奥田和也さんにお話を伺いました。過疎化が進む奥能登地域の人・町・経済を元気にしたいという思いから、農産物・水産物・木材を使い、商品企画・開発から製造までを行うことで多種多様な人たちが知恵を出しながら、新たな創造の場をつくっています。奥田さんはそれだけでなく、地域の施工業者と協力しながら、被災を受けた建物の修繕・再建に携わっています。残りの人生を能登の復興から新しい能登の創造に時間を使いたいという思いで取り組まれており、そうした思いに大変感銘を受けました。そんな奥田さんがこれからの奥能登に必要だと考えるのは「外から来る人の力」だと言います。「地域の人も復興を精一杯頑張っているが〝外部から来てくれる〟それだけで地域の人へのエールとなるし、もしこの地域が気に入れば何か起業するなど、この地域を一緒に創り上げてもらえると嬉しい」とお話していました。
「今年こそ何かして、地区を盛り上げる」
最後に金蔵地区で毎年8月16日に3万本のろうそくで集落を灯す「万燈会」を運営企画している、区長さんたちにお話をうかがいました。金蔵地区の歴史や今まで取り組まれてきたことなど、熱い思いに大変感銘を受けました。地区内の多くの住民は避難している中、区長さんたちはここに残り続け「今年こそ、何か新しい楽しいことをして、金蔵地区を盛り上げたい」と話しています。
今回のボランティアを通して、奥能登では外から来る「よそ者」の力を必要としており、私たちがその「よそ者」となり、現地の人の声を伝えていく役割があるということです。
資材高騰、業者不足。でも「SDGs建築材料」でやりたい!
私は昨年の3月に一度能登を訪れており、そこから10か月たった能登を見てきて、9月の豪雨による被害もあり、道路の復旧や建物の建設工事など復興にまだまだ時間がかかるという印象を受けました。資材高騰や人手不足などの問題を、どのように捉え、新しい突破口を考え、実践していくことが必要です。私は、建築士の見習いという立場ではありますが、たくさんの土砂や、取り壊しの際に出る瓦などを、「処分するもの」ではなく、「地域の貴重な資源」として捉え、ローコストで居心地の良い住まいをつくることができないか、今後考えていきたいと思っています。(村上茉鈴)
#ボラサポ共同募金会
#日本財団
まず今回のボランティア活動に参加したきっかけはとても単純なものでした。最初は友達に誘われて自分は将来建築士になりたいと思っていて、その勉強のためのとても軽い気持ちでボランティアに参加しました。
建築士的興味。仮設という環境の弊害もある
最初のボランティア活動では、仮設住宅にの窓にプチプチをはることでした。季節が冬ということもあって外での活動はなく主に室内で行える作業が主な活動でした。
仮設住宅は簡素なもので窓からくる冷気を防ぐための作業でした。作業をしていく際に、窓全面にプチプチをはりたいという人と「一部分だけはらないでほしい」という人がいました。全面にはりたいという人は「向かいの仮設住宅の人から家の中が見えないほうがいい」という理由で、一部分だけはらないでほしいという人は自分の家があった場所を眺めるのが好きだという理由でした。
やはり、知らない人に家の中を見られるというのはプライバシーの観点からあまりよくないもので仮設住宅の弊害というものを感じました。その次の日には別の仮設住宅の集落に行って、別の仮設住宅の窓にもプチプチを張りました。
昔は全校生徒1000人いたよ。いま40人
その後子供たちの遊びに付き合い、その時におじいちゃんが話しかけてきて、そのおじいちゃんが小学生のころ(70年前)には、小学校の全校生徒が1000人いたという話を聞きました。しかし今では全校生徒が40人ほどという話を聞いて、過疎と災害の影響を特に感じた話でした。
また、子供たちと話していく中で子供はとても正直なので、仮設住宅に住むつらさや普段の生活がとてもつまらなく感じているといった話がありました。しかし、子供たちはとても元気で逆に自分たちが元気をもらったように感じました。
最後に、今だに仮設住宅の生活から抜け出せないのは沢山の理由があると思いました。震災から約一年たった今でも多くの倒壊した建物や傾いた建物があり、それは、この地の気候や、お金がない、現場の人手が足りていないなどの影響もあると思います。それらの大きな問題に対して僕たちのような学生ができることは「ないにも等しい」と考えます。
しかし、ぼくたちのような学生だからこそ被災者の人たちに元気といったものをあげることができると思いました。
能登のみなさん、ボランテイアの皆さん、誘ってくれた倉谷、一緒に行ってくれた伊吹ちゃんありがとうございます。次も予定が空いていたら行きますよ(笑)
高橋直希(佐野日大高校3年)
通常、応急仮設住宅は2年の期限なのですが、能登の被災地では「賃貸住宅や公営住宅に住んでいた人はは1年だけ」というとんでもないことを石川県がやっています。
住宅再建への目処が立たない中、応急仮設住宅から退去を迫られることは基本的人権の保障に真っ向から背くものであり、とうてい容認することができません。
そもそも奥能登には賃貸物件などありません。スゴイ役所ですね⁉
以下は、私も賛同する「能登被災地の仮設住宅に関する検討会」からの要請です。
私たちは、「一人ひとりが大事にされる災害復興法をつくる会」が2025年1月24日に行った3項目の提言(下記のURLを参照)を支持するとともに、その実現を政府、石川県に強く求めます。
【提言1】 石川県は、仮設住宅の入居期間について、被災前の居住形態が所有と賃借等の違いで区別をせず、等しく扱うよう運用を改めるべきである。
【提言2】 石川県は、インフラ被害による仮設住宅入居者には、インフラが復旧し居住可能な状態になるまで入居期間を延長するよう取り扱うべきである。
【提言3】 石川県は、令和5年能登半島地震の仮設住宅について、一日も早く、供与期間を1年延長することを決定し、それを公表するべきである。
詳細な提言理由を含むPDF全文は以下のリンクで表示,ダウンロードが可能です。
https://hitorihitori.jp/wp-content/uploads/2025/01/911feb543aaecda19d383306d8ef2ebd.pdf
①みなさんの団体等の会員の方、関係者の方等に、この要請文を拡散して下さい。
②できれば団体名、個人名のいずれでも、印刷した提言を同封の上、日本国総理大臣、石川県知事にあてて、要請文をお送りください。この活動がもっとも効果が高いと思います。
〒 100-0014 東京都千代田区永田町2-3-1 首相官邸 日本国内閣総理大臣 石破 茂 様
〒 920-8580 石川県金沢市鞍月1丁目1番地 石川県戦略広報課 石川県知事 馳 浩 様
以上よろしくお願いします。
能登被災地の仮設住宅に関する検討会(とりまとめ役:岡本祥浩、高林秀明、連絡調整役:遠州尋美)
問合せ先:[email protected] <mailto:[email protected]>
というわけで、とちぎボランティアネットワークもこれをやります。
「それでも諦めない」という光・希望をボランティアに被災者に子供に見た
被災者と同じ経験をしていなかったから共感ができなかった気がした。そんな私のような人間が、本当に話を受け止める資格があるのか。ただ「頷くしかできなかった自分」に無力さを感じた。
それでも「同情が被災者の支えになる」ということ、何もかも復興していない逆境の中で「それでも、それでも諦めない」という一つの光、希望をボランティアや、被災者や、子供たちの笑顔から感じた。
いい大学、いい就職が良いとされる高校生の常識を壊してくれた。
被災者、支援者それぞれ立つ土俵、抱えた不安の種類も違う。住む地域も、何もかも違うけれど同じ人間だから手をとってお互い支え会う。その笑顔に自分も励まされた。また励ますことができた自分に誇りを持てた。
偏差値の高い大学に行き、安定した会社で働く、そんな社会のレールに乗るという僕ら高校生が抱えた世間の常識。良いとさせる生き方を壊してくれたとても良い経験だった。
たくさん親に学費などで世話をかけた、それでいてただ毎日過ごす日々。抱えた無力感、将来への不安。初めてボランティアをしてみてマイナスな感情を払拭することができ、自分が役に立ち必要とされる輝ける場所、方法を見つけたことをとても嬉しく思う。
「遠慮しない方がいい」「素直に自分を表現すること」「たくさん笑うこと」ができていなかった。
いろんな世代の方々と関わってみて、言葉遣い、礼儀を学んだ。
話の広げ方、どんな聞き方でどういう接し方でどんな態度でとたくさん気を遣った。また遣って頂いたと思う。政治関係の話、お金の話が、ボランティアも被災者も話していた話題の一つに多かった。
「遠慮はしない方がいい」ということ。「素直に自分を表現すること」「たくさん笑うこと」が当たり前だけどできてなかったと気づかされた。逆に言えばそれらができない環境、社会になりつあることを実感した。
おすそわけ、横のつながりを久々にみた。コロナが流行り、SNSが普及して「見えない壁と距離があったんだ」と改めて感じた。
2日目にもとやスーパーの店長さんの手作りカレーを食べた時にみんなを思う気持ちの味がした。思いやりの精神、食べて飲み込んで改めて自分の物にしようと思った。
まとめ。「拒絶されるかと思ったら、そうじゃなかった」
誘ってくれた倉谷ありがとう。そしてボランティアのみなさんへ、優しく丁寧にいろいろなことを教えて頂きありがとうございました。僕なりに見よう見まねで頑張れたと思います。また能登のみなさんへ。僕は正直、拒絶されるかと思ってそんな覚悟で行きました。なぜなら僕らは同情しかできないから。けれども実際に行ってみて全然違いました。受け入れてくださった、「楽しんでって」と言ってくださった、そんな温かさに心が救われた気がします。1/24~26の短い間でしたがお世話になりました。もちろん僕もまた今度行きますよ(笑)
平澤伊吹(佐野日大高校3年)
僕は今高校3年生です。今回僕の友達2人誘って3人で応募しました。まず今回ボランティアに参加させていただいた経緯を話したいと思います。理由は単純ただ気になったからです。高校3年生のこの時期は自由登校期間で時間があるので、せっかくだしやったことないことをしてみたいと思い参加を決意しました。
「窓の向こうは自宅があった場所」。そこだけ貼らずに残してきた
1月25日。
この日が人生初ボランティア。午前中は指定されたお宅(仮設住宅)に伺って、窓の大きさに合わせて包装材(プチプチ)をはりました。なぜなら冷気を防いで室温を暖かく保つためです。その作業中に一つとても印象に残ったエピソードがあるのでご紹介します。
高齢の夫婦二人暮らしのお宅を訪問した時のことです。包装材をはろうとしたら1部分だけはらずに残してほしいと言われました。
「おじいちゃんがここからみえる景色が好きでねぇ」と。
窓の向こうには、以前お二人が暮らしていた家があったそうです。地震で全壊して、今は何もないその土地を日々眺めて暮らしておられる。どういう想いで眺めているのか…僕にもその家の思い出が見えてくるような気がしました。
仮設住宅に向かう車中で数々の全壊した家を見ました。そのひとつひとつに家族の思い出が詰まっていたはずです。地震で失ったものは「家」という建物だけでないということをまざまざと感じました。
子どもと年齢近い僕たちの仕事は「鬼ごっこ」
1月26日午前。
この日の活動は午前まで。集会所でおばあちゃんたちの足湯の手伝いをしていると、小学生の子供たちが顔を出したので、一緒に鬼ごっこをしました。ボランティアというと高齢者への活動がメインというふうに思われるし、実際僕もそう思っていたけど、こういう子供たちとの活動という目的もあるなと感じました。年齢の近い僕たちだからこそできることがあるんじゃないかと思いました。
「やりたい」から「やろう」までは時間がかかった。
が「やろう」から「やる」まではスグでした。
最後に。たった1日半の活動の中にここには書ききれないほどの学びや感情がありました。
僕は震災直後からボランティア活動をされてる人々の姿をみて僕もボランティアをやりたいという思いはありました。ただどうすればいいのかという活動への第一歩をなかなか踏み出さずにいました(今回はたまたま時間があったので決断できましたが)。実際どうすれば良いのかわからなかったからです。
まず初めに市役所行き、その後社会福祉協議会に行くように勧められました。社会福祉協議会では実際のボランティア活動について詳しく教えてもらうことができ、そこからはスムーズでした。「やりたい」から「やろう」までは時間がかかったけど「やろう」から「やる」までは時間がかかりませんでした。あの時一歩を踏み出さなければ貴重な経験ができなかったと思います。
能登のみなさん、ボランティアのみなさん、学校の先生方、一緒に行ってくれた友達、一生に残る貴重な経験ができました。ありがとうございます。もちろんまた行きますよ(笑) 倉谷悠太(佐野日大付属高校3年)
12/28、今年最後の能登ボラだった。いつもお世話になっている町野町金蔵地区で餅つき。住民の皆さん20人位と栃ボラ17人。
集落95人中、13人残り。他は2次避難
金蔵集落は元は53軒95人の山上の集落。室町時代から溜池で、天水のみで36町の棚田を作ってきた。1/1の地震で全壊・半壊家屋35件と棚田の亀裂、町野への道路不通、11個あった溜池は3つ残して使えなくなった。今年の作付けは5反しかてきなくなった。
「戻って来たい人が戻れるように」が集落(コミュニティ)の基本。
2月下旬ここに初めて来たとき区長の井池さんは、仮設住宅を集落内に作ることを市に要望していた。断水で、集落に残っているのは13人だけ、市の炊き出しは毎日1回の弁当配布がやっとはじまった頃だった。隣の地区は全村避難をしていたが金蔵はそうしなかった。「集落は人がいることで維持される、戻りたい人が戻って来られるようにするのが大切」という。コミュニティを壊さない、を教訓にしてきたのが阪神淡路大震災からの30年だった。
仮設も集落外、復興住宅も集落外。コミュニティが壊される
区長さんたちは「旧金蔵小跡地を仮設住宅用地に」と地権者に交渉し、条件整備して市と交渉したが、輪島市は町野町中心地域に仮設を2か所作った。
6月、仮設ができはじめ集落に人が戻ってきた。金蔵は66人になった。といっても、うち21人は6キロ離れた仮設に住んでいる。
9/21能登豪雨。地震で崩れ亀裂がはいっていた山は、立木ごと崩れ小河川の橋を塞ぎ平地の町野は大水害になった。仮設のある町野地区と金蔵は地震のときの3倍の山崩れで再び通行不能。断水と通信不能、さらに残った溜池3つも決壊した。
10月「復興住宅を金蔵に」と要望したものの、またも市は町野町中心地区に建てるという。「住民には一度も意見をきくこともなく」と区長さん。
ショックドクトリン! 惨事便乗政策。…反対署名募集中!!
何故こんなに頑ななのかと聞くと「コンパクトシティ構想」が財務省、総務省・国土交通省にあるからで、1軒の家のために道路維持し電気通すのは無駄、過疎地域は切り捨てていくという国の発想=政策がある。これでは財政力の弱い過疎地域の自治体はしたがわざるを得ない。
これはショック・ドクトリン(惨事便乗政策)だろう。
物言わぬ風土の能登の高齢者。山紫水明の地、棚田や集落の人と離れてそう長く元気でいられないだろう。6キロはいつでも行ける距離ではない。足で歩く畑に出る顔見知りと話すという日常を取り戻すのが田舎の復興の基本だ。国の都合でコミュニティ壊すのはやめてほしい。
金蔵集落の人たちは要望書の署名を集めている。もちろん栃木のボランティアもみんなで署名した。
復興住宅の「復興」とは何かが、問われている。(矢野正広)
「ボラセンなく」復旧作業を頼めない人もいた
4月からとちぎ ボランティアネットワークに入会し、輪島市 町野町で復旧活動に参加している。主な作業は倒壊した納屋からの器具の搬出、家屋からは家財道具の取り出し、また耕作ができなくなった水田の草刈り。ソフト面では集会所で足湯を行い、被災者のくつろぎを提供し、つぶやきを聞いてきた。
現地では日本海沿いの国道249号が珠洲市に入ったところで通行止めのまま、集落内の道路は 手付かずの状態が残っている。 作付ができない水田には9月の集中豪雨が重なり、砂利、土砂、流木に覆われ、途方に暮れる状況だ。現場の活動はボランティアが足りず、私たちも頼まれた作業を完了できずに途中で切り上げざるを得ない状況が多々ある。
また被災者側でも復旧してもらう作業を、どこへ頼んで良いかわからない人もいる。そんな状況なのでボランティア側が作業が必要な場所(家など)を探し、住民と調整して、それから復旧活動するという現実もあった。
5年前「栃木の水害も迅速にボラセン」できた。今年の山形水害でも。ここは??
かつて大きな災害があった栃木県内の被災地の復旧活動を振り返ると、鹿沼、栃木、 佐野、宇都宮等を襲った5年前の台風19号の大洪水では、各市の社会福祉協議会によるボランティアセンターが早急に立ち上がり、 1人で参加する多くのボランティアを受け入れ、小グループに分けて活動先と内容を説明し、準備してあるスコップや一輪車などを持たせて現地・現場へ送り込んでいた。
現にこの夏(2024年8月)、 大雨による最上川の氾濫があった山形県の鮭川村、戸沢村に行った時は、被災間もない 8月7日には、県と市の村の職員を配したボランティアセンターが立ち上がっていて、「本日は 50人のボランティア が参加して、〇〇の現場に向かっています。もう、今日の予定は足りてますね」とのこと。 道具・機材も揃っており、感動したところでした。
身も心も 折れてしまう前に 船着場を整備してやらないと・・・
11月2日の朝日新聞社説に輪島市町野町や南志見(なじみ)地区などでは多数のボランティアが必要だが、中心部から遠く、社協に多くを期待できないので地元有志で「まちなじボラセン」が活動している記事があった。しかしこれだけでは復旧活動は進まない。いち早く立ち上げたあとは、一人でも多くのボランティアを受け入れること、復旧の要望を取り上げること、それをマッチングして機材・道具を持たせて活動する体制をいち早く作ることが必要だ。
新聞・テレビなどの報道機関も現状や活動を伝えることも大事だが、復旧の速度を早めるこれらの体制作りの必要性を節に訴えてほしい。
ある漁師のつぶやきが聞こえてきた。
「 俺ら毎日やることねえんだ、魚はいっぱいいるんだけど」。
身も心も 折れてしまう前に 船着場を整備してやらないと・・・と思い能登半島、曾々木の海岸を後にした。( 2024年11月/小林幹広)
つぶやき2024/12/6
80代女性 〇(「まけないぞう作りの)張り紙を見て隣の人を誘ってきた。地震のことを考えると気が滅入るが、こうやって外から来てくれた人に話をすると気が軽くなる。 ・週に一回デイサービス(町野)に通っている。そこでも知り合いと話したり塗り絵をしたりして気晴らしになっている。 ・地震の後は体調がよくなかったが、生活が落ち着いてきたら体調もよくなってきた。 〇感想:活気がありよくお話される方だった。気が沈むとネガティブなことも話してくれた。私たちと話すことで少しでも気分転換になればいいと思う
40代女性
〇この集会場はふだん住民に解放されていて手芸が趣味の人が集まっていることもある。O出さんはこの頃外に出てくることも減っていたけど、今日は来ているからよかった。 ・こうやって教えてくれる、まけないぞうがいるのはいいね。これまで正月には親戚の家でうすときねで餅をついていた。(昨年の)地震直後は餅があったので役立った。伯父さんの家は全壊で取り壊してしまったのでもう餅つきはできない。 ・私の家では餅には豆、あわ、きびを混ぜる。あんこを入れてまとめる。お雑煮の場合、丸もちを焼かずに昆布だしの汁に生の岩ノリをのせる。 〇感想:比較的若い人からの話を聞けた。近所の高齢者のことを見守ってくれて心強いと思う。餅つきが伝統だったのにできなくなってしまって残念
M田さん 70代女性 〇地震の直後はみんな「家を解体して立て直す」と言っていたけど、この頃には言わなくなった。この先の見通しなんて全然立たないのに…。(足湯は)足がポカポカしてます。温まった。 〇感想:優しそうな穏やかな雰囲気で口数の少ない方でしたが、ぽつぽつと話してくださった。とても素敵な発言。なんとも返事のしようがなく聞いていた。足湯の後はまけないぞう作りをしばらく見学していた。楽しんでおられたようでよかった。
K下さん 70代女性 〇畑で、店で売っているような野菜は何でも作っていて今まで野菜なんて買ったことがなかった。この水害で畑に土砂が入ってしまって秋の野菜が全部だめになった。里芋だけは少しできた。 ・今日小さい芋を洗ったりしてきた。 ・畑をやっていると楽しくてほかに何も考えないでよい。 ・地震では何とかなったが水害があるとは思わなかった。 ・仮設住宅は春先が寒かったので冬の寒さが心配。 〇感想:→近所の人に声をかけてもらい参加、足湯の後まけないそう作りにも参加していた。笑顔で語ってくださった。足湯や手芸で気晴らしができたらいいなと思った。 H江さん 70代女性 〇納屋の窓が割れていたのをこの間ボランティアさんにふさいでもらった。今日は足湯をやったらまけないぞうを作る。このセーターも昔自分で編んだもの。 〇感想:本人がモノづくりに参加する とても好評。
K屋さん 80代女性
〇若い人に足湯をやってもらえてうれしい。深見で生まれ、裏山に嫁いだ。避難所には1か月になる。(9月の)水害で来た。仮設はまだ当たらない。
〇感想:あまりボランティアは来てない様子
能登ボラ3月まで月2回行きます>>>こちら
まもなく1年。「テレビ見ることしかない」
元旦に起きた能登半島地震から一年を迎えようとしている。
3月までは名古屋のレスキューストックヤードに加わり穴水町に入って被災地支援活動をやっていたが、その後「輪島市町野町はほとんどボランティアがいない」と聞き、現在に至っている。3月に活動開始したときまず驚いたのは、全く手付かず状態で見放されていると感じた。それが今も続いている。
8月頃には仮設の生活に落ち着き始め、玄関には切花など飾り「もうここで暮らし始めます」と言うメッセージを感じた。
いままでの暮らしは、広い屋敷、畑には食べる分の野菜があった。一日することは一杯あった。季節ごとの畑仕事や冠婚葬祭。地震はそんな普通の暮らしをみんな奪ってしまった。その上、9月の水害で畑も流れ、寄り合って語り合う集落も寸断された。狭い仮設の中でテレビを見ることしかない。
そこで「足湯で語り合おう、しゃべってもらおう」とやり始めたら意外に皆さんしゃべりたいことが良くわかった。知らないもの同士少しタッチして世間話が始まる。若い子との対面に話が弾む。
「ちょっと待ってな」と自宅にもどりアケビや漬物を持って来てくださる。ボランティア初めての学生が多く、大歓迎を受けた。自分たちが元気を貰ったとの感想が多かった。
「あんたー違うがねー」。する側・される側がない会話
閉じこもりがちな冬にもってこいの「まけないぞう」作りを12月から始めた。
寄付で集めたタオルを手縫いで「ぞう」の形にした壁掛けタオルだ。洋裁に得意な人も苦手な人も一緒に教えあいながら、お喋りしながらの様子は始めて良かったとつくづく感じた。
まけないぞうを初めて作るボランティアメンバーだったのがなおさら良かった。「あんたー違うがねー」と言われながらこちらも真剣。ボランティアする側、される側をとっぱらい楽しい時間が共有できた。
被災地責任:被災者が次の(災害の)人に伝えること
現地に入って思うのは暮らす人が諦めなのか、何でも受け入れる土地がらなのか、文句も言わず感謝しか言わないことだ。「遠いところに良くきてくれたね」。もう一年が経つのに今でもそういって労ってくれる。とても嬉しいことでもあるが。
「被災地(者)責任」という言葉を思い出した。被災者自身が体験したことを語らなければ次の災害に生かせない。地震を経験し避難先での生活、転々と住居を変わらず得なかったときの事、仮設の暮らしづらい間取りやオール電化の使いづらさなど語って欲しい。
温暖化のいま毎年の水害・地震は、可能性「大」だ。災害が起きる度に「ボランティア自粛論」が出る。本当に残念だし、怒りさえ感じる。
「何とかならないのこの発言」。一日も早く沢山のボランティアが入って手伝いたい。足湯、片付け、まけないぞう作り、酒飲みなどやりながらこれから先を共に考える仲間になって行きたい。(菊池順子)
☆お願い
まけないぞう作りの新品のタオルを集めています(厚手ものがよい)。文字が入ってなく色付き、柄ものOKです。事務所にお電話下さい。また届けて下さるととても嬉しいです。(1本につき10円程度のカンパももらえるともっと嬉しいです)
028-678-3155 (事務所は日・月休み)
まけないぞうサイト
https://www.tochigivnet.com/ganbaroutochigi/utsunomiyadiy/%E3%81%BE%E3%81%91%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%9E%E3%81%86-%E5%BE%A9%E8%88%88%E6%94%AF%E6%8F%B4%E3%82%BF%E3%82%AA%E3%83%AB/
もっともっと人の手があればなぁ
被害のあった地域に入ると 特に静かに感じた。道路脇に、静かに普通に斜めに崩れた家と、流れてきた 大木や残骸。これを毎日、目にしながら不便な生活を余儀なくされた人。そんな中でも暮らす人やお店の人の笑顔や穏やかさに、心の強さを感じた。
もっともっと 人の手があればなあ。
もっともっと 近くの人が行ってあげられればなあ。
もっと早く元気に笑顔を増やせると思うのになあ、、、」と思いながら就寝。
「ほぼつぶれた家の屋根だった辺り」に上り 貴重品救出
あさイチで現場近くの「ボランティア拠点」で朝礼。その日どこに何人向かい、何をするかが知らされているので、装備の準備ができます。 情報は大事です。
壊れた家からの物品を探すために、「 ほぼ潰れた家の屋根だった辺り」に上り、釘の出た柱や、ずぶ濡れの畳、割れた瓦を取り除く人と、泥や残骸をスコップで掬っては 一輪車で運ぶ人に分かれ、 エンドレスの作業。雨だったら危険でできなかった 作業だと思いました。人数も必要です。
午後は旅館に流れ込んだ泥の泥の除去作業。電気も水道も止まっているため、ポータブル電源で明かりを確保しての作業で、ひたすらスコップで水分を含む泥を入口付近に運び出していきます。人手がなければ話にならない 「10人ぐらい必要」の意味がよく分かりました。
次の日の足湯ボランティア。 仮設住宅の敷地内にある集会場でカセットコンロでお湯を沸かし、足湯バケツに入ってもらいながらゆっくりとお話を伺う。仮設住宅での足湯は女性しかきませんでした。男性限定の「そば・うどん打ち教室」などがあったら楽しいのではと思いました。
慣れないオール電化、「我慢してるんだな」
仮設はオール電化らしいのですが「前日、停電になった」と心配されていました。火事になったら周りに迷惑をかけるのでガスは使えないし・・・と、「一生懸命やってくれているので電力会社に電話するのも遠慮した」とのこと。「我慢してるんだな」と思いました。
栃木から応援に行くのであれば、大学や高校の掲示板を利用させてもらい、 ボランティアを募るのはどうでしょう。(相場久美)
※写真:側溝の下は全部泥
能登ボラ、ほぼ毎週末ボ集>>>こちら
11月8日から11月10日の3日間、能登半島ボランティアに参加しました。やったことは海楽荘という旅館の掃除や、ビニールハウスの骨組みの組み立て、現地の人にマッサージをしながら話を聞いたり、足湯の用意などをでした。
まだまだ復興に時間と人手が必要
ボランティアに参加して思ったことは、まだまだ復興に時間や人手が必要だということです。海楽荘では一日中泥かきを行いましたが、男手約10人で行ってもトイレの泥出しさえ終わりませんでした。また移動などで崩れた家をみましたが、まだまだ立て直しや、取り壊しなどがされてない建物が大半でした。そして、足湯を行った際に現地の人と話す機会がありました。
「たくさんの人がボランティアに参加するべきだ」
「水汲みが大変で肩がとても凝っている。ボランティアの皆さんと話したり肩をほぐしてもらったりすると疲れが取れる」と言う人がたくさんいて、ボランティアとして現地の人たちに元気を与えることはとても大事なことだと実感しました。災害ボランティアは初めてでしたが、復興にこんなに時間がかかると思いませんでした。みんながもっと自分事だと思い、たくさんの人がボランティアに参加するべきだと思いました。
現時点での能登半島は前に述べたように復興にまだまだ時間がかかる状態で、人手も足りません。なのでボランティアのことを多くの人に知ってもらい、呼びかけていき、数を増していくと、いち早く復興に向かうと思います。
まずは、能登ボラに行った人は身近な知り合いに経験を伝えて、ボランティアを増やすことが必要です。(増子結生/星の杜高校2年)
テレビと現実は違う衝撃
この度初めて参加した高校二年生です。茨城県常陸大宮からの参加となり、能登までの長旅は慣れないものではありましたが、時間をかけて行った分、得たものが山ほどありました。
まず初めに、全く同じではありませんが、現地の方々がせざるを得ない生活を私自身も二晩三日と過ごしました。言葉や想像では理解できなかったものが、自分自身が体験することではじめて、実感するという形で認識できました。
現地の移動中に移り行く景色は、本当に悲惨なものばかりで、衝撃を受けざるを得ない状態でした。テレビや何やらで見たことがあっても、現実を目の前にすると、見方が全く異なります。そんな中でも、私たちが携わった方々はとても明るくて、自分たちでできることを精一杯なさっていました。
「心の痛みで立ちあがれない人」ではなかった!
私は、少し戸惑いを感じました。
そこに訪れる前までは、その地域の方々は、心の痛みで立ち上がることも困難なのかなと思っていました。しかし、思い込みは良くないと、切実に思いました。
足湯のボランティア活動では、住民の方々とお話しする機会が多くありました。そこでは、みなさんの地域の復興に対する確固たる意思を感じました。復興に向けた日々の生活から生まれた悩みや、私たちボランティア団体に対するお言葉など、みなさんの口から溢れた言葉は、家に帰っても何度も思い出されます。
助け合いの精神を次につないでいくのは私たちの役割だと、心から思う
特に印象に残っている出来事の一つに、最終日の仮設住宅訪問があります。足湯にいらっしゃった方はお一人でしたが、元気いっぱいな子どもたちは何人もいました。そこではずっと、時間が許す限り子どもたちと遊んで過ごしました。
みんな、同じでした。私の周りにいる子どもたちと、何も変わりませんでした。みんな明るくて、元気が有り余っていて、無邪気で、たくさん笑っていました。ボランティアというのは、一見、行った側が活動で地域に変化を与えるという大きなイメージをしがちですが、実際は全く逆で、心境をはじめとして、変化を与えられたのは私の方でした。
みなさん一人一人がしっかりと、揺らぐことのない自分の信念を持ち、復興に力をつくしておられました。果たして私たちが地域の方々のために為し得たものは何だったのだろうかと考えました。きっと、私たちが為したものは大きな変化を与えるようなものではなく、遅効的なものだと思います。しかし、確実に私たちの軌跡はそこにあり、地域復興に携わったことは確かです。そして、それがボランティアなのだと思います。
他にも、この能登での三日間が私にもたらしてくれた変化は多くありました。そこで学んだことは全て、ずっと、ずっと心に留めておくべきことだと思います。今回の経験をもとに、助け合いの精神を次につないでいくのは私たちの役割だと、心から思います。(菅野みどり/高校2年)
比較的細かい作業、人力しかない!
11月8日から11月10日までの奥能登・週末ボランティアに参加した。活動日は土曜の全日と日曜の午前中。まずは海楽荘のトイレの泥だしをした。海楽荘は土砂崩れの被害にあったホテル兼自宅で、建物は崩れていないが、泥が溜まっていて取り出さなければ営業復帰ができない状態だった。
建物を壊すわけではなく泥を取り出すという比較的繊細な作業なので、重機は思うように使えず人力でスコップを使う、というとにかく人手が要るような作業だった。これがまたひどい臭いで、現地の人によると、土砂崩れの被害にあった建物はどれだけ綺麗にしても臭いが完全になくならないそうだ。男性10人がかりで4、5時間かけてもトイレさえ作業を終わらすことはできなかった。本当にやることが多くて大変だと感じた。
日曜日は農家のビニールハウスの骨組みを組み立てた。土曜日に引き続き、骨組みの組み立ても地道な作業だった。この作業を80歳を超えた男性と60〜70代男性(年齢を聞いていないので勝手な憶測)の2人でずっと行っているとのことで、被災地の復興にどれだけ時間がかかるかという被災地の大変さの一部分がわかった気がした。
「重機で建物壊すイメージ」じゃない。人の手の数。足湯も、肩もみも
このボランティアに参加した理由としては、ずっと被災地でのボランティア活動に興味があったことと、これまで、大きな災害の被害にあったことがなく、被災地の状況を生身で感じたかったということがある。また、このボランティアは宇都宮から現地まで送迎バスが出ることや週末で完結していることなど、行きやすい条件だったので参加しようと思った。「人が足りていない」ということで、高校内で募集をかけて行くことにし、計10人を集めることができた。
今回初めての被災地ボランティアに参加した身として一番に感じたことは、「とにかく人手が必要だ」ということだ。私のイメージとしては重機で建物を壊したり、泥や木を取り除いたりして復興しているものだと思っていたが、人の手でしかできない作業はたくさんあった。先ほど書いた泥だしのこともそうだが、足湯や肩揉みなど、被災地の方々の心身のケアも大事になってくる。そうすると、本当にたくさんの人手が必要になる。このボランティアは比較的参加しやすい内容だと思うし、私としては普段関わらないような世代の方々とお話しもできて、とても充実した内容であった。年齢も性別も関係なく、いずれ自分も被災するかもしれないというマインドを持ってたくさんの人が参加するべきだ。これからは、こういったボランティアで災害についての知識をつけることや、見知らぬ地に支援しに行くという行動の選択肢を持っていきたいと思った。(加藤謙・星の杜高校/16歳)
高校男子10人と初・能登ボラ!
はじめて、災害救援ボランティアに参加しました。
能登にもはじめて、やっと来ました。今年、年明け早々の地震から、SNSなどでずっと見てきた地域を、実際に目の当たりにして、改めてショックでした。地震から10か月以上、豪雨災害から1か月半たっているのに、まだまだ生々しい被害の爪痕に、言葉が見つかりませんでした。
今回のメンバーは、男子高校生10人と成人男性4人、成人女性わたし含めて2人とわたしの娘の女子高校生1人の17人でした。男性陣は主に泥出しと、パイプハウス建てをしていました。みんな泥だらけでがんばっていました。高校生の若い元気パワーは、場を明るくしてくれていました。
「来てくれるだけで、忘れられてないんだ、と感じる」
わたしは今回、足湯ボランティアを担当させていただきました。足湯にいらっしゃった方々とお話すると、みなさん、遠くからありがとうねー。と、おっしゃってくださり、胸がいっぱいになりました。「来てくれるだけで、忘れられてないんだと感じれて嬉しい」という言葉に、わたしが救われた気がします。
支援のかたちはいろいろだとおもうし「できる人が、できるときに、できることをしたらよい」と本当に思います。行きたくても、身動きがとれない人のほうが多いと思うし、自分がいいなと思う支援団体に、活動支援金というかたちで想いを託すのも、被災地をたすける大きな力だとおもいます。同時に、タイミングをつくることができたら、関心をもっている方が、ひとりでも多く、現地に行けたら!と、強くかんじました。
4年前の茨城に水害で「いちごハウス12棟」水没。
わたしは、茨城県のいちご農家で、2019年、豪雨災害に遭いました。ハウス12棟と直売所が、水没しました。周りのたくさんの方々に助けていただいて復活し、今があります。自分たちだけでは、気持ちがもたなかったとおもいます。
日本全国いつどこでなにが起こるかわかりません。いま被害に遭われている方々に、日本中から応援しているから、くじけないで!と伝えられたらと、切におもいます。そのためにいろんなところで、いろんな形で、あたたかい支援が続くこと。その輪に、より多くの人が関われたら素敵だなと、心から願っています。
今後、わたしは、わたしの周りの人に、ほんの一部ではあっても、わたしが見た、感じた、触れあった、今の能登を伝えたいとおもいます。日本中で、つらい現状も、明るいニュースも、もっともっと能登の話題をみる機会が増えてほしいとおもいます。
貴重な経験をありがとうございました。(菅野久美子)
>>能登ボラ募集 https://www.tochigivnet.com/
「現実は無いことだらけになったわいね」
地震と水害で大きく変わってしまった町。 ふと夜空を見上げると見覚えのある変わっていない綺麗な星空。ボランティアに来て町野町の夜空を見た方々は思わず「うわー見て綺麗な星空、地球って丸いね」と実感し、写メや動画撮影。「こんな綺麗な星空見たことない!」
寒いことも時間も忘れ見てしまいます。プラネタリウムで見ているような錯覚してしまうような星空、見ていると日頃の疲れが癒される気分になります。
「便利な場所は理想やけど、現実は無いことだらけになったわいね」
「心知れた人々の顔を見るだけで安心するわいね」
息子さん、娘さんが「一緒に暮らそうと迎えに来てくれたわいね」「暮らせたら嬉しいわいね」と笑み、凛とした表情になり「住み慣れた町野がいいげわ、自分でやれるところまで、此処におりたいげわ」と子供たちに伝えたという。目に覚悟を決めているように感じました。
「何年ぶりに能登」。5月なのに、復興の音が聞こえない静かな町。
私は5月下旬、初めて町野町へのボランティア活動に参加しました。夜行できた翌朝、衝撃的な家屋倒壊、崩れたはげ山、応急措置の道路を見て、言葉では表現できない目の前の現実に、涙を越えた悲しみ。いざ現地に来て驚いたのは、町に復興の音が聞こえない静かな町。元旦から倒壊し放置されたままの状態。
「この場所が好きねんわ」と復興が進まないけど、1人1人が力強く生きる背中を感じました。
偶然にも、私はこの町野町で生まれ 高校卒業まで暮らしていました。
「何年ぶりに能登へ」。どんな言葉をかけて良いのか不安でした。町野の中心、もとやスーパーに一時の癒しを求めに人が集まり、お互いの情報交換をしたりしています。「炊き出し」は皆さんに笑顔と元気を与えている。ボランティアの力は凄いと初めて見てありがたいとおもいました。
「有難いわ。ボランティアの人のお陰やわいね」
地震後「この町は何も変わらんわいね」。「この先、家を壊して、町から人が出て行く人が多いわいね」。「どんだけの人が残るがかな?」。「色んなボランティアの人たちが遠い所から来てくれて、何でもボランティアの人に助けてもろとるげわ」。「有難いわ。ボランティアの人のお陰やわいね」。
9月の水害で、地震の時より大変な状況になってしまい、住民の皆さんを見ると、残ったみんなで助け合って前向きに! と思えるような悟ったような明るい強い絆が伝わってきます。 水害後ボランティアの人は前来た時より見かけますが、当日作業用バケツ、スコップが沢山有り、まだまだ人が足りないです。
どうか皆さま、能登を助けてください。
9月水害。「朝9時、仮設も危険やぞ!」と復旧作業員が叫ぶ
南志見(なじみ)地区を初めて訪れ、町野からたどり着くまでの道のりの景色を見て、「この危険な道を日々住民の方々は通り生活している、危険すぎる!」
水害当日の話しを聞きました。「朝9時頃大雨なり、復旧作業員が仮設住宅前で大声で、此処は危険やぞ! と叫び第一仮設集会所に行こう! 車に乗って! と作業員は何往復もしてくれたげわ」「夕方雨が落ち着いたさかいに第2仮設住宅の家に戻ったげわいね。本当にありがたいわいね」
皆さんのお話しが途切れず足湯をしながら会話を終わるタイミングが何か申し訳ない気持ちになり、またお話が聞けたらとおもいました。( aiko )
宇都宮から車で約 9 時間かけて能登半島の山間の地域にある私たちが今回泊まる集会所に到着した。その時にはすでに深夜 1 時を回っていた。
川沿いの崖に建つ家は、基礎の下がない。
翌日、朝ご飯を食べ、いよいよ被害が大きいと言われている、中心部のもとやスーパー近辺に向かった。そこに行くまでは「地震から約 11 か月もたち、豪雨から約1か月半立っているので、復興はある程度進んでいるのでは」と思っていた。しかしそう考えた私は、車に乗り道中を見ていく中ですぐに考えが甘かったと後悔した。想像をはるかに超えていた。川沿いの崖の家は、基礎部分の土砂が抜け落ちている。大木が散乱した田畑、土砂崩れで埋もれた家々、一階部分が崩れ落ち、あたかも二階建ての家が一階建てのようになった家々。。。言葉を失った。
「津波と同じだ」
そうこうしているうちに中心部のスーパーに到着すると、被害の全容を明確に知ることができた。地震で多くの家屋が崩れ、そこに豪雨による河川の氾濫によって土砂が流入したのが。
この状況は、東日本大震災の津波のようなものと直感的に感じた。津波も同じように、地震の後に、土砂を巻き込んで海水が流入する。しかし、今回の複合災害が地震と津波の複合災害と決定的に異なるのは、地震と豪雨は切り離された関係であり、その二つの災害がたまたま同時期に起こってしまったことにある。そこがこの災害のとても悲惨な部分であると感じた。
「地震⇒ヘリ、⇒2次避難所⇒ホテル転々、⇒能登仮設に戻る」
今回のボランティアでは、家屋内の地震で崩れ落ちた土壁の清掃と足湯ボランティアをした。特に、足湯ボランティアが印象に残っている。この地区は地震の仮設住宅があるものの、9月の豪雨で新たに避難してきた人たちがいた。子供3人と明るくふるまってくれた5人家族。一人で仮設住宅で暮らす年配の人、様々な人が足湯を利用してくれた。
「足湯をしながら、手や肩のマッサージを行い、その中で話をし、心理的にも肉体的にも、疲れを取ってもらおう」という活動だ。多くの被災者と話ができた。共通していたのは「地震で被災し、ヘリで石川県外へと避難し、同じ集落の人と離れ離れの中で生活し、避難所となっているホテルを転々としながら、仮設住宅ができたため、また能登半島に戻ってきた」ということだった。
「転居は、コミュニティを破壊する」と、学んでない政府!
私はここから、政府に対する疑念を持った。東日本大震災でも「被災前の近隣住民と同じ避難所に行けない」という問題があったにも関わらず、その教訓を生かし切れていないからだ。近隣住民などの知り合い(コミュニティ)がいなければ、その避難所で新たな「知り合い」を作らなければいけなくなり、年配の人にとってはそれはとても体力の使うことであり、困難を極めることは確かだ。
最後に、今回初めてボランティアに参加してみて、まだまだ被災地には問題を抱えていることを肌で実感でき、これからも能登に目を向け支援していきたいと思う。(相原光/宇大国際2年)
特定非営利活動法人とちぎボランティアネットワーク
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