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とちぎ県北Vネット
フードバンク県北 / 子どもの居場所 スマイルハウス
営業時間
学生・若者ボランティア募集中。現在15人。
毎月1〜2回の会議で、当日までの企画を一緒に考えてくれる人募集中。
ボランティア大募集!
◎相談聞き取りボランティア
◎食品回収ボランティア
◆毎週木 15時~ フードバンク会議
『チャリティウォーク県北2024』が無事に終了しました!
少し雨が降る中、約100名の参加者とボランティアの皆さんが力を合わせ、地域を支えるために一歩一歩進んでいきました。フードバンクを応援するためのこの活動は、たくさんの方の温かいご支援と協力のおかげで大成功となりました!
印象的だったのは、参加者一人ひとりが意気込みをホワイトボードに書き、それを写真に残してくれたことです。たくさんの方々が、それぞれの思いを込めた言葉を発信し、地域への愛と支援の気持ちが伝わってきました。💖
ウォーク中も皆さんの一体感が感じられ、少し雨が降っていたにもかかわらず、ゴールを目指す姿が印象的でした。歩くたびに絆が深まり、みんなで支え合いながら素晴らしい時間を過ごしました。
チャリティーウォークは、フードバンクを知り伝え広める。それが地域を支える力となって、今後もフードバンク活動を続けていく励みとなります。
今回のチャリティ活動を通して、多くの方々が「地域のために何かできる」という思いを持ち続けてくれることを期待しています。
最後に、チャリティーウォーク県北2024実行委員長の安井将太(しょうちゃん)です。
今日のチャリティウォークで、皆さんの力が地域を支えていることを実感しました。
この温かい気持ちを大切に、これからも一緒に歩んでいきましょう。
あなたの思いが、誰かの希望になります。引き続きよろしくお願いします!
こんにちは!今回は、「まっちゃんキムチ」のオーナーである東河成海さん(とうがなるみ)さんと店長の橋本侑児さんにインタビューをさせていただきました。
東河成海さんは、家族のためにキムチを作り始めたことから、やがて地域全体に愛されるキムチ屋「まっちゃんキムチ」をオープン。
現在では、地元大田原市のブランド野菜を使った「ネギキムチ」が大人気商品になっています。
そして、店長の橋本侑児さんは、元々はキムチのファンとしてお店に通っていたそうですが、今では東河さんの理念に共感し、二人三脚で「まっちゃんキムチ」を支えています。
名前に込めた思い:東河成海さん
東河成海さんは、自分の名前を「とうがなるみ」として新たな人生を歩み始めました。インタビューでは、その名前の意味と、これからの活動への決意について語ってくれました。
『とうがなるみ』という名前には、これからの新しい人生を一歩一歩踏み出していくという意味が込められています。これからは『なるちゃん』と呼んでもらえれば嬉しいです!」
彼女のこの言葉は、人生の再スタートを表しており、自分らしさを大切にしながら周囲の人々と共に歩んでいくという強い意思が感じられました。
まっちゃんキムチの始まり:家族への愛と地域の食材
東河さんがキムチ作りを始めたのは、家族のためでした。彼女の家族は大量の白菜を育てており、それを無駄にしないためにキムチを作ることにしたそうです。
「初めは、家族のためにキムチを作っていたんですが、何度も試作を繰り返しているうちに、祖母が作ってくれた懐かしい味を再現したくなって…」
家族の食卓から始まりましたがその美味しさは次第に地域の人々にまで広がっていきました。特に、大田原市のブランド野菜を使った「ネギキムチ」は、今や地元で大人気の商品です。
「ネギキムチは、大田原ブランドのネギを使って作っています。地元の農家さんとのコラボレーションが、キムチ作りの重要なポイントです。地元の良さをもっと広めたいんです。」
ネギキムチの秘密:特製ラー油と手作りへのこだわり
まっちゃんキムチの看板商品「ネギキムチ」は、東河さんが特に自信を持っている一品です。彼女は、単に美味しいキムチを作るだけでなく、健康にも配慮した「無添加キムチ」を作っています。
「ネギの独特の辛さを抑えつつ、キムチとしての深みを出すために、特製の手作りラー油を使っています。フランス料理のように、ラー油を一瞬フランベして香ばしさを加えるんです。これがネギキムチの秘密です。」
こだわりは、ただ味にとどまらず、体に優しい食材選びにも現れています。
添加物を一切使わず、野菜本来の美味しさを引き出すために、細かい手作業を惜しみません。
橋本侑児さんのストーリー:キムチ嫌いから店長へ
面白いエピソードとして、店長の橋本侑児さんが、実は元々「辛いものが苦手」だったという話もありました。最初はキムチを食べられなかった彼が、まっちゃんキムチの魅力に取り込まれて店長になるまでのストーリーは、まさに「縁」と「運命」を感じさせます。
「僕、辛いのが本当に苦手だったんです。だけど、まっちゃんキムチを食べたら、不思議と食べられるようになってしまって…。それからこのキムチの力に感動して店長になりました。」
また、橋本さんはキムチ屋の店長でありながら、実は心理カウンセラーやマッサージの資格を持っているという異色の経歴を持っています。そのため、ただ「売る」だけでなく、心と体のケアを一緒に提供したいというビジョンを持っているとのこと。
サロンオープン:心と体を癒す新しい挑戦
東河成海さんと橋本侑児さんは、まっちゃんキムチの拡大を図るため、新たにサロン形式のお店をオープンすることを発表しました。ここでは、キムチや唐揚げといった料理の販売だけでなく、橋本さんの得意とするマッサージやカウンセリングも提供されます。
「キムチを食べるだけでなく、心と体を癒すための場所を作りたいんです。みんなが健康になって、笑顔になれる場所を提供できればと思っています。」
地元の食材を活かしながら、健康と癒しをテーマにしたこの新しい挑戦は、今後さらに注目を集めそうです。
インタビュー編集後記
今回のインタビューを通じて、東河成海さんと橋本侑児さんのお二人の強い情熱と温かさを感じることができました。彼らは、キムチ作りを通して地域の活性化に貢献し、地元の農家とのつながりを大切にしています。また、「食べる」ことが健康に直結するだけでなく、地域との絆を深める一つの手段であることを改めて実感しました。
東河さんの「食べ物が人を幸せにする」という信念や、橋本さんの「心と体を癒す場所を提供したい」というビジョンには、深く共感しました。彼らが新たにオープンするサロンが、どのように地元に影響を与えていくのか、これからも注目していきたいと思います。
最後に、彼らのキムチをまだ食べたことがない方は、ぜひ一度試してみてください。
その優しい味わいと、地元愛が詰まった一品は、きっとあなたの心と体に元気を与えてくれるはずです。(しょうちゃん)
リンクはこちら⇨ https://www.youtube.com/live/duQzXQ0ipns?si=pkazg8929fO3qG86
今回のインタビューに関する詳細や裏話は、ぜひYouTubeでもご覧ください!
●元旦バイトで見たTV
2024年1月1日栃木県。「従業員スペース」にメロンパンの香り・味。アナウンサーの激しい声が響き渡るなか、私はただ呆然と流れる地震・津波…の文字を眺めていた。
元日のショッピングモール・バイトでの激務が眠気を誘う。いつもはここで仮眠だが、その日はテレビに映る危険信号が私の心を奪った。
●現場はいまだ非日常のまま
6月末、能登半島に行った。災害ボランティアの経験はなかったが、それがハードルになることもなかった。栃木から能登半島まで9時間ほどマイクロバスに揺られ、深夜に着く。海辺の旅館「海楽荘」で朝6時の太陽を浴びる。そこから1日半、本格的な活動に入る。
災害ボランティア=力仕事の概念が壊された。仮設住宅の一間で足湯ボランティアの存在を知ったのだ。湯につかる間はハンドマッサージを行いながら、傾聴する。この「即席地域サロン」では震災の話に限定せず、地元自慢や方言といった、何気ない話までもした。
家財道具の移動や海浜ゴミの処分など、汗をかく仕事もした。しかし作業の休憩時間にも家主や家族の人と話す瞬間があった。「暑いのにお疲れ様」とスポーツドリンクをいただいたり、「マッサージ気持ちよかった、ありがとう」と感謝のことばをかけてくれた。
能登半島の優しさ・気遣いが何よりも嬉しかった。ヘトヘトになりながらマイクロバスに乗り込む。ドアが閉まり動き出す。車窓からの眺めはまるで元旦当時の光景を写しているようで、1階が潰された家屋や傾いた電信柱、ブルーシートで何とか雨漏りを防ぐ家屋、その景色一つ一つが疲労しきった体に現実として襲いかかってくる。現場はいまだ非日常のまま。それが第一の感想だった。心残りのまま、栃木に帰る。
●「地震より水害の方がひどかった」
それから3か月後、また私は能登半島に行く決心をする。3か月経って現地はどうなったのか、またあの人に会えたらいいな、そんな想いを抱いていた。その矢先、現地で水害が発生する。
1週間後に迫るボランティア活動に向けて、宇都宮でミーティングが行われていた、まさにその最中にも。まだ雨は止んでいない、まだ被害は大きくなる。メディアやSNSの情報を頼りに、手探りのままミーティングは進んでいった。現場の状況が一変したが、それがハードルになることはなく、むしろ能登への想いが加速度的に高まった。
「地震より水害の方がひどかった」足湯で出会った人が話していた。その言葉がずっと心に残っている。前回泊まった「海楽荘」の店主が亡くなってしまい、海楽荘も土砂崩れに襲われた。現地での食料調達でお世話になった「もとやスーパー」も水害の被害が色濃く残っていた。私もまた、その人と同じことを思っていたのだ。
1日目の家財撤去の現場では、大量の土砂や枝木が奥まで侵入していた。土砂はヘドロのように重く、どれだけ掻き出しても出てくる土砂に悪戦苦闘した。家族が増えるごとに増築していったというその家にはたくさんの思い出が詰まっていた。それを一瞬にして奪っていった侵略者に私は恐怖と怒りを抱いた。汚れに注意しながらマイクロバスに乗り込む。車窓からの眺めは3か月前よりひどい姿だった。
●あの日の自分は、「遠くの誰かを思うこと」を忘れていた。
2024年1月1日。新しい年に希望を抱く日。抱くはずだった日。大切な景色が奪われた日。大切な人が奪われた日。時間が止まった日。その日その瞬間に、私は大切なことを忘れていた。遠くの誰かを想うこと。無事を祈ることを忘れていた。私は2回のボランティアを通して、他人事だった出来事が「自分事」になった。
●その日から後悔しているが、悩んでも意味ないから現地に行こう!
活動を終えたあの日から、私はいまだに後悔ばかりを抱いていて、例えば「もっと現地の方に寄り添えることができたのに」とか、「もっと体力があれば最前線で動けたのに」とか、他人からみたらどーでもいい悩みを抱えながら栃木にいます。でもどーでもいい悩みを抱える自分を認めてくれる、受け止めてくれる人(団体)がそばにいる。そんな幸せを噛みしめながら、今日も遠くの誰かを想って、がむしゃらに生きています。ありがとうございます。(篠原航太/大学3年)