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とちぎ県北ボランティア
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毎月1〜2回の会議で、当日までの企画を一緒に考えてくれる人募集中。
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ボランティア大募集!
◎相談聞き取りボランティア
◎食品回収ボランティア
◆毎週木 15時~ フードバンク会議
6/28半年ぶりに能登災害ボランティアへ参加させていただきました。前日は緊張感からか、あまり眠れない状態でしたが、出発前のミーティングで気さくな皆さまと顔を合わせ、リラックスして出発できました
畑?とは言えない土の塊が広がる
1日目は足湯班のつもりで向かいましたが、朝のミーティングで急きょ男性陣に混ざり大豆のタネまき班へ。普段運動もせず体力不足の自分で不安もありましたが、ここに来たら何にでもチャレンジしようと思っていたので勢いで手をあげました。
大人になって「初めて」のことが減ってきた私には新鮮な作業ばかりでした。溜め池が震災で使えなくなり、水を引けず稲が作れない。棚田を荒らさないために、畑にする作業です。募集している「枝豆畑オーナー制」、あの畑企画ですね。
畑?とは言えない土の塊が広がっていました。でこぼこの土の上を慣れない長靴で歩くだけでも一苦労でした。鳥に食べられないように白い大豆に着色します。鮮やかな赤色に驚きました。青大豆とのコントラストが見事でした。大豆に白、青、黒色があるなんて知らなかった! 悪戦苦闘しながら畝をつくり、種まきのラインを作り、種まき機で種をまき、土を被せ密着させる。言葉にすると簡単ですが、実際はなかなかのしんどい作業でした。暑さもあり、汗だくになりながらの作業でしたが、余計なことを考える余裕はありません。ひたすら体を動かす、深い緑の山々に囲まれ、鳥の声を聞きながら。休憩で飲むお水のおいしいこと。
「古い機械だからね、人も機械もメンテナンスが必要だから」。農業の苦労を想う
午前中より、午後。1日目より翌日、少しはスムーズになってきたかというタイミングで種まき機のベルトが切れるハプニング。落ち込む私に「古い機械だからね、人も機械もメンテンスが必要だから」と優しい声かけに救われました。人手の必要性も痛感しました。農家の方々は延々このような作業を続け、自然に左右され出来高の保証がない大変な仕事だと改めて感じました。消費者の立場では分からなかったことばかりです。
人手が必要。外から行くボランティアが必要
「田んぼに戻せるのに、少なくても7年はかかるな」。「若いつもりでいたのに体がいくこときかなくなってね、7年は長いよね」と軽トラの中で悔しそうに話す横顔が目にやきついています。発災から時間が経過し、住民の方々の体や事情もそれぞれ違いが出てくる時期なのだと思います。だからこそ、外から行くボランティアの力が必要になるのだろうと思います。
ご一緒に活動してくださった皆さん、何も知らない私に優しく教えてくれ声をかけあい最後まで活動できたことに感謝しています。厳しい暑さの中で活動したうえに、運転してくださった方々、本当にお疲れさまでした。ありがとうございました。私は解散時のVネットの「またお会いしましょう」という言葉が大好きです。普段は出会うことのない人々と、一緒に過ごす週末は特別で貴重なご縁だと思います。自分でも少しは役立つことがあるのかも、と思いながらまた機会を作って参加させていただきたいと思っています。ありがとうございました!(マノメ)
先日配信された「とちぎフレッシュLIVE」では、栃木県大田原市の副市長 斎藤達郎さんをゲストに迎え、まさに“リアルな公務員生活”について、じっくりお話を伺いました。
「市民目線」「現場」「地域愛」…そんな体温の感じられるお話をできるだけ丁寧に、ご紹介します💡
教員志望からの転身。最初は“ジャージ勤務”🏃♂️
斎藤さんは昭和37年(1962年)9月21日生まれ。実家は商店街のすぐそばで、高校までずっと地元・大田原市で過ごしていました。
「大学では教育学部に進み、教員を目指していたんです。教育実習も経験したけれど、なんとなく“これだ!”という感触がなくて…」と言います。
その後、公務員試験に転向し、県庁や国家公務員も受験したそうですが、合格したのは唯一“地元大田原市役所だけ”だったとか😊
「でもそれが、自分の人生を大きく変えるきっかけになったんです」
市役所に入った当初、配属されたのはグラウンド整備やプール運営などの“屋外現場”。事務机に向かうことはほとんどなく毎日ジャージに着替え働いていました。
草刈りしたり
トラクターに乗ってグラウンドを整備したり
プール監視員として水着で待機したり
ドアノブ・卓球台のキャスターまで自分たちで直したり🛠
「指定管理者なんて制度もなくて、全部役所がやるしかなかった。芝一本、ボール一個にも責任を持って、現場でみんなと汗をかいていた日々でした」と。
東日本大震災当時、庁舎がいくつにも分かれてまとまっていなかった事に強いストレスを感じたそうです。
情報が届かない、人に会えない、顔が見えない職員同志には「安心感」がまったくなかったといいます。
“顔が見えて、話せて、相談できる” って、災害対応だけじゃなくて普段の行政でもすごく大切だと思ったんです。
それ以来、庁舎内での顔合わせやコミュニケーションを重視するようになり、市役所は自然な会話や雑談が生まれる場として設計され、今では“言いやすい、相談しやすい職場”になってきたと語っていました😊
副市長とは「自由に動ける“選ばれし人”」ではなく、「むしろ縛りが多くて、自分の時間がない職業です」と話します。
朝7時に家を出て、通学路で子どもたちを見守る
8時には役所に到着し、決裁書類に目を通す
午前中の会議、午後は現場や部署との折衝が続く
「今日30分でいいですか?」と急に呼び出されることも多い
勤務終了は夜遅くまでかかることも
それでも「市民や子どもと直接関われる時間があるから頑張れる」と。
現場に立ち続ける理由をやわらかく語ってくれました🌟
市役所には“嫌な電話”がかかってくることもあります。
「仕事でミスしたわけじゃないけど、文句を言いたくなる気持ちもあるよね」と、
苦情やクレームは、まず現場で聞いて対処。それでも難しい場合には、副市長や市長も巻き込んで対応するそうです。
「理不尽な話もあるけど、感情の奥には言葉にできない悩みや不安が隠れている場合も多いんです」と話します。
そして、「対応のしっかりさが、行政への信頼につながる」と実感しており、「クレームだったからといって、ネガティブに受け取らず、話してくれた市民に感謝したい」という気持ちを常にもっているそうです😊
大田原市の財政についてもわかりやすく説明してくれました。
年間予算は約350億円
そのうち市税は約110億円(約32%)
残りは国・県の交付金、補助金、借入金など
市民一人当たり年間で約52万円使われており、うち税金が約5万4千円
「だけど税金だけでは足りない。だから国や県との制度の中で財源を補いながらも、市民の理解を得られる“使い方”を常に考えています」
公開されている“市の家計簿”をもとに、「子育て支援・高齢者ケア・障がい者支援などに約4割を使い、インフラや道路整備などに1割未満というのが大田原の現状です」と丁寧に話してくれました。
また、「コンサートホールへの投資など、何に重きを置くか、市民の価値観も含めて判断する時代です」と、市民との共通理解に重きを置いているそうです。
人口減・少子高齢化という全国的な課題に対し、次のように語りました。
「市役所が全部やる時代はとっくに終わったと思っています。これからは“地域の皆さんと一緒にやる”というスタイルが必要です」
このスタイルは、自治会や子育て支援グループなど、地域ベースの“手触り感ある自治”の進化とも重なります。
「僕自身も現場に顔を出すし、地域の人と話して『このまちをどうしたいか』を共有していくことが、次の世代につながる気がするんです」と語ってくれました😊
「公務員」という言葉の裏に、たくさんの“人とまちへの愛”や“現場主義”、そして“対話重視の姿勢”があるということです。
トラクターを運転したジャージ時代から、震災を経験した仲間や市民との結びつき、今も毎朝の見守りを続ける副市長の生活——。
そこには、数字や制度では測れない“大田原市の温かさ”と、これからも育んでいきたい“つながり”がありました。
📺 インタビューはYouTubeアーカイブでご覧いただけます。
補足映像や表情、話し方のニュアンスなど、ぜひチェックしてみてください👇
👉 とちぎフレッシュLIVE|斎藤副市長インタビュー
この記事を書きながら思ったのは、公務員という言葉の奥にある“人”の姿です。
大田原市で生まれ育った人から、ジャージで芝を刈る職員、震災を経て庁舎で共に語り合った仲間、そして地域のみなさん—。
その全てが交差する場に“市役所”があるのだと思います。
「これからも市と市民が一緒にこのまちを育んでいけたら」—そう心から思えるひとときでした。皆さん大田原市の家計簿をチェックしましょう!
https://www.city.ohtawara.tochigi.jp/docs/2023051700017/file_contents/kakeibo_R7.pdf
斎藤副市長、ありがとうございました😊(ボランティアのしょうちゃん)