10月14日のみんな崖っぷちラジオでは、原爆被爆者の小松宏生(こまつひろみ)さん(94)をゲストに迎えた。小松さんは自分の体験を一人でも多くの人に伝えるために講演活動を続けている。被爆した当時の状況や、経験をどう伝えていくかについて話を聞いた。
「太陽とぶつかった!」8月6日、疎開先で見た「ピカドン」
小松さんは11歳(小6)の時に爆心地から20km離れた学童疎開先のお寺で8月6日を迎えた。朝、みんなと庭でラジオ体操中に突然、「ピカ!」と、ものすごい光と、少し遅れて大きな地響きが起こった。キノコ雲のてっぺんだけが見えたという。何が起きたのか分からず、周囲にいた男の子は「太陽とぶつかった!」と叫んでいた。先生が広島市内に電話するが全くつながらない。1週間後、着の身着のままのぼろぼろの格好で母親が疎開先に迎えに来た。
自宅にいた母は爆風で倒れた建物の隙間にうまくはまり込みしばらく気絶していた。気がついたら瓦礫の中に埋まっていて、近所の叔父・叔母も即死。一人で荼毘(火葬)に付したあと、父(夫)を毎日探していたという。「私は地獄を見た」と後年まで言っていた。
バラックの避難所には、全身火傷の瀕死の人とうめき声
母と一緒に、行方不明の父親を探すために広島市内に入った。市内の建物は全て倒壊、応急に作られたバラックの避難所を探しても父親は見つからず、しばらくは親戚の家の宮島に住み、市内に行って父親を探していた。しかし、避難小屋に寝かせられている全身火傷の瀕死の人やその呻き声、がれきの中に転がる遺体を目にしながら探し歩くことが辛くて、母親に「もういやだ」と泣きついて一週間で探すことをやめたという。1か月間宮島にいたが、新学期の9月に実家である宇都宮に移り住んだ。だが、高熱、血尿など母親ともども謎の症状(原爆症)に苦しめられ、厳しい生活が続いた。
小松さんは、直接被爆者ではなく原爆が投下されて一週間以内に市内に入ったため、「入市者」としての被爆者となった。(このほかに胎児被爆者などがある)
「戦後50年」やっと当事者として話した
差別を恐れてか、母親から被爆した経験ことを話さないように言われ、小松さんは自分の子どもにも長い間一切経験を口にしなかった。しかし今から30年前、「戦後50年文集」の公募があり61歳になったとき、に母親に作文「もう、私たちの体験を書いてもいいんじゃないか」と勧められ、初めて自分の戦争の経験を文章に著した。それが新聞社や栃木県の担当者の目に止まり、それから30年間、自分の体験を話す活動が始まったという。
そして、今年8月6日には広島平和祈念式典に招待された。実は、8月6日当日、父親が勤務していた会社跡地に石碑が建てられた聞き、その場に行って来たという。「やっと、80年ぶりに父に会えた」と感じたという。
「戦争はいけないんだね」と参列のひ孫
現在、小松さんは栃木県内の学校など様々な場所で被爆体験を語っている。戦後80年が経過し、被爆者自身が直に伝えることが難しくなっている。それでも戦争の経験を語ることで、「戦争はしてはいけないことを、下の世代に分からせないといけない」という思いや使命感がある。今年の平和祈念式典には小松さんのひ孫も参列しており、式典後に「戦争っていけないんだね」と話していたという。また、自身の経験を伝えた世代の人が、「自分たちが伝えていかないと」という意識をもって語り継ぐ役目を担っていってほしいと語っていた。
私は被爆者から一対一で話を聞くことが初めてだった。戦争を知らない世代である私たちは、戦争経験者の話を理解することにとどまらず、「伝えていく」という活動をしていかなければならないと感じた。(ラジオ学生 井本涼菜)
