4月29日(火)の原発避難16年目ラジオには、福島県双葉町から埼玉県加須市へ避難している鵜沼久江(うぬまひさえ)さん(72)をお呼びした。震災当時、旦那さんとともに双葉町で牛と米を育てていた。地元では有数の50頭もの牛を抱える農家だったそうだ。地震発生時には屋外におり、あまりの揺れの強さに立っていられず四つん這いになっていたら、足と足の間を大きな地割れが広がっていき恐怖に襲われた。その後避難を繰り返し、2011年4月に加須市へ避難。現在も加須市に暮らす。 半年戻れず、50頭の牛を死なせた後悔の念が消えない。 最初に避難を開始したのは地震発生後すぐだった。しかし、牛も大きな余震に驚いて脱走する危険性があったため、11日はトラックの中で寝たという。翌日、近隣の住民がより遠くへと避難を開始した。家に残っていてはみんなが心配すると思い鵜沼さんも避難したが、避難所から定期的に牛を世話しに家へ戻ろうと考えていた。そのため脱走しないように牛をしっかりとつなぎ、戻ってくるまでの水と餌を用意して避難していた。しかし、避難をしてみればそのまま避難指示は10km、20km、30kmとどんどん広がり、結局2011年8月26日まで鵜沼さんが家に帰ることはできなかった。自宅は原子力発電所からわずか2.5kmの場所にあり、家を見ることができたのは避難者の中でも最後だった。365日手塩にかけて育てた牛は、自分の子ども同然である。もちろん半年近く水も餌も無かったら、つながれた牛がどうなっているのか見なくても分かっていた。「避難警告が出たときに、もし半年も帰ってこられないとわかっていたら、牛を放して生かせたのに」と今でも後悔の念は消えない。 「汚い、放射線を持ってくるな、近づくな」 4月に加須に避難してからも、鵜沼さんの頭は牛でいっぱいだった。すぐに戻って牛の世話をしなくちゃならない。そのために落ち込んで体力を無くしてばかりじゃいけない。避難してすぐにハローワークに登録し、やったこともない野菜作りの手伝いを懸命にした。しかし、避難所にとどまることなく行動する鵜沼さんへの世間の風当たりは強かった。 「汚い、放射線を持ってくるな、近づくな」 鵜沼さんが自分の畑を持とうとしても、避難者に貸してくれる人は誰もいなかった。 避難先では「できるだけ静かに、波風を立てない、避難者だとばれない」が暗黙の了解。 避難から16年経つ今でもなお、当時の様子や原発避難の苦しさを話し続けている。つたない取材にも関わらず、「少しでもわからないことがあればなんでも聞いてちょうだい」という姿勢は、我々にとっても本当にありがたい存在である。 しかし、同じ避難者に「そんなにたくさん取材を受けて、どれだけお金をもらっているんだい」と言われたこともある。 「お金なんかいくらでももらえるから、お前もやれるもんならやってみろ」と答えたんだと笑う。 避難先ではできるだけ静かにすること、波風を立てないこと、避難者だとばれないこと、が暗黙の了解のようになっていた。そのような中で現状を伝え続けることは簡単なことではない。 しかし、鵜沼さんは「16年経っても苦しんでいる人がこんなにたくさんいる。原子力が悪いとか、電気を使った人が悪いとか、悪者探しをしたいんじゃない。原子力発電がもしも爆発したら、こんなにつらい思いをしなくちゃならない。そしてその可能性が日本中にあるということに気付いてほしい。そのために何を言われても、私は話し続けます」と語る。 編集後記 さすが取材慣れしている鵜沼さん。ラジオ放送中も話が上手で、福島弁も耳に気持ちがいい。初めて放送中にメッセージが二件も来た。人数の大小にかかわらず、誰かの心の支えになったり励みになったりしていたらうれしい。やはりラジオ学生はいいな。(吉田美音)