次世代に伝える。

原発避難12年目ラジオ


東日本大震災による、福島第一原発事故。

それにより、多くの問題が生まれました。

 

避難先での不安定な生活、故郷に戻れない虚しさ、当時のことを口に出せないもどかしさ、賠償金が原因で受ける誹謗中傷…。

 

未だにそのような問題は消えていません。

そして、これから先も同じような事故・問題が起こりうるのです。

 

残された原発避難の問題に着目し、それを解決する社会づくりをしていきたい――――。

そんな思いで、この番組を放送しています。

 

担当パーソナリティは現役大学生の櫻井脩弥(さくらいしゅうや)。

 

"知っているようで知らなかった"、原発避難の問題について皆さんと一緒に考えていきたいです!!

 

 

 

『次世代に伝える。原発避難12年目ラジオ』

毎月第4火曜、19~20時にミヤラジにて放送中!

 

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役場職員には家族を亡くした方も… それでも仕事した公務員の超超激務! 「宙ぶらりんな避難」と法律の未整備

・10日後に戻ると、避難できない高齢者が家の中で亡くなっていた…

 当時双葉町の役場職員だった今泉さん。公務員は災害時でも町民の安全を守る仕事がある。非難の声かけや情報の提供、食事の提供を行ったという。また、1000人もの町民の安否確認を一人一人行った。さらに、「避難所の移動」に伴う避難計画、輸送計画、部屋割りなど決めることがたくさんあり、ゆっくり寝られる日はほとんどなかった。

 避難して10日後に、仕事で双葉町に戻った。少ない情報をもとに、残された高齢者を避難させる。しかし、冬だったこともあり、「家で亡くなっている人もいた」という。

 やはり「避難に援助を必要とする人」を救うには日ごろから地域のつながりを強めて、逃げ遅れている人に声をかけ、協力し合う「コミュニティ力」が大切だろう。原発避難はそういうことすらできなかった。

 今泉さんの知り合いは、「10日間雑草を食べて何とか生き延びた」という。

 

・地震、津波、原発。「3つの避難」の対応という公務=激務

 双葉町は最初に地震による建物の崩壊から逃げ、さらに津波から逃げ、それから原発事故による放射線から逃げと3つの避難が同時に押し寄せた。当時は相当大変な状況であったことが目に見えてわかる。

 そんな中でも公務員は町民を守るという使命から仕事をしなくてはならず、職員の中には家族を亡くし、つらい思いで仕事をしていた人もいたという。今泉さんも1か月間家族と会えず、連絡も取れず、安否のわからない状況で仕事をしていた。情報が入らないなか、町民からは判断を迫られ、夜まで寝られない状況が続いた。「判断する立場の人は、重い責任がのしかかるから相当大変だっただろう」と今泉さんは語った。

 

・12年経った今も避難状態。「宙ぶらりん」な政治参加・社会参加

 今泉さんは今埼玉県上尾市に住んでいるが、住民票は双葉町のまま12年が経とうとしている。「(町の)情報が入ってこないのが一番不安だ」と今泉さん。

 また、住民票の問題で「政治参加・社会参加については宙ぶらりんな状況」にある。住んでない町の選挙は少ない情報で候補者に投票し、今住んでいる町の選挙はもちろん、決め事にも参加できないのである。本来平等にあるべき参政権。この状況は平等と言えるのだろうか。

 「同じように原発事故があったチェルノブイリでは明確に、逃げる権利があるとし、逃げた人全員に補償をしている。逃げない権利も認めている。しかし、日本はそこをあいまいにしている」と海外と日本の対応の違いを語る矢野さん。

 今泉さんも「日本は自治会を抱えているため、広範囲の避難はパニックを起こす。自治会が大きな動きをできなくさせているのではないか」と自治会制度の問題点を語った。もちろん海外と日本では制度が違うこともあり、難しいこともあるかもしれないが、チェルノブイリのような対応は積極的に取り入れていくべきだと思う。

(加藤)

不安な時のボランティア、役に立つボランティア、すれ違いボランティア。でも、「ボランティアで助かった」

・避難所の夜に民謡大会 「笑い声。みんなの顔つきが全然違った」

 地震が起きたとき帰れず、働いていたデイサービスセンターに泊まった。それからは利用者や職員と一緒に避難所を転々としていた北村さん。社会福祉協議会の職員だった。

 当日は、何が起こっているのかわからなかった。でもそんな「説明できないこと」について話していても仕方ないし、「夜には寂しくなるだろう」からと、震災の日、泊まるデイサービスセンターで「民謡大会」を行ったという。

 やはり初めての避難場所での泊まりは落ち着くことができず、眠れない人も多かった。民謡大会は楽しく開催でき、時々笑い声も聞こえ、みんなの顔つきが全然違った。「このような非常事態にそういうことをしてよいのか不安もあったが、自分も落ち着くことができた」という。

 北村さんは「今の状況を説明できず、何をしたら落ち着くことができるのかと考えた時に目線を下げて寄り添うのが大事だ」と語った。

 避難所の「さいたまアリーナ」ではボランティアや専門の人が避難者の倍くらい来てくれたから任せて、「自分たちは自分たちにできることをした」という。一人一人平等に話を聞くようにし、食事や排泄の介助を行った。

 アリーナでの夜は、小さい子供がいる職員は家族優先で帰宅する。だから10人の介護士で50人以上もの高齢者の介護を行ったという。避難所には要介護の人も一緒なため24時間付きっきりで1か月間そのような生活をすることになる。想像するだけでも大変な生活だっただろう。加えて一人一人に話を聞く。このような北村さんたちの働きが避難者を少しでも安心させたのではないかと思う。

 

・「避難者は日常を求めている」

 避難所には「避難者よりも多くのボランティアが来てありがたかった」と感謝する北村さん。「ボランティアには避難の状況を知ってほしい、見てくれるだけでよい。それだけでも意味があるのではないか」と語った。一番多かったのは「歌を歌いに来るボランティア」だった。しかし、中には要望していない歌もあった。それが「ふるさと」だ。そこには家族を亡くした人や家が流されてしまった人もいて、その歌を歌われたのは相当つらかったという。嫌がっている人もいた。

 このように、良かれと思ってボランティアしに行ったのが、逆に傷つけてしまうこともある。また炊き出しでも、カレーや焼きそばばかりで毎日食べるわけにはいかない。だから団体が集まって話し合い、毎日違うものが食べられるように調整したところもあったそうだ。矢野さんは「最初に行くボランティアと、1か月後2か月後に行くボランティアは全く内容が異なるし、支援者がいる避難所と、いない避難所でもボランティアの在り方は違ってくる。また昼行くのと夜行くのでも全く異なる」と。ボランティアと一言でいっても、内容やありかたは広範囲に多岐にわたっている。

 また「避難者は日常を求めている」と語る北村さん。特別なことではなく、折り紙や読書、洗濯、化粧など日常に戻れる一コマを感じさせるものもよいのではないかと思った。

(加藤)

 

10/24 避難は弱者が一番困る ゲスト:三浦秀一さん

今日は次世代に伝える。原発避難12年目ラジオです。ゲストは三浦秀一さんです。福島県南相馬市から栃木県に避難してきました。

 

原子力発電所がまさか爆発するなんて思ってもいなかった三浦さん。爆発したときはとても驚いたという。「原子力は麻薬」という言葉があるらしい。原発の維持費はものすごくかかるのに国からお金がもらえて町が潤っていくため、原子力から離れようにも離れられないのだという。また、原子力発電所は簡単に壊すことができないのだ。中に入っている放射能をそのままにしておくわけにはいかないからだ。使わなくなって、お金を生み出さなくなった発電所でも管理するためお金と人が必要なのである。

視覚障害者の母と暮らしていた三浦さん。目が見えずトイレの場所がわからず、とても大変だったそうだ。避難所は健常者が来ることしか想定されていないため、障害を持つ方が置いてかれてしまうのだ。避難所では寝たきりの人ばかりの部屋があり、世話する人がいないため、においがしてきてとても環境が悪かったという。避難所で障害を持つ人が過ごすのは困難だと判断した三浦さんは避難所からすぐ出たという。

 

今回は原発事故前と事故後の原発に対する考え方の変化や弱者のための避難について話していきたいと思います。

 

ぜひお聞きください!!

 

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(加藤

避難中に死ぬ3736人。うち2335人が福島県!

浪江と宇都宮の2地域居住。「人が戻らない」

530日の「次世代に伝える。原発避難12年目ラジオ」では、福島県浪江町から避難し現在宇都宮市在住の佐々木茂夫さんにお話を聞いた。佐々木さんは原発事故後、横浜の姉のもとへ避難した。その後宇都宮市に避難するも、同時に実家のある浪江町に足を運ぶ、2地域居住をしている。福島では双葉町にある東日本大震災・原子力災害伝承館の「語り部ボランティア」もしている。浪江町藤橋地区は6年前の2017311日に警戒区域解除をうけたが、避難先での生活に慣れた多くの人は地元に戻らず、新天地での安定した生活を求める。だから佐々木さんの知り合いも栃木に多く避難しており、宇都宮に家を建てた。佐々木さんは今回、自身の避難の体験を通して、災害関連死の深刻さと日本の避難場所のあり方について話してくださった。

 

l  浪江だけで、災害関連死442人! 津波死の2.5倍‼

 災害関連死とは、災害による直接的な事故死ではなく、災害による負傷や避難行動、避難生活による疾病悪化が原因で死亡することである。佐々木さんの地元である浪江町は東日本大震災による直接死(津波)が182人であるのに対し、東日本大震災(地震・津波)及び原発事故災害による災害関連死は442人であった。直接死より災害関連死のほうが多い。また、福島県の災害関連死は2335人。同様に津波の被害があった宮城県(931人)や岩手県(470人)よりもはるかに多かった。福島県と宮城県・岩手県の違いは原発事故である。つまり原発事故による災害関連死は深刻なものであるとわかる。

 これが現状なのだが、多くの人は直接死のほうが多いと思っているだろう。なぜならメディアは避難所の実態は報道せず、視覚的に衝撃を与える津波の映像ばかりを取り上げるからである。佐々木さんは自分自身が避難者として避難所生活を強いられ、避難所の現実を見て何とかしなければならないと感じた。

 

TKB48」が避難場所には必須!

 佐々木さんが見た避難所生活は悲惨だった。3月上旬、冷たい床に段ボールや新聞を引き、夜を過ごした。老若男女だけでなく病気の人、慢性疾患、自宅で寝たきりだった人、妊婦、障害者、乳児…もいる。食事はおにぎりやパンなどの簡単なもの、冷たい、出来合いのもの。自分の薬もない。プライベートな空間などは全くなく、体力的にも精神的にもストレスフルな環境であった。

災害関連死は2011年の東日本大震災及び原発事故に限って起こるものではない。避難中の死なので日本全国で起こりえるのである。しかし一方で、日本人は本当に災害に備えられているのだろうか? 指定避難所は本当に避難する場所にふさわしいのだろうか? トイレは整っているのだろうか?更衣室はあるのだろうか?授乳室はあるのだろうか。

 

 佐々木さんは「48時間以内に、清潔で安全なトイレ(T)、温かい食事を提供する台所(K)、雑魚寝を防ぐベッド(B)、つまりTKB48が避難場所には必要である」という。現実にこれを実現できる避難場所が全国にいくつあるのだろうか。災害大国日本に住む私たちにとってこの考え方は重要だと思った。

目に見えない放射線から逃げるやるせなさ 社会問題としてとらえる原発事故

今回は、福島県田村市から栃木県に避難された、内田啓子さんに話を聞いた。田村市は福島県の中央にある郡山市と原発の真ん中ぐらいにあり、避難指示が出された原発30キロ圏内の境目でもある。避難するかどうか、個々の判断にゆだねられた人が多かったことだろう。

  • 待ち望んでいた生活が始まろうとした矢先の原発事故

 内田さんは、子供3人と夫の5人家族で、当時まだ子供も小さく自然豊かな環境でのんびり暮らしたいと田村市に移住してきた。原発事故の5ヶ月前だった。子供は4月から地元の幼稚園に通うことが決まっていた。過疎地域だったので地元の人にとても歓迎されていて、幼稚園に必要な道具を譲り受けることもあった。そんな矢先に起きた原発事故。内田さんは避難指示が出る前の翌日には避難をしていた。しかし、地域の人に恩返しができない苦しさや、たまに田村市に帰って、どこも壊れていない家を見て、「夢をもって移住したのに何でこんなことになってしまったのだ」という悔しさを感じるという。(内田さんの地域は地震による被害がほぼなかった)

  • 「避難は、ただの引っ越しではない」

 「避難というのは『今すぐ逃げなさい』と言われ、そして二度と家に帰れないという状況を強いられること。家の大事なものや友達、人間関係が失われる。仮設住宅ができてよかったねで終わることはない」と語る内田さん。家族で話し合い、栃木で生活することを決めた内田さん。だが、その決断に至るまで3か月悩んだという。「田村市にいた期間が半年という短い期間だったから決断できたものの、ずっと住んでいた人にとっては、とても難しい決断だったのではないか」という。また、「そのような難しい選択を迫られた人に対して、『お金のために避難を続けているのでしょう?』と言うべきではない」と。

 原発避難によるいじめや賠償金をもらった人に対する暴言は大切な故郷や友達、人間関係を失ってしまった人に対する言動ではないと思う。「避難」を軽く捉えすぎているのではないだろうか。実際に体験しないとわからない辛さや過酷さはもちろんあると思うが、「自分の大切なものを失う避難」の辛さは容易に想像できるだろう。また、そのことについて、親が子に伝えることも重要だ。きちんと伝えれば原発避難によるいじめが起こるはずがない。「放射線がうつる」といった根拠のない噂を伝えるのも間違っていると思う。

  • 「普通すぎる栃木」に違和感

 

 大変な思いで避難してきてほっとしたのもつかの間、普通過ぎる栃木にショックを受けた。まるで、パラレルワールドに来たような孤独感を感じたという。また、東京に行けば、普通に電気を使っている様子にとても驚いたという。確かに、計画停電などはあったが、一時的なもので、すぐなくなってしまった。事故後何も変わっていないことに怒りを感じたという。

  • 納得できず学問しだした。「政治と生活は密接している」と分かった

 自分を落ち着かせるため、納得のいく答えを見つけるため本を読みだした。そうしていくうちに、同じような疑問を持つ人に出会い、宇大の先生にまで交流が広がり「社会問題としての原発事故」について知識が付き、その交流が心の支えにもなっているという。「政治と生活はすごい密接していて、身の回りのことは政治的なことが多い。そのためおかしいと思ったことに対して声を上げることが大事」と語った。

(加藤)

6/27原発避難という苦い経験をせめて活かしてほしい、誰かの役に立てたい ゲスト:内田啓子さん

今日は次世代に伝える。原発避難12年目ラジオです。ゲストは内田啓子さんです。内田さんは栃木県出身だが、田舎暮らしをするために、家族で2010年に福島県田村市に引っ越しされ、原発避難に遭遇。震災で栃木に避難してきました。

 

 子供たちに、自然豊かなところで育ってほしい。そんな思いから福島にきて、春から新しい生活が始まるという矢先に起きた、原発事故。移住した当初は、過疎地域であったがために、とても喜んでもらい、地域の人から優しくしてもらえたという。毎日が新しいことだらけで、短期留学のような暮らしだった。その一方で、あんなに地域の人にやさしくしてもらえたのに、自分たちは避難をして、とても罪悪感があったという。地域の人に恩返しができない苦しさもあった。

 

 内田さんが住んでいた田村市というのは、避難指示や屋内退避の指示が出る30キロ圏内のちょうど境目の地域で、そこに住んでいた人たちは難しい判断を強いられたことだろう。判断により、元の土地、暮らしを失った人々はたくさんいる。それを解決してくれるのはお金だけなのだろうか。被害の立証をするためには、つらい過去に向き合わなければならない。このつらい過去、苦い経験を少しでも後世に活かす、誰かの役に立てる。これが、原発事故から12年経った今、やるべきことなのではないだろうか。

 原発事故を通して、社会の何が変わったのか。そして、今やるべきことは何なのかについて話し合います。

 

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(加藤)

5月30日 原発避難12年目ラジオ ゲスト:佐々木茂夫(ささきしげお)さん

 5月30日の次世代に伝える。原発避難12年目ラジオのゲストは佐々木茂夫さんです。

 

 佐々木さんは東日本大震災当時福島県の浪江町にお住まいでした。数々の避難生活を終え、現在は双葉町にある東日本大震災・原子力災害伝承館で語り部をなさっています。

 

今回のラジオでは「震災関連死」について掘り下げていきます。みなさんは震災関連死をご存じでしょうか。震災関連死とは、震災の直接的な被害で亡くなるのではなく、避難先での医療の質の低下、ストレスなどで震災後に間接的に被害を受けて亡くなることです。東日本大震災の被災者は津波や地震だけだと思い込んでいませんか。

 

東日本大震災が発生してから12年がたった今だからこそ言葉にできることがあります。自分が思っているより、あの悲惨な東日本大震災を忘れているし、理解できていません。ラジオを聞いて当時のリアルを届け、我々は何をするべきなのか考えていきましょう。

 

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(吉田)

自主避難をするもしないも大きな決断。自主避難をして得た新たな価値観

l   l   原発事故後の同調圧力に嫌悪感。空気を読んでいては身を守れない

 425日の「次世代に伝える。原発避難12年目ラジオ」では福島市から宇都宮市へ自主避難した大山香(おおやまかおり)さんをゲストにお迎えした。大山さんは原発事故当時福島市にいた。福島市は強制避難範囲外ではあったものの、放射線量値は高く家のベランダは当時5µSv/(マイクロシーベルト/)※①だったという。しかし、テレビでは避難範囲外であれば避難しなくて大丈夫だ、とまるでなにも危険ではないかのように放送されていた。大山さんは日本人の「空気を読む性格」や「暗黙の了解」、「同調圧力」を強く感じたという。地元である福島にでさえ「嫌悪感」を抱いた。このままでは子供が危険におかされるだけ、将来子供がどのような目に合うかわからない、そんな不安から築7年のマイホームを福島に残して自主避難を決意した。

l   自主避難先の宇都宮、市民権を得られない

 自主避難先の宇都宮では、自分のアイデンティティについて悩んだという。自分は「福島県民なのか」「避難民を名乗ってよいのか」という罪悪感にかられたという。自主避難を決断することは福島県を裏切ることと全く同じではない。しかし当時は「福島県を裏切った感覚」があったという。かといって宇都宮市民でもない。自分の中での市民権が得られなかったという。

 宇都宮では「みなし仮設住宅」に住んだ。これは原発事故で避難をする人々に対し、政府が民間の賃貸住宅を「仮設住宅とみなして」、支援金を給付する仕組みである。しかし借りられる期間は決まっており(通常2年)期間が過ぎた後の不安などは多かった。みなし仮設住宅に過ぎないから、福島のマイホームに比べると小さくて窮屈だった。自主避難の決断は良かったのか、苦悩の日々だったという。

l   人には一人一人「誇り」と「アイデンティティ」がある

 原発事故後、自主避難者にもみなし仮設住宅が認められ、住宅に関しては国からも給付金が出ていた。これだけ耳にすると「国は強制避難者だけでなく、自主避難者にまで給付金を認めていてすばらしい」ように見える。しかし、避難先の宇都宮で平穏に生活できることが、事故前の福島での生活と同じ価値には絶対にならない。我々の「本当に何気ない日常生活」はプライベートな空間であり、一人一人が誇りを持っている。この何気ない日常は理屈さえ通っていればよいわけではなく、お金で解決できるものではない。しかし、「お金で解決する」政府の政策はそのような避難者の一部ともいえるような価値あるものを破壊しているのだ。

 大山さんは自主避難後「人間とはなにか」について何度も考えさせられたという。「人は見た目に振り回されるけれど、見えないものこそが本当に大切」だと語る。我々は「世間体」を気にして社会ではなく世間に合わせて生きている。世間に合わせると「自分」はなくなる。「自主避難」という選択をしたことで、初めて人間として生きた心地がしたという。これからの未来を担う若者たちには「良い意味で空気を読まずにいろいろなことに挑戦してほしい」と語った。

※注①:µSv/h(マイクロ・シーベルト/時)は1時間当たりの放射線量で、5×24時間×365日=43,800µSv43.8mSv/年(43.8ミリシーベルト/年)となる。年間1ミリシーベルト(mSv)が成人の放射線許容量なので、許容量の43倍であった。

4/25 原発避難12年目ラジオ 大山香さん

 本日4月25日は「次世代に伝える。原発避難12年目ラジオ」です。今回のゲストは福島市から自主避難をし、現在宇都宮に在住の大山香さんです。

 今までは原発事故で避難を強制される「強制避難」の方にお話を聞く機会が多かったですが、今回は自身で避難を決意する自主避難について掘り下げていきます。取材前は自主避難だからこその不安や悩みについて知らない人に知ってほしいと考えていましたが、取材をしてみると大山さんがこの12年を通して得た新たな価値観や考え方がみえました。自主避難をすることは良いことなの?どんなふうに大変なの?福島から栃木に避難をしている人はおよそ3000人と言われています。自主避難をした人たちの「地元」ってどこなのでしょうか。今回のラジオは「アイデンティティ」がキーワードです。多くの人に聞いてほしいラジオです。ぜひお聴きください!

 

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(吉田)

 

3/28 双葉だからできる暮らしがある ゲスト:山根辰洋さん

明日の次世代に伝える。原発避難 12年目ラジオ、ゲストは東京出身なのに福島のためにと、双葉にきて議員になった山根辰洋さんです。住民の代表として原発やエネルギー問題に対する考えを国に伝えたり、失われてしまった町民とのつながり取り戻すために、観光業に力を入れています。

 

 もともとは東京で復興支援をしていいた山根さん。そこから仕事を受けて、縁もゆかりもない双葉町に行くことに。そこでは役場の支援員の手伝いをしたり、町民の話を聞いたりと双葉に住む人たちと関わってきた。支援はまだまだ続ける必要があると感じ、双葉町に住むことを決めた。働かないと生活することができないので自分の仕事として観光事業を作った。観光を通して復興を支援したり、地元の人と意見交換をして、双葉が町として残れるように活動をしている。

 

 しかし現実問題、山根さんには家族もいて、小学校や生活に必要な施設があまりない町で生活できるのか、議員としての悩み、原発に対する山根さん自身の考え、そして双葉町の「ここが良い!」というところについて聞いていこうと思います!

ぜひお聞きください!!

 

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(加藤)

「次世代に伝える。原発避難を語る会」宇大生が開催

 若者が3.11の原発避難のことを知るオンラインイベントを開催しました!

 

 3月10日(金)「次世代に伝える。原発避難を語る会」をZoomで行いました。企画者は、福島県三春町出身・宇大4年の櫻井脩弥。「次世代に伝える。原発避難10(11)年目ラジオ」のパーソナリティを務めていました。今まで約15人の避難者の話を聞いてきて思ったのは「原発避難のことを次世代に伝え、同じ問題が二度と起こらないようにしたい」ということ。そんな思いを込めて、本イベントを企画しました。

 前半はゲストスピーチ。主催の櫻井と、福島県双葉町から小山市に避難した北村雅さんの2人が、それぞれスピーチをしました。「10年経ったから、3月だから、ではなく、常に原発避難のことを知ってもらいたい」という北村さんの話に胸を打たれた櫻井。未だに解決されていない避難の問題はたくさんあります。毎年3月11日が近づくと災害関連の報道が増えますが、タイミング関係なく常に考えていかなければならないテーマだと思いました。参加者からは「当時の状況や想いをいただけてとてもうれしかった」「単なる情報としてではなく、実体験に基づいた重みのあるお話を聞き多くの学びがあった」といった感想を頂きました。

 後半は、原発避難のことについて話し合うワークショップ。「故郷を失ったつらさ」「賠償金による誹謗中傷」「自主避難者と強制避難者の差」「震災関連死」という4つのテーマをもとに、4人グループに分かれて率直な意見を話し合いました。参加者からは「当事者のお話を短い時間の中聞けたことは、貴重なことであったと思う」「もっと当時の状況について知り、そして、これから何をしていなければいけないのかということを考えたいと思った」といった感想を頂きました。

 他には、「若い学生さんたちがより深く知りたいと思っておられることに希望を感じた」「原発避難を風化させない取り組みが心強い」「まずは声を上げ、行動を起こすことが大切だと強く思った」といった感想もありました。このイベントを通して、原発避難のことを少しでも知れた方がいれば、嬉しいです。今回のイベントは初の試み。改善点も多々ありますが、それらを生かして今後もこのようなイベントを開催していきたいです。(櫻井)

2/28 「念のための避難が、まさか故郷を追われることになるなんて」

•「火事か」と思うくらいの土煙

 今回は福島県大熊町から鹿沼市に避難した、武内都(たけうち・みやこ)さんに話を伺った。

 震災が起きた日、武内さんは中学校の卒業式で子供たちを見送り、ほっこりした気分で帰っていた。その帰りに地震は起きた。数日前から地震はちょくちょく起きていたが、それとは比にならないくらいの大きさだった。庭に出ると屋根瓦やアンテナが倒れてきたり、遠くを見て見ると、火事かと思うぐらいの土煙が上がっていたという。おそらく、多くの家の屋根瓦が落ち、倒壊した家のものだろうという。孫を迎えに行こうとしたが、水道管が破裂し、道路が浸水して、迎えに行けなかった。幸い近所の人が遠回りをして送ってきてくれて孫と出会えた。卒業式のほっこり気分から一変。まさかこの先、慣れ親しんだ日常が失われてしまうとは夢にも思わなかった。また3月11日は卒業や進級、受験シーズン。やりきれない思いをした人がたくさんいたと思うと、本当に胸が苦しくなる。

 

•家族と散り散りの避難。コンクリート打ちっぱなしの床で寝た…。

 その日は車の中で一晩を過ごし、朝になると落ちた瓦の片づけを始めていた。その時、町の防災無線で「集会場に集まれ」との連絡が入った。行ってみると、突然「避難しろ」とだけ言われ、原発については、「大丈夫だから」としか言われず、細かい情報を教えてくれなかった。また、住民自身も「原発が爆発するなんてありえない」と思っていたという。

 私たちラジオ学生で、双葉町の「東日本大震災・原子力災害伝承館」に行ったことがあるが、そこには小学生のポスターで「原子力発電所は環境にやさしい」と書かれたものが掲示されていた。そのようなものを見ると、当時、原子力発電所は環境負荷を与えず、「とても良いもの」として考えられていたのだなと思う。そんな原子力発電所がまさか爆発するなんて幼い子供はもちろん住民でさえも考えつかなったのだろう。

 集会場で避難のバスが来るのを待った。原発に近い集会からバスが来るため、空きは4,5人と少なかった。子供やお年寄りの人を先に乗せて行かせた。しかし、後からバスで向かったら着いたところが先行バスと異なり、家族がバラバラになってしまった。武内さんも両親を介護タクシーにお願いして先に避難所に行かせたが、バスがなくなってしまったので、後から自衛隊のトラックに乗って避難した。しかし、避難場所が違い離れ離れになってしまった。移動で、山に着いた時には、もう夕方ごろになり、とても寒かったそうだ。ところが、避難所の空きがなかったのかどんどん西のほうへ連れて行かれた。やっと郡山の西、磐梯熱海温泉のホテルの避難所について安心したのもつかの間、「放射線を測らないと中には入れられない」と言われたそうだ。そして郡山に戻り、またホテルに帰ったのは夜…。

 このように、連携も連絡も統制も取れていないのが避難の実態だったようだ。簡単に避難所に入ることはできず、また、居られる期間にも限りがあるため、さらに県内を移動を重ね、時には、コンクリート打ちっぱなしの冷たい床にブルーシート一枚しいて、寝たこともあったそうだ。

 

•「気持ちは生まれ故郷。心と体が半分になった気分」

 その後、武内さんはご両親とも無事合流することができ、普通車に5人と布団を積んで宇都宮に移動した。娘のいる宇都宮に着き、お風呂に入ったときはほっとし、涙がぽろぽろ落ちてきたという。当時は「これからどうしよう」という不安もあったが、今日のラジオでは「鹿沼はとっても良いところです!」と満面の笑みで答えていた。

 しかし、「地震だけだったら(故郷を)追われることがなかった。大事な故郷を追われるような悲しい思いを他の人にしてほしくない。」と語っていた。

 「避難での新しい出会いもうれしいが、気持ちは生まれ故郷にあり、心と体が半分になった気分だ」と言う。

 

(加藤)

2/28 まさか原発が爆発するなんて ゲスト:武内都さん

 明日の次世代に伝える。原発避難11年目ラジオ、ゲストは福島県大熊町から鹿沼市に避難した、武内都さんです。

 

 原発事故が起きた日の翌朝、公民館に集められ、何の用意もなく「避難しろ」とだけ言われ、困惑。「原発は大丈夫だ」としか言われず、細かい情報はなし。避難してからは、コンクリート打ちっぱなしの冷たい床の上で過ごすこともあった。栃木に移動してからも、住民票の問題や福島に残った家はどうするのかなど問題は尽きない。

 

 原発事故当時の様子や避難までの流れ、避難生活の様子、栃木に引っ越してからの動きや問題についての話を伺います!

ぜひお聞きください!!

 

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(加藤)

 

 

 

【参加者募集】若者集合!「次世代に伝える。原発避難を語る会」

 "知っているようで知らなかった"、原発避難の問題について考えてみませんか?

 

 12年前の東日本大震災による福島第一原子力発電所の爆発事故。そこから漏れた大量の放射線により、多くの人が避難を強いられました。

 避難者は、多くの問題に直面する日々。避難先での不安定な生活、故郷に戻れない虚しさ、当時のことを口に出せないもどかしさ、東電からの賠償金が原因で受ける誹謗中傷…。

 現在、日本では原発の再稼働の動きがあります。同じような問題が二度と起こらないように、次世代の若者が原発避難のことを「知り」そして「考える」ことが求められています。

 

本イベントでは、原発避難者の生の声を聞き、そのリアルな問題を知ることができます。

ぜひ、お気軽にご参加ください!

 

◇こんな人におすすめ!

「原発避難って何?どんな問題があるの?」

「復興って進んでいるの?」

「災害の問題に取り組んでみたい!」

「隠された社会問題について知ってみたい」

 

~概要~

『次世代に伝える。原発避難を語る会』

◇と き 2023年3月10日(金)18:00~20:00

     Zoomにて(無料)

◇イベント内容

①福島県三春町出身の大学生・櫻井脩弥が原発避難に対する取り組みを語る

②福島県双葉町から避難した北村雅(きたむら・ただし)さんからのお話

③原発避難の問題解決に向けて、若者ができることを考え合うワークショップ

 

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「自分事であるはずの原発」。だけど他人事。忘れてほしい人たちがいる?

 今回は埼玉県在住のフリーライター吉田千亜さんをゲストにお迎えした。吉田さんは原発事故で避難してきた人(特に自主避難者)の声をきっかけに、「原発事故とは何だったのか」を追求している。

 

l  「危機感」と「申し訳なさ」が取材の動機

 吉田さんが取材を始めたきっかけは大きく2つだ。1つ目は「危機感」である。福島県と埼玉県では距離があるように感じるが、事故当時は「東日本は全部だめ、住めない」と言われていたという。「今は、それを忘れている」と吉田さん。私はこれを聞いて、原発事故を自分事としてとらえる姿勢が今の日本人に足りないものだと感じた。だから原発再稼働への危機感も薄いのだなと思った。

 2つ目は「申し訳なさ」である。原発事故はその時だけの問題ではなく、次世代にまで影響を及ぼすもので、50年前の「エネルギーへの欲望」が次世代に負担をかける結果を生んでしまったことへの申し訳なさを吉田さんは語っていた。

 

l  無関心が起こす「人のいない地域の復興」と国の思惑

 吉田さんの話を聞いて驚いたのは、「原発事故は単なる事故ではない」という点である。「復興」の場面でも、もっと複雑な要素が絡まりあっているという。

 福島県の太平洋沿岸は「浜通り」と呼ばれるが、浜通りでは現在「イノベーション・コースト構想」が行われている。政府の政策で、浜通りを「新たな産業基盤の構築を目指して、廃炉、ロボット、エネルギー、農林水産等の分野におけるプロジェクトの具体化を進める」場所にするという。

 そこで吉田さんは「浜通りの復興」についての関係法令、実施計画、政府答弁などの文献を全て調べた。「復興という都合の良い言葉を盾に、人がいないことを利用して政府にとって便利な土地として利用していると吉田さんは指摘する。「新型原子炉とか、ミサイルとか、ドローンとか、軍事研究をしても分からないですよね」とコメントおじさん(矢野さん)も言う。原発事故は政治も絡むような問題であったのだ。私はこの事実に驚くと同時に、その事実に気付けない現実に悔しさを覚えた。政府任せにするのではなく、意識を高く持つことが我々国民の責任なのだ。「日本の復興は、地面の復興であって、避難した人の人生の立て直しではない」という矢野さんの指摘ももっともだと思った。

 

l  「自分事として」身近な人と原発避難の話をする。

 若者に求めるものとして吉田さんは「話をすること」という。「原発事故という明らかに重い話を身近な人とする機会は少ないかもしれないが、身の回りから伝えていくことが多くの人に知ってもらうためのバトンになる」という。

 

 たしかに、「自分にも関係がある」という意識を身近な人と持つことが重要だと思った。(吉田)

1/24 原発事故の「責任」は誰のもの? ゲスト:吉田千亜さん

 皆さんこんにちは‼2023年を迎えるとともにラジオ学生がバトンタッチされました。新ラジオ学生の吉田美音です。「次世代に伝える。原発避難11年目ラジオ」はレギュラー化され、今月から毎月第三火曜日への移動となりました。

 

 さて、今月は明日1月24日放送で、ゲストは埼玉県のフリーライター、吉田千亜さんです。初見の方もいらっしゃると思いますが、私たちの番組ではいままで「原発避難民の方の声や現実を世の中の多くの人にもっと知ってもらおう」という信念のもと番組を運営してまいりました。今回は「原発避難民の方を取材されている方を取材する」という初の試みです!ということで、番組に福島県以外で震災を経験された方をお招きするのは初めてです。吉田さんはどうして原発について取材するようになったのか。人一倍原発について追及する動機はなにか。原発を追求して突き止めたものはなにか。2011年の原発事故は単なる災害ではない!実は政治とも関わっている…?フリーライターの吉田さんだからこその視点をリスナーさんの皆さんにも共有できればと思います。ぜひお聴きください!

(吉田)

 

質問してみたい方はどんどんコチラまで‼

→(773@miyaradi.com)

 

リスナーの皆さんのご意見・ご感想もお待ちしております‼

 

ミヤラジ(77.3FM)にて毎週火曜19:00-20:00オンエア!

 

「お前んち、賠償金貰っているだろ」心ない言葉や妬みを生んだ原発避難

 ○デイサービス職員。高齢者とともに避難

 7月17日の「次世代に伝える。原発避難11年目ラジオ」では、福島県双葉町出身で現在は小山市に住んでいる北村雅(きたむら・ただし)さんに話を聞いた。

 東日本大震災当時、双葉町の社会福祉協議会職員だった北村さんは、デイサービスセンターで働いていた。利用者と触れ合い充実した生活を送っていた矢先、3月11日に突然の大地震が襲いかかった。北村さんは、その時のことを振り返り「割れたガラスが突き刺さって死ぬんだと思った」という。

 何もかもが混乱した状況の最中、その日は多くの利用者や従業員が帰れなかったため、施設内で一晩を過ごした。北村さんは、利用者が不安にならないように、ニュースで見聞きした情報をむやみに伝えず、ただひたすら寄り添っていたという。北村さん自身も不安だったはずだが、他人を想って行動していたことに感動した。

 翌日12日に福島第一原発が爆発し、社協職員として高齢者連れの避難が始まる。13日から19日頃までは、双葉から60kmほど離れた川俣町の体育館に避難した。しかし、その後も安心して休むことはなく、郡山市の特別支援学校で避難者の支援をする日々。また、奥さんは別の避難所にいたため、しばらく再会することができなかったという。大切な人と突然会えなくなるのは非常に切ないだろうと思った。

 20日からは、埼玉県へ双葉町民の一斉避難が始まった。さいたまスーパーアリーナや加須市の県立騎西高校などが避難所となり、大勢の町民がそこで暮らした。その間北村さんは、小山に住んでいた息子の元に行き、4月2日に家族と再会。その後、平日は埼玉で避難者支援、週末には小山に帰り家族と過ごす生活を送った。

 

○「解決していていないことは、たくさんある。話し合いが大事」

 翌年1月には、いわき市に建設された仮設住宅で3年2ヶ月もの間、単身赴任で避難者支援の仕事をした。避難者と親しみ合い充実した生活を送っていたが、避難者間の分断が窺える場面もあったという。「仕事がある人」や「家族と住めるようになった人」、「家が残っている人」を妬む避難者もいた。それが原因で「その話題は触れないでおこう」という雰囲気が生まれ、次第に自分自身のことを話す人が少なくなっていった。

また、いわきの学校に転校してきた子どもが、他の生徒から「お前んち、賠償金貰っているだろ」と揶揄され、いじめを受けたこともあった。そんな人間同士の傷つけ合いがある現実を知り、胸が痛くなった。

 次世代に伝えたいことは何かと聞くと「同じ方向をみんなが向けたら良いなと思う。解決していないことはまだたくさんある。だから話し合っていくことが大事だ」と話した。「自分がその人の立場だったら」と想像して寄り添うことこそが本当の復興につながる第一歩なのではないか、と感じた。(櫻井)

原発避難のリアルを若者(まご)に伝える伝承イベント

〇原発避難者の生の声を聞ける絶好の機会

 東日本大震災による原発避難。あなたは、その問題の本質とは何かを考えたことはありますか。

 10月8日(土)に下野市のコミュニティセンターにて、栃木県内の原発避難者と大学生の若者が交流するイベントを開催しました。これは、原発避難の実際を次世代に伝承することをねらいとしたものです。

 企画・運営を務めた私(櫻井)は、福島県三春町出身の大学生。自身が福島出身であるにもかかわらず、今まで原発避難のことを知ろうともしませんでした。それは、知る機会がまわりになかったからだと思います。そのため、他県の若者にとっては尚更程遠いテーマだろうと思い、このイベントを企画しました。

 

 イベントは三部構成で開催しました。

 第一部はレクリエーション。「ペタンク」という体を動かすゲームを行い、参加者間の緊張がほぐれる活動となりました。意外と難しかったようですが、チーム同士で競い合う刺激的なゲームに、楽しんでいる様子でした。

 第二部では、福島県双葉町から避難してきた北村雅(きたむら・ただし)さんと私でトークショーを行いました。北村さんとは、昨年から「次世代に伝える。原発避難11年目ラジオ」という番組で共演していました。番組を通してどのようなことを感じたか、次世代に伝えるべきこととは何か、といったテーマで熱弁する北村さん。参加者はみな真剣なまなざしで聞いていました。

 第三部では、若者と避難者同士でワークショップを行いました。6グループに分かれ、それぞれのグループ内で「避難当時に欲しかった支援」「助かった支援」「次世代に伝えたいこと」の3つのテーマで話し合いました。避難を経験していない人には「もし自分が避難者だったら」と想像して考えてもらいました。避難者のなかには事故当時のことを話したくないという人も多く、難しいテーマでしたが、胸の内を打ち明けていただいたことで自身の安心感にもつながったと思いますし、若者にとっても避難のリアルを知るとても良い機会になったと感じました。

 

〇来年も再来年も開催していきたい

 アンケートへの回答をたくさんいただきました。

「生の声を聞くのは初めてだったのでとても良かった。」

「話してみるといろいろ思い出して、もっと話したくなった。」

「当時を思い出して、辛くなった。」

「避難者が不快な思いをしなかったか、少し気になった。」

「伝えることの大切さを知った。」

など、さまざまな意見がありました。

 このような、避難者の生の声を聞くことができる伝承イベントは他になかなかありません。より多くの若者に避難のリアルを知ってもらうため、今後も引き続き本イベントを開催したいと思いました。(櫻井)

原発避難者の方々と楽しくサコッシュづくり

 11年前の東日本大震災による原発避難。それにより、栃木県にも避難してきた人がたくさんいます。その数およそ二千七百人(令和4年現在)。

 そんな県内の避難者が毎月交流し合う「ふくしまあじさい会」という集まりがあります。

 

 「次世代に伝える。原発避難11年目ラジオ」(https://www.tochigivnet.com/fukushima10-radio/)の学生パーソナリティをしている私(櫻井)は、避難者ではありませんが、あじさい会の雰囲気が好きで毎月参加しています。

 9月8日(木)のあじさい会では、かごのサコッシュづくりが行われました。

 クラフトを専門で行なっている方々が、作り方を一から丁寧に教えていただいたおかげで、なんとか完成!

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「これからどうなるのだろう」原発事故小4、漠然とした不安

○「なんで自分がこんな目に…」転校先の友人に見せなかった思い

 5月15日の「次世代に伝える。原発避難11年目ラジオ」では、福島県葛尾村出身の吉田尚輝(よしだなおき)さんをゲストにお呼びして話を聞いた。吉田さんは、私(櫻井)の小中学生の頃の同級生である。小学5年生の震災当時、葛尾村から私の小学校に転校してきた。それまでに2、3回も避難先を移転していたという。

 はじめは、近所の体育館で避難生活。当時は食や風呂などの生活環境が整っておらず、精神的な負担が多かったという。「これからどうなるのだろう」という漠然とした不安があった。

その後、会津に住居を移し一時的に市内の小学校に通い始めたが、そこではいじめや嫌がらせなどがあった。「なんで自分がこんな目に遭わなきゃいけないのか」と悩むこともあったようだ。

 その後、私の地元の三春町にある仮設住宅に移り、町内の小学校に転校してきた。当時の吉田さんは、避難で大変な思いをしている様子を一切見せなかったため、同等な立場である普通の友人として学校生活を共にしていた。しかし、実際は多くの悩みを抱えていた。仮設住宅にはゴキブリが大量発生したり、防音性がなく近所の生活音にストレスを感じていたこともあったという。避難当時の話を聞いたのはこのラジオが初めて。あらためて吉田さんをゲストに呼ぶことができて良かったと思う。

 

○「福島は“復興”だけでなく、成長している」

 これからの活動について話を聞いた。

「福島=震災・原発事故が起こった場所、というイメージをなくしたい。まずは福島に訪れてみて、地域の魅力を知ってほしい」と話す。

福島県内の学生が集うコミュニティサークル、SFF(Spread From Fukushima)でも活躍する吉田さん。

「福島県は復興しているだけではなく成長している。福島県を盛り上げようと頑張る若者の活躍を多くの人に知ってもらいたい」と語った。「福島って意外と良いところだな」と思ってもらえるように、私自身もできることをしていきたいと思う。(櫻井)

「本当に良いところだった」。大好きな故郷を帰れない所にした原発事故

 6月19日の「次世代に伝える。原発避難11年目ラジオ」では、福島県浪江町出身で現在は茨城県つくば市に住んでいる木幡サチ子(こわた・さちこ)さんをゲストにお呼びし、話を聞いた。

 

○地震、津波、原発事故…。3つの危機が襲いかかったあの日

 3月11日は、娘の学校の卒業式の日だった。学校から家に帰り、着替えをしていた時に大きな揺れが襲ってきた。慌てて外に飛び出し向かったのは、周りに建物がない田んぼのなか。そこで、しばらく様子をうかがっていると、古い民家が崩壊していくのを見た。立っているのもままならない程の大きな揺れがしばらく続いた。やっと揺れが落ち着き、家に戻り片付けをしていると、当時沿岸地域に住んでいた息子から「津波で家が流された」という連絡が来た。事態の深刻さを把握し、翌日避難を開始。避難の最中に車のなかでテレビを見ていると、「福島第一原発が爆発した」というニュースを知る。その時、外に灰のようなものが飛んでいた。「もしかしたら爆発のものだったのかも」と思った――と当時を振り返る。

 

○心から愛していた故郷。もう戻れないつらさ

 避難したのはいいものの、当時受け入れてくれる避難所がどこにもなかったという。「ここは双葉の避難所だから!」などと、他地域から来る人を拒む場所ばかりだった。しかたがなく、12日の夜は川俣町のとある公園の脇に車を停め、寒い思いをしながら車中泊をした。

 翌日、妹から「筑波に来たら?」と言われ、家族12人で茨城に向かった。当時は「ちょっとしたらすぐに帰れるだろう」と思っていたが、その後故郷で再び過ごせる日は来なかった。「まさか自分の生まれた土地を離れるとは思わなかった」と話す。現在はつくば市で新しい家を建てて暮らしている木幡さん。時に周りから「今の家、立派で良いじゃないか」と言われることがあるが、それで満足できるわけではない。故郷に戻れないことによる憤りや不安は一生消えないのだ。木幡さんの実家は既に更地になっているが、時々家跡に帰ると落ち着くという。ストレスで病気になった人が故郷に帰ると治る、という避難者もいるらしい。木幡さんは「浪江町は本当に良いところだった」と話す。長年暮らしてきた愛すべき故郷を手放すつらさを想像してみてほしい。(櫻井)

「帰還町民」の暮らしの下支え、「避難町民」への寄り添い。双葉町長インタビュー

○「戻らない6割」の中で、豊かな暮らしを創る。

 昨年6月から今年の3月まで放送された「次世代に伝える。原発避難10年目ラジオ」。その続編を「11年目ラジオ」と改め放送することになった。4月17日は、福島第一原発がある双葉町町長、伊澤史朗(いざわしろう)さんに話を聞いた。

 伊澤さんは震災から2年後の2013年に双葉町長に就任した。それから現在に至るまで町の復興に尽力し、今年6月には避難指示区域の解除に努めた。しかし、昨年8月に行われた双葉町住民意向調査によると「戻りたいと考えている」が11.3%、「まだ判断がつかない」が24.8%、「戻らないと決めている」が60.5%、「無回答」が3.3%だった。

戻らないと考えている人が大半である現状で、帰還者が豊かな生活を送るために必要なことは何かと尋ねた。「世代によってニーズは違う。特に高齢者が多いため、それに合わせた施策が求められる」と話す。避難先での生活に慣れ親しんだ子どもや若い世代より、長い人生を故郷で送った高齢者の方が、帰還意志が強い傾向にある。そのため、病院の数を増やしたり高齢者同士が交流する機会をつくることが求められるという。震災前の生活を完全に取り戻せないが、町で安心して生活するための暮らしのインフラ整備は大切だと思った。

 

○「避難している町民」それぞれに寄り添う。

 また、リスナーに伝えたいことは何かと尋ねると「避難者は様々な問題を抱えている。そのため、避難者を突き放すのではなく、その人の立場に寄り添って物事を考えてほしい」と話す。

東京電力から賠償金を受け取る避難者が、「お金をもらっていい気になりやがって」などと周りから非難されることがある。賠償金は、原発事故によって住居や親族を失った人に対し、損害賠償として渡されるお金である。決してその人が得するためのものではない。望まない避難を強いられた人を冷たくあしらうのではなく、「もし自分が同じ立場だったら」と想像し、その人を受け入れることが大切だと思った。(櫻井)

「原発事故問題の本質とは」若者が被災地を訪れる

 東日本大震災による福島第一原発事故。

 テレビやラジオ等のメディアを見聞きし何となくその実態の大枠はわかるが、被災者のリアルな声はあまり聞いたことがない、という人は多いのではないか。

 私も、以前はその一人だった。しかし、「次世代に伝える。原発避難11年目ラジオ」のパーソナリティを担当したり、原発避難にまつわる様々なイベントに参加したりすることで、避難者の生の声をたくさん聞き、問題の本質を考えるようになった。そのような経験の一つとして、7月3日(日)に実施された被災地ツアーがある。

 

○取り壊した避難者の自宅跡にそびえ立つ雑草

 はじめに、双葉町から小山市に避難した北村雅さんの自宅跡を草刈りした。原発事故の影響により住めなくなってしまった自宅をやむを得ず取り壊す避難者が多く、そこに生い茂る雑草の処理に困っている人がたくさんいる。高々と立つ雑草を実際に見てみて、その問題を実感した。草刈機や鎌などを使ってしっかりと処理することができた。