次世代に伝える。

原発避難12年目ラジオ


東日本大震災による、福島第一原発事故。

それにより、多くの問題が生まれました。

 

避難先での不安定な生活、故郷に戻れない虚しさ、当時のことを口に出せないもどかしさ、賠償金が原因で受ける誹謗中傷…。

 

未だにそのような問題は消えていません。

そして、これから先も同じような事故・問題が起こりうるのです。

 

残された原発避難の問題に着目し、それを解決する社会づくりをしていきたい――――。

そんな思いで、この番組を放送しています。

 

担当パーソナリティは現役大学生の櫻井脩弥(さくらいしゅうや)。

 

"知っているようで知らなかった"、原発避難の問題について皆さんと一緒に考えていきたいです!!

 

 

 

『次世代に伝える。原発避難12年目ラジオ』

毎月第4火曜、19~20時にミヤラジにて放送中!

 

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役場職員には家族を亡くした方も… それでも仕事した公務員の超超激務! 「宙ぶらりんな避難」と法律の未整備

・10日後に戻ると、避難できない高齢者が家の中で亡くなっていた…

 当時双葉町の役場職員だった今泉さん。公務員は災害時でも町民の安全を守る仕事がある。非難の声かけや情報の提供、食事の提供を行ったという。また、1000人もの町民の安否確認を一人一人行った。さらに、「避難所の移動」に伴う避難計画、輸送計画、部屋割りなど決めることがたくさんあり、ゆっくり寝られる日はほとんどなかった。

 避難して10日後に、仕事で双葉町に戻った。少ない情報をもとに、残された高齢者を避難させる。しかし、冬だったこともあり、「家で亡くなっている人もいた」という。

 やはり「避難に援助を必要とする人」を救うには日ごろから地域のつながりを強めて、逃げ遅れている人に声をかけ、協力し合う「コミュニティ力」が大切だろう。原発避難はそういうことすらできなかった。

 今泉さんの知り合いは、「10日間雑草を食べて何とか生き延びた」という。

 

・地震、津波、原発。「3つの避難」の対応という公務=激務

 双葉町は最初に地震による建物の崩壊から逃げ、さらに津波から逃げ、それから原発事故による放射線から逃げと3つの避難が同時に押し寄せた。当時は相当大変な状況であったことが目に見えてわかる。

 そんな中でも公務員は町民を守るという使命から仕事をしなくてはならず、職員の中には家族を亡くし、つらい思いで仕事をしていた人もいたという。今泉さんも1か月間家族と会えず、連絡も取れず、安否のわからない状況で仕事をしていた。情報が入らないなか、町民からは判断を迫られ、夜まで寝られない状況が続いた。「判断する立場の人は、重い責任がのしかかるから相当大変だっただろう」と今泉さんは語った。

 

・12年経った今も避難状態。「宙ぶらりん」な政治参加・社会参加

 今泉さんは今埼玉県上尾市に住んでいるが、住民票は双葉町のまま12年が経とうとしている。「(町の)情報が入ってこないのが一番不安だ」と今泉さん。

 また、住民票の問題で「政治参加・社会参加については宙ぶらりんな状況」にある。住んでない町の選挙は少ない情報で候補者に投票し、今住んでいる町の選挙はもちろん、決め事にも参加できないのである。本来平等にあるべき参政権。この状況は平等と言えるのだろうか。

 「同じように原発事故があったチェルノブイリでは明確に、逃げる権利があるとし、逃げた人全員に補償をしている。逃げない権利も認めている。しかし、日本はそこをあいまいにしている」と海外と日本の対応の違いを語る矢野さん。

 今泉さんも「日本は自治会を抱えているため、広範囲の避難はパニックを起こす。自治会が大きな動きをできなくさせているのではないか」と自治会制度の問題点を語った。もちろん海外と日本では制度が違うこともあり、難しいこともあるかもしれないが、チェルノブイリのような対応は積極的に取り入れていくべきだと思う。

(加藤)

不安な時のボランティア、役に立つボランティア、すれ違いボランティア。でも、「ボランティアで助かった」

・避難所の夜に民謡大会 「笑い声。みんなの顔つきが全然違った」

 地震が起きたとき帰れず、働いていたデイサービスセンターに泊まった。それからは利用者や職員と一緒に避難所を転々としていた北村さん。社会福祉協議会の職員だった。

 当日は、何が起こっているのかわからなかった。でもそんな「説明できないこと」について話していても仕方ないし、「夜には寂しくなるだろう」からと、震災の日、泊まるデイサービスセンターで「民謡大会」を行ったという。

 やはり初めての避難場所での泊まりは落ち着くことができず、眠れない人も多かった。民謡大会は楽しく開催でき、時々笑い声も聞こえ、みんなの顔つきが全然違った。「このような非常事態にそういうことをしてよいのか不安もあったが、自分も落ち着くことができた」という。

 北村さんは「今の状況を説明できず、何をしたら落ち着くことができるのかと考えた時に目線を下げて寄り添うのが大事だ」と語った。

 避難所の「さいたまアリーナ」ではボランティアや専門の人が避難者の倍くらい来てくれたから任せて、「自分たちは自分たちにできることをした」という。一人一人平等に話を聞くようにし、食事や排泄の介助を行った。

 アリーナでの夜は、小さい子供がいる職員は家族優先で帰宅する。だから10人の介護士で50人以上もの高齢者の介護を行ったという。避難所には要介護の人も一緒なため24時間付きっきりで1か月間そのような生活をすることになる。想像するだけでも大変な生活だっただろう。加えて一人一人に話を聞く。このような北村さんたちの働きが避難者を少しでも安心させたのではないかと思う。

 

・「避難者は日常を求めている」

 避難所には「避難者よりも多くのボランティアが来てありがたかった」と感謝する北村さん。「ボランティアには避難の状況を知ってほしい、見てくれるだけでよい。それだけでも意味があるのではないか」と語った。一番多かったのは「歌を歌いに来るボランティア」だった。しかし、中には要望していない歌もあった。それが「ふるさと」だ。そこには家族を亡くした人や家が流されてしまった人もいて、その歌を歌われたのは相当つらかったという。嫌がっている人もいた。

 このように、良かれと思ってボランティアしに行ったのが、逆に傷つけてしまうこともある。また炊き出しでも、カレーや焼きそばばかりで毎日食べるわけにはいかない。だから団体が集まって話し合い、毎日違うものが食べられるように調整したところもあったそうだ。矢野さんは「最初に行くボランティアと、1か月後2か月後に行くボランティアは全く内容が異なるし、支援者がいる避難所と、いない避難所でもボランティアの在り方は違ってくる。また昼行くのと夜行くのでも全く異なる」と。ボランティアと一言でいっても、内容やありかたは広範囲に多岐にわたっている。

 また「避難者は日常を求めている」と語る北村さん。特別なことではなく、折り紙や読書、洗濯、化粧など日常に戻れる一コマを感じさせるものもよいのではないかと思った。

(加藤)

 

10/24 避難は弱者が一番困る ゲスト:三浦秀一さん

今日は次世代に伝える。原発避難12年目ラジオです。ゲストは三浦秀一さんです。福島県南相馬市から栃木県に避難してきました。

 

原子力発電所がまさか爆発するなんて思ってもいなかった三浦さん。爆発したときはとても驚いたという。「原子力は麻薬」という言葉があるらしい。原発の維持費はものすごくかかるのに国からお金がもらえて町が潤っていくため、原子力から離れようにも離れられないのだという。また、原子力発電所は簡単に壊すことができないのだ。中に入っている放射能をそのままにしておくわけにはいかないからだ。使わなくなって、お金を生み出さなくなった発電所でも管理するためお金と人が必要なのである。

視覚障害者の母と暮らしていた三浦さん。目が見えずトイレの場所がわからず、とても大変だったそうだ。避難所は健常者が来ることしか想定されていないため、障害を持つ方が置いてかれてしまうのだ。避難所では寝たきりの人ばかりの部屋があり、世話する人がいないため、においがしてきてとても環境が悪かったという。避難所で障害を持つ人が過ごすのは困難だと判断した三浦さんは避難所からすぐ出たという。

 

今回は原発事故前と事故後の原発に対する考え方の変化や弱者のための避難について話していきたいと思います。

 

ぜひお聞きください!!

 

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(加藤

避難中に死ぬ3736人。うち2335人が福島県!

浪江と宇都宮の2地域居住。「人が戻らない」

530日の「次世代に伝える。原発避難12年目ラジオ」では、福島県浪江町から避難し現在宇都宮市在住の佐々木茂夫さんにお話を聞いた。佐々木さんは原発事故後、横浜の姉のもとへ避難した。その後宇都宮市に避難するも、同時に実家のある浪江町に足を運ぶ、2地域居住をしている。福島では双葉町にある東日本大震災・原子力災害伝承館の「語り部ボランティア」もしている。浪江町藤橋地区は6年前の2017311日に警戒区域解除をうけたが、避難先での生活に慣れた多くの人は地元に戻らず、新天地での安定した生活を求める。だから佐々木さんの知り合いも栃木に多く避難しており、宇都宮に家を建てた。佐々木さんは今回、自身の避難の体験を通して、災害関連死の深刻さと日本の避難場所のあり方について話してくださった。

 

l  浪江だけで、災害関連死442人! 津波死の2.5倍‼

 災害関連死とは、災害による直接的な事故死ではなく、災害による負傷や避難行動、避難生活による疾病悪化が原因で死亡することである。佐々木さんの地元である浪江町は東日本大震災による直接死(津波)が182人であるのに対し、東日本大震災(地震・津波)及び原発事故災害による災害関連死は442人であった。直接死より災害関連死のほうが多い。また、福島県の災害関連死は2335人。同様に津波の被害があった宮城県(931人)や岩手県(470人)よりもはるかに多かった。福島県と宮城県・岩手県の違いは原発事故である。つまり原発事故による災害関連死は深刻なものであるとわかる。

 これが現状なのだが、多くの人は直接死のほうが多いと思っているだろう。なぜならメディアは避難所の実態は報道せず、視覚的に衝撃を与える津波の映像ばかりを取り上げるからである。佐々木さんは自分自身が避難者として避難所生活を強いられ、避難所の現実を見て何とかしなければならないと感じた。

 

TKB48」が避難場所には必須!

 佐々木さんが見た避難所生活は悲惨だった。3月上旬、冷たい床に段ボールや新聞を引き、夜を過ごした。老若男女だけでなく病気の人、慢性疾患、自宅で寝たきりだった人、妊婦、障害者、乳児…もいる。食事はおにぎりやパンなどの簡単なもの、冷たい、出来合いのもの。自分の薬もない。プライベートな空間などは全くなく、体力的にも精神的にもストレスフルな環境であった。

災害関連死は2011年の東日本大震災及び原発事故に限って起こるものではない。避難中の死なので日本全国で起こりえるのである。しかし一方で、日本人は本当に災害に備えられているのだろうか? 指定避難所は本当に避難する場所にふさわしいのだろうか? トイレは整っているのだろうか?更衣室はあるのだろうか?授乳室はあるのだろうか。

 

 佐々木さんは「48時間以内に、清潔で安全なトイレ(T)、温かい食事を提供する台所(K)、雑魚寝を防ぐベッド(B)、つまりTKB48が避難場所には必要である」という。現実にこれを実現できる避難場所が全国にいくつあるのだろうか。災害大国日本に住む私たちにとってこの考え方は重要だと思った。

目に見えない放射線から逃げるやるせなさ 社会問題としてとらえる原発事故

今回は、福島県田村市から栃木県に避難された、内田啓子さんに話を聞いた。田村市は福島県の中央にある郡山市と原発の真ん中ぐらいにあり、避難指示が出された原発30キロ圏内の境目でもある。避難するかどうか、個々の判断にゆだねられた人が多かったことだろう。

  • 待ち望んでいた生活が始まろうとした矢先の原発事故

 内田さんは、子供3人と夫の5人家族で、当時まだ子供も小さく自然豊かな環境でのんびり暮らしたいと田村市に移住してきた。原発事故の5ヶ月前だった。子供は4月から地元の幼稚園に通うことが決まっていた。過疎地域だったので地元の人にとても歓迎されていて、幼稚園に必要な道具を譲り受けることもあった。そんな矢先に起きた原発事故。内田さんは避難指示が出る前の翌日には避難をしていた。しかし、地域の人に恩返しができない苦しさや、たまに田村市に帰って、どこも壊れていない家を見て、「夢をもって移住したのに何でこんなことになってしまったのだ」という悔しさを感じるという。(内田さんの地域は地震による被害がほぼなかった)

  • 「避難は、ただの引っ越しではない」

 「避難というのは『今すぐ逃げなさい』と言われ、そして二度と家に帰れないという状況を強いられること。家の大事なものや友達、人間関係が失われる。仮設住宅ができてよかったねで終わることはない」と語る内田さん。家族で話し合い、栃木で生活することを決めた内田さん。だが、その決断に至るまで3か月悩んだという。「田村市にいた期間が半年という短い期間だったから決断できたものの、ずっと住んでいた人にとっては、とても難しい決断だったのではないか」という。また、「そのような難しい選択を迫られた人に対して、『お金のために避難を続けているのでしょう?』と言うべきではない」と。

 原発避難によるいじめや賠償金をもらった人に対する暴言は大切な故郷や友達、人間関係を失ってしまった人に対する言動ではないと思う。「避難」を軽く捉えすぎているのではないだろうか。実際に体験しないとわからない辛さや過酷さはもちろんあると思うが、「自分の大切なものを失う避難」の辛さは容易に想像できるだろう。また、そのことについて、親が子に伝えることも重要だ。きちんと伝えれば原発避難によるいじめが起こるはずがない。「放射線がうつる」といった根拠のない噂を伝えるのも間違っていると思う。

  • 「普通すぎる栃木」に違和感

 

 大変な思いで避難してきてほっとしたのもつかの間、普通過ぎる栃木にショックを受けた。まるで、パラレルワールドに来たような孤独感を感じたという。また、東京に行けば、普通に電気を使っている様子にとても驚いたという。確かに、計画停電などはあったが、一時的なもので、すぐなくなってしまった。事故後何も変わっていないことに怒りを感じたという。

  • 納得できず学問しだした。「政治と生活は密接している」と分かった

 自分を落ち着かせるため、納得のいく答えを見つけるため本を読みだした。そうしていくうちに、同じような疑問を持つ人に出会い、宇大の先生にまで交流が広がり「社会問題としての原発事故」について知識が付き、その交流が心の支えにもなっているという。「政治と生活はすごい密接していて、身の回りのことは政治的なことが多い。そのためおかしいと思ったことに対して声を上げることが大事」と語った。

(加藤)

6/27原発避難という苦い経験をせめて活かしてほしい、誰かの役に立てたい ゲスト:内田啓子さん

今日は次世代に伝える。原発避難12年目ラジオです。ゲストは内田啓子さんです。内田さんは栃木県出身だが、田舎暮らしをするために、家族で2010年に福島県田村市に引っ越しされ、原発避難に遭遇。震災で栃木に避難してきました。

 

 子供たちに、自然豊かなところで育ってほしい。そんな思いから福島にきて、春から新しい生活が始まるという矢先に起きた、原発事故。移住した当初は、過疎地域であったがために、とても喜んでもらい、地域の人から優しくしてもらえたという。毎日が新しいことだらけで、短期留学のような暮らしだった。その一方で、あんなに地域の人にやさしくしてもらえたのに、自分たちは避難をして、とても罪悪感があったという。地域の人に恩返しができない苦しさもあった。

 

 内田さんが住んでいた田村市というのは、避難指示や屋内退避の指示が出る30キロ圏内のちょうど境目の地域で、そこに住んでいた人たちは難しい判断を強いられたことだろう。判断により、元の土地、暮らしを失った人々はたくさんいる。それを解決してくれるのはお金だけなのだろうか。被害の立証をするためには、つらい過去に向き合わなければならない。このつらい過去、苦い経験を少しでも後世に活かす、誰かの役に立てる。これが、原発事故から12年経った今、やるべきことなのではないだろうか。

 原発事故を通して、社会の何が変わったのか。そして、今やるべきことは何なのかについて話し合います。

 

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(加藤)

5月30日 原発避難12年目ラジオ ゲスト:佐々木茂夫(ささきしげお)さん

 5月30日の次世代に伝える。原発避難12年目ラジオのゲストは佐々木茂夫さんです。

 

 佐々木さんは東日本大震災当時福島県の浪江町にお住まいでした。数々の避難生活を終え、現在は双葉町にある東日本大震災・原子力災害伝承館で語り部をなさっています。

 

今回のラジオでは「震災関連死」について掘り下げていきます。みなさんは震災関連死をご存じでしょうか。震災関連死とは、震災の直接的な被害で亡くなるのではなく、避難先での医療の質の低下、ストレスなどで震災後に間接的に被害を受けて亡くなることです。東日本大震災の被災者は津波や地震だけだと思い込んでいませんか。

 

東日本大震災が発生してから12年がたった今だからこそ言葉にできることがあります。自分が思っているより、あの悲惨な東日本大震災を忘れているし、理解できていません。ラジオを聞いて当時のリアルを届け、我々は何をするべきなのか考えていきましょう。

 

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(吉田)

自主避難をするもしないも大きな決断。自主避難をして得た新たな価値観

l   l   原発事故後の同調圧力に嫌悪感。空気を読んでいては身を守れない

 425日の「次世代に伝える。原発避難12年目ラジオ」では福島市から宇都宮市へ自主避難した大山香(おおやまかおり)さんをゲストにお迎えした。大山さんは原発事故当時福島市にいた。福島市は強制避難範囲外ではあったものの、放射線量値は高く家のベランダは当時5µSv/(マイクロシーベルト/)※①だったという。しかし、テレビでは避難範囲外であれば避難しなくて大丈夫だ、とまるでなにも危険ではないかのように放送されていた。大山さんは日本人の「空気を読む性格」や「暗黙の了解」、「同調圧力」を強く感じたという。地元である福島にでさえ「嫌悪感」を抱いた。このままでは子供が危険におかされるだけ、将来子供がどのような目に合うかわからない、そんな不安から築7年のマイホームを福島に残して自主避難を決意した。

l   自主避難先の宇都宮、市民権を得られない

 自主避難先の宇都宮では、自分のアイデンティティについて悩んだという。自分は「福島県民なのか」「避難民を名乗ってよいのか」という罪悪感にかられたという。自主避難を決断することは福島県を裏切ることと全く同じではない。しかし当時は「福島県を裏切った感覚」があったという。かといって宇都宮市民でもない。自分の中での市民権が得られなかったという。

 宇都宮では「みなし仮設住宅」に住んだ。これは原発事故で避難をする人々に対し、政府が民間の賃貸住宅を「仮設住宅とみなして」、支援金を給付する仕組みである。しかし借りられる期間は決まっており(通常2年)期間が過ぎた後の不安などは多かった。みなし仮設住宅に過ぎないから、福島のマイホームに比べると小さくて窮屈だった。自主避難の決断は良かったのか、苦悩の日々だったという。

l   人には一人一人「誇り」と「アイデンティティ」がある

 原発事故後、自主避難者にもみなし仮設住宅が認められ、住宅に関しては国からも給付金が出ていた。これだけ耳にすると「国は強制避難者だけでなく、自主避難者にまで給付金を認めていてすばらしい」ように見える。しかし、避難先の宇都宮で平穏に生活できることが、事故前の福島での生活と同じ価値には絶対にならない。我々の「本当に何気ない日常生活」はプライベートな空間であり、一人一人が誇りを持っている。この何気ない日常は理屈さえ通っていればよいわけではなく、お金で解決できるものではない。しかし、「お金で解決する」政府の政策はそのような避難者の一部ともいえるような価値あるものを破壊しているのだ。

 大山さんは自主避難後「人間とはなにか」について何度も考えさせられたという。「人は見た目に振り回されるけれど、見えないものこそが本当に大切」だと語る。我々は「世間体」を気にして社会ではなく世間に合わせて生きている。世間に合わせると「自分」はなくなる。「自主避難」という選択をしたことで、初めて人間として生きた心地がしたという。これからの未来を担う若者たちには「良い意味で空気を読まずにいろいろなことに挑戦してほしい」と語った。

※注①:µSv/h(マイクロ・シーベルト/時)は1時間当たりの放射線量で、5×24時間×365日=43,800µSv43.8mSv/年(43.8ミリシーベルト/年)となる。年間1ミリシーベルト(mSv)が成人の放射線許容量なので、許容量の43倍であった。

4/25 原発避難12年目ラジオ 大山香さん

 本日4月25日は「次世代に伝える。原発避難12年目ラジオ」です。今回のゲストは福島市から自主避難をし、現在宇都宮に在住の大山香さんです。

 今までは原発事故で避難を強制される「強制避難」の方にお話を聞く機会が多かったですが、今回は自身で避難を決意する自主避難について掘り下げていきます。取材前は自主避難だからこその不安や悩みについて知らない人に知ってほしいと考えていましたが、取材をしてみると大山さんがこの12年を通して得た新たな価値観や考え方がみえました。自主避難をすることは良いことなの?どんなふうに大変なの?福島から栃木に避難をしている人はおよそ3000人と言われています。自主避難をした人たちの「地元」ってどこなのでしょうか。今回のラジオは「アイデンティティ」がキーワードです。多くの人に聞いてほしいラジオです。ぜひお聴きください!

 

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(吉田)

 

3/28 双葉だからできる暮らしがある ゲスト:山根辰洋さん

明日の次世代に伝える。原発避難 12年目ラジオ、ゲストは東京出身なのに福島のためにと、双葉にきて議員になった山根辰洋さんです。住民の代表として原発やエネルギー問題に対する考えを国に伝えたり、失われてしまった町民とのつながり取り戻すために、観光業に力を入れています。

 

 もともとは東京で復興支援をしていいた山根さん。そこから仕事を受けて、縁もゆかりもない双葉町に行くことに。そこでは役場の支援員の手伝いをしたり、町民の話を聞いたりと双葉に住む人たちと関わってきた。支援はまだまだ続ける必要があると感じ、双葉町に住むことを決めた。働かないと生活することができないので自分の仕事として観光事業を作った。観光を通して復興を支援したり、地元の人と意見交換をして、双葉が町として残れるように活動をしている。

 

 しかし現実問題、山根さんには家族もいて、小学校や生活に必要な施設があまりない町で生活できるのか、議員としての悩み、原発に対する山根さん自身の考え、そして双葉町の「ここが良い!」というところについて聞いていこうと思います!

ぜひお聞きください!!

 

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(加藤)

「次世代に伝える。原発避難を語る会」宇大生が開催

 若者が3.11の原発避難のことを知るオンラインイベントを開催しました!

 

 3月10日(金)「次世代に伝える。原発避難を語る会」をZoomで行いました。企画者は、福島県三春町出身・宇大4年の櫻井脩弥。「次世代に伝える。原発避難10(11)年目ラジオ」のパーソナリティを務めていました。今まで約15人の避難者の話を聞いてきて思ったのは「原発避難のことを次世代に伝え、同じ問題が二度と起こらないようにしたい」ということ。そんな思いを込めて、本イベントを企画しました。

 前半はゲストスピーチ。主催の櫻井と、福島県双葉町から小山市に避難した北村雅さんの2人が、それぞれスピーチをしました。「10年経ったから、3月だから、ではなく、常に原発避難のことを知ってもらいたい」という北村さんの話に胸を打たれた櫻井。未だに解決されていない避難の問題はたくさんあります。毎年3月11日が近づくと災害関連の報道が増えますが、タイミング関係なく常に考えていかなければならないテーマだと思いました。参加者からは「当時の状況や想いをいただけてとてもうれしかった」「単なる情報としてではなく、実体験に基づいた重みのあるお話を聞き多くの学びがあった」といった感想を頂きました。

 後半は、原発避難のことについて話し合うワークショップ。「故郷を失ったつらさ」「賠償金による誹謗中傷」「自主避難者と強制避難者の差」「震災関連死」という4つのテーマをもとに、4人グループに分かれて率直な意見を話し合いました。参加者からは「当事者のお話を短い時間の中聞けたことは、貴重なことであったと思う」「もっと当時の状況について知り、そして、これから何をしていなければいけないのかということを考えたいと思った」といった感想を頂きました。

 他には、「若い学生さんたちがより深く知りたいと思っておられることに希望を感じた」「原発避難を風化させない取り組みが心強い」「まずは声を上げ、行動を起こすことが大切だと強く思った」といった感想もありました。このイベントを通して、原発避難のことを少しでも知れた方がいれば、嬉しいです。今回のイベントは初の試み。改善点も多々ありますが、それらを生かして今後もこのようなイベントを開催していきたいです。(櫻井)

2/28 「念のための避難が、まさか故郷を追われることになるなんて」

•「火事か」と思うくらいの土煙

 今回は福島県大熊町から鹿沼市に避難した、武内都(たけうち・みやこ)さんに話を伺った。

 震災が起きた日、武内さんは中学校の卒業式で子供たちを見送り、ほっこりした気分で帰っていた。その帰りに地震は起きた。数日前から地震はちょくちょく起きていたが、それとは比にならないくらいの大きさだった。庭に出ると屋根瓦やアンテナが倒れてきたり、遠くを見て見ると、火事かと思うぐらいの土煙が上がっていたという。おそらく、多くの家の屋根瓦が落ち、倒壊した家のものだろうという。孫を迎えに行こうとしたが、水道管が破裂し、道路が浸水して、迎えに行けなかった。幸い近所の人が遠回りをして送ってきてくれて孫と出会えた。卒業式のほっこり気分から一変。まさかこの先、慣れ親しんだ日常が失われてしまうとは夢にも思わなかった。また3月11日は卒業や進級、受験シーズン。やりきれない思いをした人がたくさんいたと思うと、本当に胸が苦しくなる。

 

•家族と散り散りの避難。コンクリート打ちっぱなしの床で寝た…。

 その日は車の中で一晩を過ごし、朝になると落ちた瓦の片づけを始めていた。その時、町の防災無線で「集会場に集まれ」との連絡が入った。行ってみると、突然「避難しろ」とだけ言われ、原発については、「大丈夫だから」としか言われず、細かい情報を教えてくれなかった。また、住民自身も「原発が爆発するなんてありえない」と思っていたという。

 私たちラジオ学生で、双葉町の「東日本大震災・原子力災害伝承館」に行ったことがあるが、そこには小学生のポスターで「原子力発電所は環境にやさしい」と書かれたものが掲示されていた。そのようなものを見ると、当時、原子力発電所は環境負荷を与えず、「とても良いもの」として考えられていたのだなと思う。そんな原子力発電所がまさか爆発するなんて幼い子供はもちろん住民でさえも考えつかなったのだろう。

 集会場で避難のバスが来るのを待った。原発に近い集会からバスが来るため、空きは4,5人と少なかった。子供やお年寄りの人を先に乗せて行かせた。しかし、後からバスで向かったら着いたところが先行バスと異なり、家族がバラバラになってしまった。武内さんも両親を介護タクシーにお願いして先に避難所に行かせたが、バスがなくなってしまったので、後から自衛隊のトラックに乗って避難した。しかし、避難場所が違い離れ離れになってしまった。移動で、山に着いた時には、もう夕方ごろになり、とても寒かったそうだ。ところが、避難所の空きがなかったのかどんどん西のほうへ連れて行かれた。やっと郡山の西、磐梯熱海温泉のホテルの避難所について安心したのもつかの間、「放射線を測らないと中には入れられない」と言われたそうだ。そして郡山に戻り、またホテルに帰ったのは夜…。

 このように、連携も連絡も統制も取れていないのが避難の実態だったようだ。簡単に避難所に入ることはできず、また、居られる期間にも限りがあるため、さらに県内を移動を重ね、時には、コンクリート打ちっぱなしの冷たい床にブルーシート一枚しいて、寝たこともあったそうだ。

 

•「気持ちは生まれ故郷。心と体が半分になった気分」

 その後、武内さんはご両親とも無事合流することができ、普通車に5人と布団を積んで宇都宮に移動した。娘のいる宇都宮に着き、お風呂に入ったときはほっとし、涙がぽろぽろ落ちてきたという。当時は「これからどうしよう」という不安もあったが、今日のラジオでは「鹿沼はとっても良いところです!」と満面の笑みで答えていた。

 しかし、「地震だけだったら(故郷を)追われることがなかった。大事な故郷を追われるような悲しい思いを他の人にしてほしくない。」と語っていた。

 「避難での新しい出会いもうれしいが、気持ちは生まれ故郷にあり、心と体が半分になった気分だ」と言う。

 

(加藤)

2/28 まさか原発が爆発するなんて ゲスト:武内都さん

 明日の次世代に伝える。原発避難11年目ラジオ、ゲストは福島県大熊町から鹿沼市に避難した、武内都さんです。

 

 原発事故が起きた日の翌朝、公民館に集められ、何の用意もなく「避難しろ」とだけ言われ、困惑。「原発は大丈夫だ」としか言われず、細かい情報はなし。避難してからは、コンクリート打ちっぱなしの冷たい床の上で過ごすこともあった。栃木に移動してからも、住民票の問題や福島に残った家はどうするのかなど問題は尽きない。

 

 原発事故当時の様子や避難までの流れ、避難生活の様子、栃木に引っ越してからの動きや問題についての話を伺います!

ぜひお聞きください!!

 

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(加藤)

 

 

 

【参加者募集】若者集合!「次世代に伝える。原発避難を語る会」

 "知っているようで知らなかった"、原発避難の問題について考えてみませんか?

 

 12年前の東日本大震災による福島第一原子力発電所の爆発事故。そこから漏れた大量の放射線により、多くの人が避難を強いられました。

 避難者は、多くの問題に直面する日々。避難先での不安定な生活、故郷に戻れない虚しさ、当時のことを口に出せないもどかしさ、東電からの賠償金が原因で受ける誹謗中傷…。

 現在、日本では原発の再稼働の動きがあります。同じような問題が二度と起こらないように、次世代の若者が原発避難のことを「知り」そして「考える」ことが求められています。

 

本イベントでは、原発避難者の生の声を聞き、そのリアルな問題を知ることができます。

ぜひ、お気軽にご参加ください!

 

◇こんな人におすすめ!

「原発避難って何?どんな問題があるの?」

「復興って進んでいるの?」

「災害の問題に取り組んでみたい!」

「隠された社会問題について知ってみたい」

 

~概要~

『次世代に伝える。原発避難を語る会』

◇と き 2023年3月10日(金)18:00~20:00

     Zoomにて(無料)

◇イベント内容

①福島県三春町出身の大学生・櫻井脩弥が原発避難に対する取り組みを語る

②福島県双葉町から避難した北村雅(きたむら・ただし)さんからのお話

③原発避難の問題解決に向けて、若者ができることを考え合うワークショップ

 

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「自分事であるはずの原発」。だけど他人事。忘れてほしい人たちがいる?

 今回は埼玉県在住のフリーライター吉田千亜さんをゲストにお迎えした。吉田さんは原発事故で避難してきた人(特に自主避難者)の声をきっかけに、「原発事故とは何だったのか」を追求している。

 

l  「危機感」と「申し訳なさ」が取材の動機

 吉田さんが取材を始めたきっかけは大きく2つだ。1つ目は「危機感」である。福島県と埼玉県では距離があるように感じるが、事故当時は「東日本は全部だめ、住めない」と言われていたという。「今は、それを忘れている」と吉田さん。私はこれを聞いて、原発事故を自分事としてとらえる姿勢が今の日本人に足りないものだと感じた。だから原発再稼働への危機感も薄いのだなと思った。

 2つ目は「申し訳なさ」である。原発事故はその時だけの問題ではなく、次世代にまで影響を及ぼすもので、50年前の「エネルギーへの欲望」が次世代に負担をかける結果を生んでしまったことへの申し訳なさを吉田さんは語っていた。

 

l  無関心が起こす「人のいない地域の復興」と国の思惑

 吉田さんの話を聞いて驚いたのは、「原発事故は単なる事故ではない」という点である。「復興」の場面でも、もっと複雑な要素が絡まりあっているという。

 福島県の太平洋沿岸は「浜通り」と呼ばれるが、浜通りでは現在「イノベーション・コースト構想」が行われている。政府の政策で、浜通りを「新たな産業基盤の構築を目指して、廃炉、ロボット、エネルギー、農林水産等の分野におけるプロジェクトの具体化を進める」場所にするという。

 そこで吉田さんは「浜通りの復興」についての関係法令、実施計画、政府答弁などの文献を全て調べた。「復興という都合の良い言葉を盾に、人がいないことを利用して政府にとって便利な土地として利用していると吉田さんは指摘する。「新型原子炉とか、ミサイルとか、ドローンとか、軍事研究をしても分からないですよね」とコメントおじさん(矢野さん)も言う。原発事故は政治も絡むような問題であったのだ。私はこの事実に驚くと同時に、その事実に気付けない現実に悔しさを覚えた。政府任せにするのではなく、意識を高く持つことが我々国民の責任なのだ。「日本の復興は、地面の復興であって、避難した人の人生の立て直しではない」という矢野さんの指摘ももっともだと思った。

 

l  「自分事として」身近な人と原発避難の話をする。

 若者に求めるものとして吉田さんは「話をすること」という。「原発事故という明らかに重い話を身近な人とする機会は少ないかもしれないが、身の回りから伝えていくことが多くの人に知ってもらうためのバトンになる」という。

 

 たしかに、「自分にも関係がある」という意識を身近な人と持つことが重要だと思った。(吉田)

1/24 原発事故の「責任」は誰のもの? ゲスト:吉田千亜さん

 皆さんこんにちは‼2023年を迎えるとともにラジオ学生がバトンタッチされました。新ラジオ学生の吉田美音です。「次世代に伝える。原発避難11年目ラジオ」はレギュラー化され、今月から毎月第三火曜日への移動となりました。

 

 さて、今月は明日1月24日放送で、ゲストは埼玉県のフリーライター、吉田千亜さんです。初見の方もいらっしゃると思いますが、私たちの番組ではいままで「原発避難民の方の声や現実を世の中の多くの人にもっと知ってもらおう」という信念のもと番組を運営してまいりました。今回は「原発避難民の方を取材されている方を取材する」という初の試みです!ということで、番組に福島県以外で震災を経験された方をお招きするのは初めてです。吉田さんはどうして原発について取材するようになったのか。人一倍原発について追及する動機はなにか。原発を追求して突き止めたものはなにか。2011年の原発事故は単なる災害ではない!実は政治とも関わっている…?フリーライターの吉田さんだからこその視点をリスナーさんの皆さんにも共有できればと思います。ぜひお聴きください!

(吉田)

 

質問してみたい方はどんどんコチラまで‼

→(773@miyaradi.com)

 

リスナーの皆さんのご意見・ご感想もお待ちしております‼

 

ミヤラジ(77.3FM)にて毎週火曜19:00-20:00オンエア!

 

「お前んち、賠償金貰っているだろ」心ない言葉や妬みを生んだ原発避難

 ○デイサービス職員。高齢者とともに避難

 7月17日の「次世代に伝える。原発避難11年目ラジオ」では、福島県双葉町出身で現在は小山市に住んでいる北村雅(きたむら・ただし)さんに話を聞いた。

 東日本大震災当時、双葉町の社会福祉協議会職員だった北村さんは、デイサービスセンターで働いていた。利用者と触れ合い充実した生活を送っていた矢先、3月11日に突然の大地震が襲いかかった。北村さんは、その時のことを振り返り「割れたガラスが突き刺さって死ぬんだと思った」という。

 何もかもが混乱した状況の最中、その日は多くの利用者や従業員が帰れなかったため、施設内で一晩を過ごした。北村さんは、利用者が不安にならないように、ニュースで見聞きした情報をむやみに伝えず、ただひたすら寄り添っていたという。北村さん自身も不安だったはずだが、他人を想って行動していたことに感動した。

 翌日12日に福島第一原発が爆発し、社協職員として高齢者連れの避難が始まる。13日から19日頃までは、双葉から60kmほど離れた川俣町の体育館に避難した。しかし、その後も安心して休むことはなく、郡山市の特別支援学校で避難者の支援をする日々。また、奥さんは別の避難所にいたため、しばらく再会することができなかったという。大切な人と突然会えなくなるのは非常に切ないだろうと思った。

 20日からは、埼玉県へ双葉町民の一斉避難が始まった。さいたまスーパーアリーナや加須市の県立騎西高校などが避難所となり、大勢の町民がそこで暮らした。その間北村さんは、小山に住んでいた息子の元に行き、4月2日に家族と再会。その後、平日は埼玉で避難者支援、週末には小山に帰り家族と過ごす生活を送った。

 

○「解決していていないことは、たくさんある。話し合いが大事」

 翌年1月には、いわき市に建設された仮設住宅で3年2ヶ月もの間、単身赴任で避難者支援の仕事をした。避難者と親しみ合い充実した生活を送っていたが、避難者間の分断が窺える場面もあったという。「仕事がある人」や「家族と住めるようになった人」、「家が残っている人」を妬む避難者もいた。それが原因で「その話題は触れないでおこう」という雰囲気が生まれ、次第に自分自身のことを話す人が少なくなっていった。

また、いわきの学校に転校してきた子どもが、他の生徒から「お前んち、賠償金貰っているだろ」と揶揄され、いじめを受けたこともあった。そんな人間同士の傷つけ合いがある現実を知り、胸が痛くなった。

 次世代に伝えたいことは何かと聞くと「同じ方向をみんなが向けたら良いなと思う。解決していないことはまだたくさんある。だから話し合っていくことが大事だ」と話した。「自分がその人の立場だったら」と想像して寄り添うことこそが本当の復興につながる第一歩なのではないか、と感じた。(櫻井)

原発避難のリアルを若者(まご)に伝える伝承イベント

〇原発避難者の生の声を聞ける絶好の機会

 東日本大震災による原発避難。あなたは、その問題の本質とは何かを考えたことはありますか。

 10月8日(土)に下野市のコミュニティセンターにて、栃木県内の原発避難者と大学生の若者が交流するイベントを開催しました。これは、原発避難の実際を次世代に伝承することをねらいとしたものです。

 企画・運営を務めた私(櫻井)は、福島県三春町出身の大学生。自身が福島出身であるにもかかわらず、今まで原発避難のことを知ろうともしませんでした。それは、知る機会がまわりになかったからだと思います。そのため、他県の若者にとっては尚更程遠いテーマだろうと思い、このイベントを企画しました。

 

 イベントは三部構成で開催しました。

 第一部はレクリエーション。「ペタンク」という体を動かすゲームを行い、参加者間の緊張がほぐれる活動となりました。意外と難しかったようですが、チーム同士で競い合う刺激的なゲームに、楽しんでいる様子でした。

 第二部では、福島県双葉町から避難してきた北村雅(きたむら・ただし)さんと私でトークショーを行いました。北村さんとは、昨年から「次世代に伝える。原発避難11年目ラジオ」という番組で共演していました。番組を通してどのようなことを感じたか、次世代に伝えるべきこととは何か、といったテーマで熱弁する北村さん。参加者はみな真剣なまなざしで聞いていました。

 第三部では、若者と避難者同士でワークショップを行いました。6グループに分かれ、それぞれのグループ内で「避難当時に欲しかった支援」「助かった支援」「次世代に伝えたいこと」の3つのテーマで話し合いました。避難を経験していない人には「もし自分が避難者だったら」と想像して考えてもらいました。避難者のなかには事故当時のことを話したくないという人も多く、難しいテーマでしたが、胸の内を打ち明けていただいたことで自身の安心感にもつながったと思いますし、若者にとっても避難のリアルを知るとても良い機会になったと感じました。

 

〇来年も再来年も開催していきたい

 アンケートへの回答をたくさんいただきました。

「生の声を聞くのは初めてだったのでとても良かった。」

「話してみるといろいろ思い出して、もっと話したくなった。」

「当時を思い出して、辛くなった。」

「避難者が不快な思いをしなかったか、少し気になった。」

「伝えることの大切さを知った。」

など、さまざまな意見がありました。

 このような、避難者の生の声を聞くことができる伝承イベントは他になかなかありません。より多くの若者に避難のリアルを知ってもらうため、今後も引き続き本イベントを開催したいと思いました。(櫻井)

原発避難者の方々と楽しくサコッシュづくり

 11年前の東日本大震災による原発避難。それにより、栃木県にも避難してきた人がたくさんいます。その数およそ二千七百人(令和4年現在)。

 そんな県内の避難者が毎月交流し合う「ふくしまあじさい会」という集まりがあります。

 

 「次世代に伝える。原発避難11年目ラジオ」(https://www.tochigivnet.com/fukushima10-radio/)の学生パーソナリティをしている私(櫻井)は、避難者ではありませんが、あじさい会の雰囲気が好きで毎月参加しています。

 9月8日(木)のあじさい会では、かごのサコッシュづくりが行われました。

 クラフトを専門で行なっている方々が、作り方を一から丁寧に教えていただいたおかげで、なんとか完成!

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「これからどうなるのだろう」原発事故小4、漠然とした不安

○「なんで自分がこんな目に…」転校先の友人に見せなかった思い

 5月15日の「次世代に伝える。原発避難11年目ラジオ」では、福島県葛尾村出身の吉田尚輝(よしだなおき)さんをゲストにお呼びして話を聞いた。吉田さんは、私(櫻井)の小中学生の頃の同級生である。小学5年生の震災当時、葛尾村から私の小学校に転校してきた。それまでに2、3回も避難先を移転していたという。

 はじめは、近所の体育館で避難生活。当時は食や風呂などの生活環境が整っておらず、精神的な負担が多かったという。「これからどうなるのだろう」という漠然とした不安があった。

その後、会津に住居を移し一時的に市内の小学校に通い始めたが、そこではいじめや嫌がらせなどがあった。「なんで自分がこんな目に遭わなきゃいけないのか」と悩むこともあったようだ。

 その後、私の地元の三春町にある仮設住宅に移り、町内の小学校に転校してきた。当時の吉田さんは、避難で大変な思いをしている様子を一切見せなかったため、同等な立場である普通の友人として学校生活を共にしていた。しかし、実際は多くの悩みを抱えていた。仮設住宅にはゴキブリが大量発生したり、防音性がなく近所の生活音にストレスを感じていたこともあったという。避難当時の話を聞いたのはこのラジオが初めて。あらためて吉田さんをゲストに呼ぶことができて良かったと思う。

 

○「福島は“復興”だけでなく、成長している」

 これからの活動について話を聞いた。

「福島=震災・原発事故が起こった場所、というイメージをなくしたい。まずは福島に訪れてみて、地域の魅力を知ってほしい」と話す。

福島県内の学生が集うコミュニティサークル、SFF(Spread From Fukushima)でも活躍する吉田さん。

「福島県は復興しているだけではなく成長している。福島県を盛り上げようと頑張る若者の活躍を多くの人に知ってもらいたい」と語った。「福島って意外と良いところだな」と思ってもらえるように、私自身もできることをしていきたいと思う。(櫻井)

「本当に良いところだった」。大好きな故郷を帰れない所にした原発事故

 6月19日の「次世代に伝える。原発避難11年目ラジオ」では、福島県浪江町出身で現在は茨城県つくば市に住んでいる木幡サチ子(こわた・さちこ)さんをゲストにお呼びし、話を聞いた。

 

○地震、津波、原発事故…。3つの危機が襲いかかったあの日

 3月11日は、娘の学校の卒業式の日だった。学校から家に帰り、着替えをしていた時に大きな揺れが襲ってきた。慌てて外に飛び出し向かったのは、周りに建物がない田んぼのなか。そこで、しばらく様子をうかがっていると、古い民家が崩壊していくのを見た。立っているのもままならない程の大きな揺れがしばらく続いた。やっと揺れが落ち着き、家に戻り片付けをしていると、当時沿岸地域に住んでいた息子から「津波で家が流された」という連絡が来た。事態の深刻さを把握し、翌日避難を開始。避難の最中に車のなかでテレビを見ていると、「福島第一原発が爆発した」というニュースを知る。その時、外に灰のようなものが飛んでいた。「もしかしたら爆発のものだったのかも」と思った――と当時を振り返る。

 

○心から愛していた故郷。もう戻れないつらさ

 避難したのはいいものの、当時受け入れてくれる避難所がどこにもなかったという。「ここは双葉の避難所だから!」などと、他地域から来る人を拒む場所ばかりだった。しかたがなく、12日の夜は川俣町のとある公園の脇に車を停め、寒い思いをしながら車中泊をした。

 翌日、妹から「筑波に来たら?」と言われ、家族12人で茨城に向かった。当時は「ちょっとしたらすぐに帰れるだろう」と思っていたが、その後故郷で再び過ごせる日は来なかった。「まさか自分の生まれた土地を離れるとは思わなかった」と話す。現在はつくば市で新しい家を建てて暮らしている木幡さん。時に周りから「今の家、立派で良いじゃないか」と言われることがあるが、それで満足できるわけではない。故郷に戻れないことによる憤りや不安は一生消えないのだ。木幡さんの実家は既に更地になっているが、時々家跡に帰ると落ち着くという。ストレスで病気になった人が故郷に帰ると治る、という避難者もいるらしい。木幡さんは「浪江町は本当に良いところだった」と話す。長年暮らしてきた愛すべき故郷を手放すつらさを想像してみてほしい。(櫻井)

「帰還町民」の暮らしの下支え、「避難町民」への寄り添い。双葉町長インタビュー

○「戻らない6割」の中で、豊かな暮らしを創る。

 昨年6月から今年の3月まで放送された「次世代に伝える。原発避難10年目ラジオ」。その続編を「11年目ラジオ」と改め放送することになった。4月17日は、福島第一原発がある双葉町町長、伊澤史朗(いざわしろう)さんに話を聞いた。

 伊澤さんは震災から2年後の2013年に双葉町長に就任した。それから現在に至るまで町の復興に尽力し、今年6月には避難指示区域の解除に努めた。しかし、昨年8月に行われた双葉町住民意向調査によると「戻りたいと考えている」が11.3%、「まだ判断がつかない」が24.8%、「戻らないと決めている」が60.5%、「無回答」が3.3%だった。

戻らないと考えている人が大半である現状で、帰還者が豊かな生活を送るために必要なことは何かと尋ねた。「世代によってニーズは違う。特に高齢者が多いため、それに合わせた施策が求められる」と話す。避難先での生活に慣れ親しんだ子どもや若い世代より、長い人生を故郷で送った高齢者の方が、帰還意志が強い傾向にある。そのため、病院の数を増やしたり高齢者同士が交流する機会をつくることが求められるという。震災前の生活を完全に取り戻せないが、町で安心して生活するための暮らしのインフラ整備は大切だと思った。

 

○「避難している町民」それぞれに寄り添う。

 また、リスナーに伝えたいことは何かと尋ねると「避難者は様々な問題を抱えている。そのため、避難者を突き放すのではなく、その人の立場に寄り添って物事を考えてほしい」と話す。

東京電力から賠償金を受け取る避難者が、「お金をもらっていい気になりやがって」などと周りから非難されることがある。賠償金は、原発事故によって住居や親族を失った人に対し、損害賠償として渡されるお金である。決してその人が得するためのものではない。望まない避難を強いられた人を冷たくあしらうのではなく、「もし自分が同じ立場だったら」と想像し、その人を受け入れることが大切だと思った。(櫻井)

「原発事故問題の本質とは」若者が被災地を訪れる

 東日本大震災による福島第一原発事故。

 テレビやラジオ等のメディアを見聞きし何となくその実態の大枠はわかるが、被災者のリアルな声はあまり聞いたことがない、という人は多いのではないか。

 私も、以前はその一人だった。しかし、「次世代に伝える。原発避難11年目ラジオ」のパーソナリティを担当したり、原発避難にまつわる様々なイベントに参加したりすることで、避難者の生の声をたくさん聞き、問題の本質を考えるようになった。そのような経験の一つとして、7月3日(日)に実施された被災地ツアーがある。

 

○取り壊した避難者の自宅跡にそびえ立つ雑草

 はじめに、双葉町から小山市に避難した北村雅さんの自宅跡を草刈りした。原発事故の影響により住めなくなってしまった自宅をやむを得ず取り壊す避難者が多く、そこに生い茂る雑草の処理に困っている人がたくさんいる。高々と立つ雑草を実際に見てみて、その問題を実感した。草刈機や鎌などを使ってしっかりと処理することができた。

 

○「きれいなエネルギー」原子力の尊さを訴えたポスター

 次に、双葉町にある「東日本大震災・原子力災害伝承館」に行った。館内には、震災にまつわる様々な展示物があった。なかでも印象的だったのは、原子力発電を賛美するようなポスターの数々である。今でこそ原発反対を唱える人は多いが、事故前はいかに原発がクリーンで安全なエネルギーとして見られていたのかがわかった。「ぼくたちのみらいをはこぶ原子力」というタイトルで小学生が描いたポスター。実際に運ばれたのは、果たして“明るい”未来だったのだろうか。

 

 

○「住民を町に戻らせるのは、早く死ねっていうことですか?」

 最後に、津波被害を受けた浪江町の請戸小学校を訪ねた。そこには、損壊した施設の様子だけではなく、被災者のリアルな証言も残されていた。なかでも印象的だったのは、「住民を町に戻らせるのは、早く死ねっていうことですか?」という、ある原発避難者の言葉。現在、被災地である福島県沿岸部の各市町村では、少しずつ避難指示解除が進められ、国は住民の帰還を望んでいる。それにもかかわらず、被災地では、生活するうえで必要なインフラや、病院、学校、店、働き口などが未だに不十分であり、安定した生活をするのは難しい状況にある。そんななか、本当に住民を帰還させて良いのだろうか。

 

 震災や原発事故の問題はメディアだけではわからない。被災地を実際に訪れて初めてわかることがある。現在、全国各地で災害が多発している。再稼働を始めた原発もある。そのような現状で私たちにできることは、過去にあった出来事を知り、同じ問題を起こさないようにすることである。ぜひ、実際に被災地に足を運んでみてほしい。(櫻井)

原発避難問題、「何を大事にすべきかを若い人と一緒に考えていきたい」

○ 「どんなにつらいことがあっても立ち直るきっかけはある」…避難経験で伝えたいこと

 「次世代に伝える。原発避難10年目ラジオ」は、3月13日に3時間の特別番組で最終回を迎えた。この日のゲストは3人。以前ゲスト出演していただいた志賀仁(しがひとし)さんと榊原比呂志(さかきばらひろし)さん、そして宇都宮大学国際学部の清水奈名子(しみずななこ)さんをお呼びした。

 放送は3部構成。第1部では、福島県双葉町(ふたばまち)から栃木に避難した志賀さんと榊原さん。志賀さんは、福島から栃木に避難した住民らが孤独を感じないようにという想いでつくられた当事者団体「ふくしまあじさい会」の事務局長を務めている。今後の活動について訊くと「10年以上が経ったいま、栃木での永住を決める人が増えた。そのため、今後は近くに住む地域の人とどう関わり合うべきかを考えていきたい」。また「故郷の現状を視察したい。避難者だけではなく、(栃木の)地域の人も連れて」と話した。コロナ禍でなかなか思うように活動できないが、どうか前向きな気持ちを保ってほしい。

 また、今年6月から始まる双葉町の住民帰還の「準備宿泊」をしている榊原さんは、故郷(双葉町)の自宅からオンラインでの出演。帰ってきたことに喜ぶ様子が画面越しに伝わった。「自分が被災するかもしれないという心構えが大切」、「どんなにつらいことがあっても立ち直るきっかけはある。投げやりにならず耐える気持ちが大事」といった言葉が印象的だった。

 

○若者が被災地の現状を見学。「行って実感!」「自分事に」「復興とは何か?」

 放送に先だって2月末に、ラジオ学生の櫻井、佐藤、鈴木、宮坂(元ラジオ学生)が双葉町の現状を視察した。第2部は、その感想を話し合うコーナー。避難当事者ではない学生が、実際に被災地を訪れて感じたことを赤裸々に話した。

(鈴木)…実際に現地に行ったことは強みになった。視察ツアーを通して分かったことを伝えていく責任があると思う。今後も双葉町の変化を見ていきたい―

(宮坂)…原発が作られる地域に皺寄せがいってしまう問題を知った。こういった社会的な問題を今後は自分ごととして捉えていきたい―

(佐藤)…被災の問題はいまだに残っている。「人がいないのに復興」とは何か。震災を過去のことと捉えたまま風化させてはいけないと思った―

 震災当時は小学生だった若者が、実際に現地に赴いたことで原発事故の問題をリアルに捉えることができた。

 

○「映画ではなく実際にあること」。原発避難は「若い世代に伝えるべき問題」

 第3部では、宇都宮大学で原発避難の問題に携わっている清水奈名子准教授をゲストにお呼びした。清水さんは震災当初から被災当事者の聞き取り調査を行なっている。話の中で特に印象的だったのが「原発事故により苦しむ人がいる現状は、映画ではなく実際にあること。若者はそのような暗い話を受け止める力がある」と言い、「若者と『何を大事にすべきか』を今後も一緒に考えていきたい」というメッセージ。臭いものに蓋をするのではなく、問題を真摯に捉えていくべきだ、と力強く語った。私自身、原発避難のことについて学校で学ぶ機会があまりなかった。この番組を担当して初めて知ったことが山ほどある。今後も真剣に学び考えを深め、同じ若い世代に伝えていきたい。(櫻井)

「絆」を崩した賠償金。本当の"思いやり"とは

○6回も繰り返した避難

 2月13日の「次世代に伝える。原発避難10年目ラジオ」では、福島県双葉町(ふたばまち)から栃木市に避難した榊原比呂志(さかきばらひろし)さんに話を伺った。

 榊原さんは、震災当時家族へのホワイトデーのプレゼントを買いに一人でショッピングに出かけていた。揺れは店内を見て回っているとき。次第に大きくなり、次々と倒れる商品や崩れかけている店の屋根を見て、「ただごとじゃないぞ」と思った。家族への電話もつながらず、慌てて帰宅した。普通は30分のところ、渋滞し4時間。

 家に着くと、そこに家族はいなかった。「おそらく避難したのだろう」と思い、近所の小学校に向かうと、道中には自暴自棄になり立ち尽くすおばあちゃんや、涙を流し子供を抱えたまま車を運転する人がいた。

 夜7時頃に双葉の避難所に到着。家族との再会に喜び、娘さんと一緒に涙を流したらしい。しかし、安心したのも束の間、避難区域がさらに拡大され翌日には双葉から離れることを余儀なくされた。そのため、福島市の実家に一時避難した。それから、4回にもわたって住居を転々とし、今は栃木市で居を構え家族と暮らしている。

 

○「賠償金をもらいやがって」。心ない言葉が行き交う避難生活

 全部で6回もの避難を繰り返す中で、様々な苦悩があった。おにぎりだけの生活が続き食料等の支援物資が欲しかった。とある避難所に訪れたところ「双葉町から来た人には物資は出しません」と言われた。住んでいた場所で、あっさり断られたことが悲しかったという。また、いわき市で入院していた病院から退院するときに、他の患者から「賠償金をもらいやがって」「早く双葉に帰れ」などと罵倒されたという。原発事故で元の生活が奪われたり、家族を亡くしたりした人、東京電力が支払う賠償金。それが妬みの対象にされる。そのため、榊原さんは栃木に来てしばらくの間、双葉町出身と知られないように生活していたという。

 

○「震災に関わらず、普段から相手の気持ちを受け入れてほしい」

 苦悩もあったが、人のあたたかさを感じる出来事もあった。避難初期の福島県内では、食べ物を調達するのに使う自動車のガソリンが不足していた。ある日、個人経営のリサイクルショップの店員から、自転車を1,000円で譲り受け、加えてパンもたくさんもらった。当時、5kgの米が5,000円にもなる状況であったため、かなり助かったという。「助け合うことが大事」「普段から相手の気持ちを受け入れること大切だ」と話す。

 最後に伝えたいことは「自然災害はいつどこで起きるかわからない」「他人事として捉えず、準備や心構えをしてほしい」と話した。災害が多発している今、私たち一人ひとりが意識するべきことがあると感じた。(櫻井)

とちぎ630で「原発避難10年目ラジオ」放送!動画必見

3/16放送 NHKとちぎ630「原発事故11年 避難住民が語るラジオ」の放送がインターネット上で見られます!

 

とちぎボランティアネットワークがミヤラジで放送している「原発避難11年目ラジオ」についてです。

11年目だから語れること…

ぜひご覧ください。

 

コメントおじさんの北村さんはがっつり話してますし、ラジオ学生の櫻井さんもチラ見できます。ファンは必見です!!

●動画はこちらから「とちぎ630ピックアップ」

https://www.nhk.or.jp/utsunomiya/index.html

原発避難ラジオ3時間SP

3月13日のみんながけっぷちラジオ特別編「次世代に伝える。原発避難10年目ラジオ」は、なんと3時間スペシャル!ゲストは、以前に出演された双葉町出身の榊原比呂志(さかきばらひろし)さんと、志賀仁(しがひとし)さん、そして宇都宮大学国際学部の先生、清水奈名子(しみずななこ)さんの3人です。原発避難に関する様々なことを根掘り葉掘り聞いちゃいます!ぜひご覧ください!

 

 

みんながけっぷちラジオ特別編「次世代に伝える。原発避難の11年目ラジオ」 企画案

<目的>

年齢、性、居住地、職業、価値観、経験等関係なく、さまざまな立場の人に福島原発事故について思うことや考えることを語ってもらう。それを聞いたラジオのリスナーが、福島原発事故の問題が未だ解決されていないことを知り、自分ごととして捉えることができるようにする。課題を解決するための糸口を櫻井、ゲスト、コメント学生、コメントおじさん、リスナーが共に模索していくための1時間ラジオ。

 

<内容>

 未だ解決されていない原発の問題や、ゲストの抱える悩み、それをリスナーが自分ごととして考えていかなければならない理由、課題解決のためのヒントや解決例など、様々なことついてゲストにインタビューをし、それをもとに話し合う。

 また、放送中や放送後にSNS等を利用しリスナーに向けてアンケート調査を取ったり、リスナーからのメッセージを募ったりする。それをもとに、より多角的で充実した話し合いができるようにする。リスナー参加型のラジオを目指す。

 

<時期・日程>

毎月第3日曜17-18時・ミヤラジ77.3FMで放送予定(2022年4月~2023年3月)

 

<誰とやりたいか>

放送で話していきたいトピックをあらかじめ定めた上でゲストを決める。(ex クリーンエネルギー、賠償金、震災関連死、原発事故対策のための立法がないということ、防災教育、復興、マスメディアのあり方)

 

*ゲスト候補   当時小中学生だった被災者、ふたば未来学園の校長、双葉町町長、NHK福島放送局に勤める人、福島県知事、富岡高校や双葉高校の当時の校長先生、原発避難について研究している福島大学の学生や教授、未だ福島県にとどまる被害者、県内外に自主避難した人、電力会社の人、原子力規制委員会の人、宮城テレビのアナウンサー、宇都宮大学教授、復興支援員etc

 

<世の中の何がよくなるか>

福島原発事故の問題について考えたり取り組んだりする人や団体が増える

・福島原発避難で苦しむ人が減る。

・今後また起こりうる原発事故を防ぐための法律などが制定される。

 

<実現へのハードル>

・ゲストへのインタビューを許可してもらえるかどうかが分からない。

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「自分から行動する。やれば必ずできるから」。原発避難に負けない思考法

○「何日間か泊まらせてほしい」。避難家族も泊めた

1月9日の「原発避難10年目ラジオ」では、 福島県川内(かわうち)村から栃木市に避難した遠藤雄子 (えんどう ゆうこ)さんからお話を聞いた。

 その日、遠藤さんは畑に植えていた木の枝の刈り取りをしていた。すると途端に、木の枝に積もっていた雪がポタポタと落ちはじめたことに気づく。「何かがおかしいな」と感じた瞬間、100m先に見えていた自宅が、壊れてしまうのではないかと思う程に大きく揺れているのが分かった。家に帰りテレビをつけると、信じられない程に大きな津波が海沿いの街を襲っていた。

 何もかもが混乱状態のまま迎えた翌朝、家の前の一本道が、避難所に向かう多くの車で渋滞していた。水をください」、「トイレを貸してください」と言って家に訪れる人が何人もいた。なかには、「何日間か泊まらせてほしい」と言われ、家族全員を泊めたこともあった。食材や布団、こたつなどを用意し、手厚くもてなした。遠藤さんの底知れないあたたかさに心を打たれた。

 

○「避難で落ちぶれる」間もなく、次々と挑戦!

 原発事故が発生し川内村も避難を余儀なくされ、栃木市にある旦那さんの親戚の家に避難した。新しい土地での生活が始まってまもない3月26日、遠藤さんは散歩中に偶然通りかかった野菜直売所で、アルバイトを始めた。「こういう所って働けるのですか」と従業員に直談判した。さらにその後、ホームヘルパーの2級免許を取得しようと専門学校に通ったという。地元を離れ元の生活を手放し大変な状況にもかかわらず、さまざまなことに挑戦し続ける遠藤さんの打たれ強さと活力に非常に驚いた。

 

○役場避難所にTシャツ100枚寄付。「自分より他の人の方が辛いだろう」と。

 マラソンが大好きだった遠藤さん夫婦は多くのマラソンイベントに参加していた。貰ったマラソン用のTシャツが100枚近くもあり、その全てを川内村の仮設役場に寄贈した。当時、衣服が十分になく困っている被災者がたくさんいたのだ。なぜ寄付しようと思ったのかと尋ねると、「自分より他の人の方が辛いだろう」と感じたからという。自主避難を強いられた遠藤さん自身も辛い状況であったと思うが、そんな中でも「人のために行動しよう」と思い立った遠藤さんの優しさに感動した。

 

○「自分から行動することが大事」。「幸せは自分に帰ってくる」

 最後にラジオを通して伝えたいことを尋ねると「自分から行動することが大事」、「ゆっくりで良いから、できることを精一杯努力する。やれば必ずできるから」と話していた。大変な状況であっても、誰かの支援を待つだけではなく、自分からさまざまなことに取り組んだ遠藤さんの力強いメッセージであった。また、「避難当時は自分が支えられる立場だったが、今は自分が支えたい。幸せは自分に返ってくる」と話していた。原発避難で困っている人は、11年経った今でもたくさんいる。そんな人がゼロになるまで、精一杯できることをしていきたいと思った。(櫻井)

「人間は一人では生きていけないから、世話になった恩をまた違う人に返して欲しい」

○200km先から、助けに来てくれた人

 11月14日の「原発避難10年目ラジオ」では、 福島県富岡町から小山市に避難した磯村福治(いそむらふくはる)さんからお話を聞いた。

 磯村さんは当時、福島原発のメンテナンスを主に行う建設業の仕事をしていた。そのため、震災が起こった3月11日、通信状況が悪いなか全国各地の発電所と連絡を取り社員全員の安否確認を行なっていた。何もかもが混乱状態であった日の翌朝、散らかった家の中を整理していると、近所の住民が誰もいないことに気づく。当時、富岡町に避難勧告が出されていたことに気づかなかった磯村さんとその奥さんは、慌てて隣村の川内村の公民館に避難した。

 公民館で窮屈な生活を送りながら、今後どうすれば良いのかが分からず途方に暮れていたところ、3日後に川内村の地区も避難勧告を受けてしまった。そこで、磯村さんは当時小山市に住んでいた娘さん夫婦の家に一時避難しようと考えた。しかし、そのとき既に車のガソリン量は底をついており、近くのどのガソリンスタンドも営業しておらず「小山市まで移動することはできない」と思った。ところが、当時磯村さんがしていた営業の顧客の一人が、新潟県から川内村までガソリンを持ってきてくれた。そのおかげで、無事小山市に行くことができたという。人の限りない温かさを感じたエピソードであった。

 

○「一人10万円給付して」と社長に直談判。原発避難当事者だからできたこと

 小山市に移動した翌日、磯村さんは原発事故当時の経緯を報告しに、東京にある本社を訪ねた。その時、磯村さんは社長に対し「社員一人ひとりに10万円の給付金を渡して欲しい。さらに、協力会社にもいくらかの給付金を届けて欲しい」と伝えた。磯村さんは、当時お金に困っているだろうと考えた社員たちのことを想って、自らの仕事上の立場を顧みず給付金の要請をした。磯村さんはこのことを振り返り「自分が避難者だから、何が問題で、何をして欲しかったかが分かった」と話していた。自分自身も避難をして大変な状況であったのにもかかわらず、人のために行動をした磯村さんの強さと優しさに心を打たれた。

 

○「苦しむ人がゼロになるまで」…原発は10年で終わってない

 最後にラジオを通して伝えたいことは何かと尋ねると「人間は一人では生きていけないから、世話になった恩をまた違う人に返して欲しい」と話していた。新潟からガソリンを持ってきてくれた人の恩を社員の人たちに返した磯村さん。作られた言葉ではなく、心から出てきた言葉であったため、私の心にずっしりと響いた。また、「人のために動くことは気持ちが良い」、「苦労している最後の1人でも2人でも助けようとすること、10年経っても20年経っても助けようとすることが大切だ」と話していた。原発避難の問題は未だに消えていない。苦しむ人がゼロになるまで、どんなに時間がかかっても戦い続けなければならないと思った。(櫻井)

 

今回のラジオはYoutubeにも載っています!ぜひ聞いてみてください!

リンク↓

https://www.youtube.com/watch?v=aBp4_kHcY00

「避難先での暮らしは、生活が再建されているようで、実は心と身体が別々」。まだ終わっていない震災

放送5回目となった10月10日の「次世代に伝える。原発避難10年目ラジオ」これまでは”被災者”をゲストに迎えていたが、今回は “支援者”である山本悦子さんと澤上幸子さんの2人からお話を聞いた。 

◆ ◆ ◆

 山本さんは小山市にあるCafe Fujiのオーナー。原発事故後に南相馬市を訪れ、その現状に衝撃を受けたという。これをきっかけに支援活動を始めた。活動は大きく分けて4つ。

 まず、『3.11ふくしまそうまの子どもの描くたいせつな絵展』プロジェクト。相馬市立中村第二小学校の生徒(当時3年生)に描いてもらった絵を小山市内22か所で展示した。中村第二小は山本さんが原発後初めて福島を訪れた小学校だ。2つめは「おはなしとオカリナのしらべ」。オカリナ演奏をB G Mに中村第二小の校長だった佐藤史生さんのお話を聞く講演会だ。3つめは「版画家 蟹江杏さんチャリティー版画展」。最後は「東日本大震災遺児募金への寄付」である。これは、山本さんが経営するギャラリーAiでバザーをし、知人手作の布ぞうりを販売、遺児へのお金を募った。ラジオでは特に『3.11ふくしまそうまの子どもの描くたいせつな絵展』の話を聞いた。

 

被災しなかった人に向けての支援活動

 展示会で得られた効果は2つある。まず、展示された絵を見ることで被災していない人に震災を知ってもらえること。子供が描く絵はとても素直で見た人に真っ直ぐ訴えかけてくる。心動かされる。もう1つは、絵を描くことで子供たちの心に安らぎをもたらすこと。実際に子供たちに描いていた時の気持ちを尋ねてみると、「津波の怖さを伝えたかった」「胸にしまっていた海や津波の絵を描きスッキリした」と、誰かに自分の見たもの・感じたことを伝えたい、吐露したいといった率直な思いがあったという。しかし、いくら子供たちに絵を描いてもらい展示会をしても、被災しなかった人が見向きもしなかったら意味がない。知り、そこで足を運ぶ人がいること。私たちが周囲に関心を持ち、実際に行動する力が求められているのだ。実際に現地へ行けば、山本さんと同じように支援活動を行う人も少なくないはずだ。現地ではない場所からの支援活動は、災害を様々な人に認知してもらうきっかけづくりにもなる。

◆ ◆ ◆

 番組の最中、電話でインタビューした澤上幸子さんは北村さんの元同僚。当時双葉町の社会福祉協議会に勤めていた。原発事故後1週間経たずして故郷の愛媛へ避難し、現在はN P O法人「えひめ311」の事務局長だ。活動は「避難者(愛媛県+四国全域)の相談窓口・情報提供」、「避難者の交流の場」、「愛媛特産の柑橘類等の販売や、放射能の心配をせずリフレッシュできるような保養支援」の3つの被災者支援活動である。「避難者の交流の場」に関しては、近年コロナの影響で交流は激減したが、今でも電話、Zoom、手紙などで交流は途絶えないよう活動している。

 

●あえての「何気ない日常的な会話」が、心に安らぎをもたらす

 支援活動で大切にしていることは、『一人一人の心に寄り添い、共に課題を解決していく』という思いである。四国に避難している人自体少ないため、地域に馴染めず孤独を感じてしまう人もいる。そこで、当事者同士でしかできない震災の話だけでなく、何気ない日常会話などを通じて誰も孤立をしないような支援を心がけているという。これを生かし、地元で起きた2018年の西日本豪雨(ダム決壊などの甚大な被害が出た)では、避難所でカフェを開くなどの支援を行った。避難所だと、特に高齢者や子どもは段ボールの仕切りの中だけでの生活となりストレスを感じる。そこで、日中避難所にいる人がカフェでお話やお茶をしたり、マッサージをし合うなど、一息ついたり交流のできる場を作ることができた。このように、被災者が心に安らぎを持つために“交流”の場が要ると考えられたのは、実際の被災経験と、えひめ311で交流の場の必要性を認識していたからだろう。

 しかし、実際に直接被災者支援となると、意外と勇気がいると感じる人も多いのではないか。これを澤上さんに聞くと「被災者と話すことを恐れなくて良い」、という。人によって聞きたくない言葉やトラウマは誰にもわからないし、たとえ傷つけてしまってもそれを糧に学べば良いからである。そして、「被災者を触れてはいけない人のように扱わない」。被災者も一人の人間であり、色眼鏡を通して見られるがおかしいのは当然である。「自分が声をかけてほしい時に声をかけてもらえなかったら…?」と想像すると、距離を置かずに話しかけられる。あとは、いきなり大丈夫?と心配されるより、天気などの何気ない会話から始まる方が居心地良く話すことができるという。被災地は非日常的で、落ち着くことができない環境。だから、震災前の日常会話が日常を取り戻すきっかけになる。

 

●「したい生活がしたい場所でできるようになるまで、復興は続く」

「福島(故郷)に帰っての生活こそが本当の再建であり、したい生活がしたい場所でできるようになるまで復興は続く」と澤上さん。

 避難先での生活は、生活が再建されているようで、実は心と身体が別々であり、まだ生活再建に翻弄されていると言う。震災当時私(=小浜)は小学生で何もできなかったが、今からでも東日本大震災の復興支援をすることは遅くないのかもしれない。今後災害が起きたらどう動くか考えるとともに、被災し今も震災を忘れていない人たちへ自分にできることを何か行動を起こしたい。(小浜)

10/10 がけっぷちラジオ特番「次世代に伝える。原発避難10年目ラジオ」

本日10/10(日)11:00~12:00にて

がけっぷちラジオ特番「次世代に伝える。原発避難10年目ラジオ」

を放送します。

 

今までは東日本大震災の”被災者”をゲストにお呼びして放送していた当番組。第5回目となる今回は、実際に福島を訪れたことをきっかけに支援活動を始めた山本さんをスタジオに迎え、自身が福島で被災した後、避難した先の愛媛で支援活動を行なっている澤上さんと電話を繋ぎます。

 

「日本のどこかで今災害が起こったとしたら、あなたはどんな行動を取ることができますか?」

「本当の復興・生活の再建はまだまだ先?」

東日本大地震後に直ちに行動を起こしたお二人と、コメントおじさんの北村さんと一緒に、第1〜4回とは違った”支援者”の視点から東日本大震災を振り返ります。(コハマ)

 

・ミヤラジ FM77.3

 https://fmplapla.com/miyaradi/

※スマホ・パソコンから全国どこからでも聞けます。ミヤラジ で検索

※ご意見・感想は放送中にもお待ちしてます。

 

 

 

避難、避難、また避難…。「知的障害者施設ごと避難」の悲惨な事実

◇7人で50人の知的障害者の介助。応援なし、連絡手段な

 

 9/12(日)のみんながけっぷちラジオ特番「次世代に伝える。原発避難者10年目ラジオ」では、当時知的障害者の福祉施設の施設長をしていた石黒さんにお話を伺った。

 震災が起きたとき石黒さんは50人名の利用者がを建物内に避難させていた。ちょうど入浴時間だった。長い時間の揺れで建物内のロッカーは全て倒れ、その後も余震が続いた。施設長である石黒さんとしては「部屋の中にいるべきか、外にいるべきか」を一瞬で判断しないといけない。最終的には農場のビニールハウスに避難。余震はずっと続き、寒いので暗闇のなか食堂に避難し、そのまま施設内で次の日を迎えた。厨房の職員さんが炊き出しを行ってくれたそうだ。交代勤務で、もともと少ない人数(6、7人)で対応していたが、その時施設にいなかった職員を呼ぼうにも、道路の陥没もあり、や停電でそもそも連絡手段が経たれてしまっている中、応援を呼べる状況ではなかった。

「町からの避難指示が出た」。翌日いった避難所には、石黒さんの勤務するが運営する他の施設の利用者も含め、180名を人がいたが、何往復もして、次の2次避難所に車で避難させなければならなかった。道も渋滞していたため、ただ避難所に向かうだけでも6時間、普段の4倍程度の、かかったとのこと。やっと第2次避難を終えたとき、原発が爆発する音が聞こえた。を耳にした。その時は何の音かわからなかったが、後からテレビで映像を見た石黒さんは、「原発は安全だ』、と言われ続け信じてきたが、ここまでの惨状になるとは思わなかった」と言う。っていた。

 

◇40人定員に180人が避難所に。雑魚寝、寝返りも打てない苦しい暮らし

 

 原発の影響で、その後も長らく避難は続く。次に向かったのは地域住民も避難している小学校だった。しかし、自閉症の人はを持つ人たちにとって環境の変化に適応することは簡単ではできない。夜、奇声を発して歩き回る。劣悪な生活環境の中、地域住民からも「迷惑だ、静かにさせろ」など苦情も絶えないかった。石黒さんは「このままこの小学校にはいられない」と、さらに別の避難所に行った。定員40人名の面積の施設だが、そこに180人が住んだ。名を移動がさせた。地域住民に迷惑をかけないための仕方ない選択だった。そこではの施設で石黒さんや利用者の方たちは、雑魚寝をすると歩く場所も無くなり、寝返りも打てなくなるような広さで、日々夜を迎える。薬がなくて利用者の1人が、てんかんの重責発作(てんかん発作が連続して起きること。意識不明や呼吸困難になる)を起こして亡くなってしまったこともあった。避難所の悲惨さが生々しく伝わってくる話である。

 

◇全国からの応援で「千葉・鴨川」に施設ごと避難。命びろいした。

 

 そんな中、毎日新聞社の記者が来訪し避難所の現実を記事にしてくれた。そして記事を見た千葉県鴨川市の医療関係者方が「鴨川青年の家」へのという避難の誘いがあり、所を提案し、石黒さんや利用者の方たちはやっと場所に余裕のある避難所に移ることができた。出来た。

「1つの記事からみんなが救われた」。石黒さんは、「非常な事態だからこそより一層人の温かみを感じることができた出来た」と言う。っていた。

 

「通所・在宅の知的障害者と家族の避難はやってやれなかった」と悔やむ石黒さん。福祉施設の原発避難は、ほとんどの人が全く知らない悲惨な事実であったろう。「鴨川に移らなかったらどうなっていたかわからない」と言う言葉が心に残った。 (たなか) 

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「人目を気にして黙るか、仲間を探すため声を上げるか」―自主避難者のジレンマ

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被災者になった時、「知ってるのと知らないのは雲泥の差!」

ロウソク片手に住民の安否確認

「次世代に伝える 原発避難10年目ラジオ」 2回目。7月11日(日)のゲストは茨城県結城市在住の三浦秀一さん(69歳)。福島第一原発事故発生当時は南相馬市小高区浦尻地区(原発から10.1㎞の漁村)で米農家を営んでいた。

東日本大震災発生の時(2011/3/11  14:46)、三浦さんは銀行にいた。頭をよぎったのは同居の目が見えない母親のこと。すぐに車で自宅に戻ったが、途中の橋が落ちていて迂回を余儀なくされ普段は20分で帰れるところを1時間以上かかりたどり着いた。母は無事だった。

 地域(自治会)で庶務を担当していた三浦さんは住民の名簿を持っていたため近隣住民の安否確認を始めた。20時頃までロウソクを片手に歩き回った。「翌朝8時から(津波の)行方不明者の捜索をしよう」と解散したがそれは叶わなかった。「福島原発で事故が発生した可能性がある」との報せが入ったのだ。

 

●「ガソリン満タンだった」自分は運が良かった

家は、福島第一原発から10.1kmの地点。避難する必要があると判断し、親戚のいる千葉県習志野市に自主避難をした後に、現住所の結城市に落ち着いた。

三浦さんは「自分は運が良かった」と繰り返した。事故発生当時、車のガソリンが満タンだったこと、たまたま放射線汚染が広がった方向とは逆方向に親戚がいたこと、2010年11月に海岸のそばから少し内陸部に引っ越していたこと、などだ。

 

●「いつどんなタイミングで自分が被災者になるかわからない」

 三浦さんに次世代に伝えたいことは何かと尋ねた。「いつどんなタイミングで自分が被災者になるかわからない。何事も詳しく知っておくことが必要だ」との返答だった。このブログを目にした皆さんには「福島第一原子力発電所事故」で検索して欲しい。私も事故の概要は知っていたが事細かには把握していなかった。

 被災者という立場になった時にどのような立ち振る舞いができるか。それは自身にある知識や経験に左右される。今回の取材・放送を通じて、日頃から有事に備えて知識を増やしておくことが大切だと感じた。(伊東)

 

次回の「次世代に伝える原発避難10年目ラジオ」は8月8日(日)11:00~12:00の放送です!お楽しみに!

〇メールは 773@miyaradi.com まで

〇リスナーの皆さんのご意見・ご感想、お待ちしております!

〇ミヤラジ(77.3FM) 「みんながけっぷちラジオ」

〇日曜11:00~12:00 オンエア!

原発避難者が若者に伝えること・・「万が一の時を想像して」「優しさ持って」

 今から10年前の2011年。東日本大震災による福島第一原子力発電所の事故の影響で、故郷での生活を手放さざるを得なかった人は、9万7140人。うち福島県外に出た人は4万2959人になる。原発避難者10年目ラジオ 6月のゲスト志賀仁(ひとし)さんは原発のある双葉町(ふたばまち)から避難を強いられた。やるせない気持ちでいっぱいだったが、避難のなかで、人の優しさやありがたさに助けられる瞬間がいくつもあったという。

 

○避難先のおばあちゃんたちの手作りおにぎり

 震災2日目(3/12)の夜、15㎞先の浪江町津島地区まで渋滞で数時間かけて避難した志賀さん。近所のスーパーの棚にはお菓子がわずか2、3袋だけ。前日からまともに食べていない志賀さん家族6人は「空腹を抱えて、お菓子だけの夕飯だった」という。

 車中泊で目覚めた翌朝、近所でおばあちゃんたちが沿岸部からの避難者のためにおにぎりを握ってくれていた。「本当にありがたかった」と志賀さんはいう。「…しかし」とつけ加えて、「後でこの津島地区も放射線量が高く避難指示地区になった」と志賀さん。「あそこは、双葉町と同じく今も帰還困難地区だよ。あのおばあちゃんたちは今頃どこにどうしているんだろうね…」と。

 

○「もしよかったら、家のお風呂使って」

 3月14日から18日までの5日間、志賀さん一家は、福島県浪江町(なみえまち)の避難所で一時避難していた。3月上旬。寒さが残る避難所ではストーブが2つしかない。不自由な避難所生活に苛まれるなか、仕事先のお客さんが避難所に志賀さんを訪ねてきてくれた。「もしよかったら、私の家に来て、お風呂使ってください」と。翌日6人で訪ねてると、昼間は勤めに出ているので「書き置き」があり、お風呂、衣服、食べ物、ご自由に、と書いてあった。「ありがたい申し出に感謝しかない」と志賀さん。

 私(櫻井)は「お客さんは仕事上での関係だけ」というイメージがあったが、いざという時には立場は関係なく人を助けようと思える姿勢がすごいと思った。

 

○「いわきナンバー」を察して、ガソリン満タンにしてくれたお兄さん

 避難所生活の最中に、宇都宮の義理の妹が「うちのアパートに来ない?」と連絡をくれた。志賀さん家族は3/18の夜に川俣所から宇都宮に向かった。

 栃木県に入るとガソリンがなくなってきた。途中のガソリンスタンド(GS)はどこも長蛇の列。しかも1台10ℓしか入れてくれない。そうやって何度も給油して福島から一般道国道4号線を150㎞来た。宇都宮のとあるGSで、若い男性店員が車の「いわきナンバー」を見て、志賀さんたちが福島から避難してきたことを察知し、ガソリンを満タンにしてくれた。「すごく助かった」と話す。

 

○若い世代に伝えたいこと・・・「未だに苦しんでいる人はごまんといるよ」

 志賀さんに震災当時を振り返って「私のような若者に、ズバリ伝えたいことは何ですか」と聞いた。

「万が一、自分が困った時のことを想像して優しさを持って人と接してほしい。必ずその報いが返ってくるから」と話していた。「10年の時が経って、原発避難の問題はメディアでも取り上げられなくなったよね。しかし、未だに苦しんでいる人はごまんといるよ」と。

 そのことを知ったうえで、私たちのような若者が原発避難の問題にもう一度正面から向き合い、「優しさを持って人と接する」姿勢を持つことで、「解決されないまま足踏みしている今の状況」から一歩ずつ前に進むことができるのかなと思った。(櫻井)

今日(7/11) 11時から「原発避難10年目ラジオ」。ミヤラジ検索で聞けます。

 今日、11時から、みんながけっぷちラジオ特番「次世代につたえる。原発避難10年目ラジオ」をやってます。

 今日は、茨城県・結城市に住んでいる三浦さん。南相馬市小高に住んでいて自分の地区の半分は津波が来たという。家には全盲の母はいて、すぐに車で避難したが…。

 津波と原発避難の2重の災害のことなどを話します。

ラジオ社会人伊東とコーディネーター北村が話しを聞きます。

・7/11(日)11:00~12:00

・ミヤラジ FM77.3

 https://fmplapla.com/miyaradi/

※スマホ・パソコンから全国どこからでも聞けます。ミヤラジ で検索

※ご意見・感想も放送中にも受け付けます。

6/13、AM11-12時「次世代に伝える。原発避難10年目ラジオ」 毎月第2日曜に実施!

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明日3/7 13-16時「福島・原発避難10年目ラジオ」。3人の避難者と3人のラジオ学生が、次世代に伝えます!

東日本大震災から10年、原発避難から10年です。今栃木には2700人の原発避難者がいます。人災である原発事故。避難者3人のラジオをやります。テーマは「次世代につたえる福島・原発避難の10年」

●3/7日曜13-16時

・13時台:小暮さん+ラジオ社会人・伊東、・14時台:佐々木さん+ラジオ学生・田中、・15時台:北村さん+ラジオ学生・佐藤の6人とコメントおじさん矢野&宮ラジ小林あやかさんです。

 

PC・スマホでも聞けます⇒ https://fmplapla.com/miyaradi/

 

次世代に伝える教訓:①原発は人災、②きずなを大切に

 今回のゲストは福島県からの原発避難者である中山千代吉さん。東日本大震災当時の福島の様子と避難生活についての話を聞きました。

 

♦車が止められない!水も足りない!生活が変わる瞬間

 中山さんは福島県富岡町、原発から10km圏内の町に住んでいた。3/11の地震発生当時は自宅隣の下宿(工事業者用の宿泊施設を自営)で、家具が倒れないように抑えながら窓の外を見ていた。車が地震で激しく揺れる様子が見えた。翌朝見ると庭の土がこんもりと盛り上がり車が駐車できないほどで、地震の強烈さを感じた。12日、役場には水を求め多くの人が集まっていた。中山さんも2ℓのペットボトルを5本持って行ったが、もらえたのは3本。役場から帰宅しペットボトルを家に入れようとしていたころ、防災無線で「直ちに避難を」と指示を聞いた。

 

♦混乱する情報・避難指示。避難所を転々とする日々
 中山さんは「近くの温泉施設に避難用のバスが来る」というのでそこへ行ったが、いつになってもバスが来ない。夕方になるので車で避難しようと奥さんと息子さんの3人で川内村の避難場所に出発。普段なら30分だが渋滞で1時間半もかかった。やっと着いた先で言われた言葉は「車がいっぱいでここへは入れない」だった。しかしこちらも役場からの指示で来たと説明し、何とか混乱する避難所に入り、大人数で雑魚寝した。

 翌13日、福島の娘さんと連絡がとれ3人で向かう。道中のコンビニには食料品は一切なかった。棚に残っていた缶ビールを買い、1本飲んだところで「原発が爆発した」という情報を知った。娘と合流した後、新潟に逃げる途中、ガソリンの切れた車が何台も、そこら中に止まっていた。幸い中山さんの車はガソリンがたくさん入っていたため、新潟市までたどり着けきた。

 原発避難で福島市・新潟市、さらに東京にまで移動して避難生活を送ってきた中山さん。3年前に小山に来た。各地での避難設備の違いと、これからの災害に対する向き合い方について話を伺った。

  

♦「冷たい床」の避難所と「マット一枚敷いてある」避難所

 様々な避難場所を経験してきた中山さん。冷たく固い床で寝なければならない過酷な環境の福島県内の避難所。一方で温かい食べ物や毛布もあった新潟。避難所の対応の違いは、たぶん過去の被災経験の違だろうという。新潟は過去「中越地震」「中越沖地震」、毎年の水害と被災者受け入れ、避難所運営の経験があって準備がしっかりしていたとのこと。寝るときにも冷たい床ではなく、柔道用の畳が一枚あるだけでもありがたいものだと中山さんは言う。

 災害が多い日本では避難場所を確保しないといけない。そして場所があるだけではなく、中身(運用)を充実させることが必要で、それがこれからの災害に対する向き合い方の1つであるのだなと、私=田中は思いました。

 

2つの教訓「原発被害は人災である」「人との絆を大切に」

 中山さんが自身の経験を通して若者に伝えたかったことは2つ。

 1つ目は「原発の被害は人災である」ということ。避難場所の設備だけではなく、原発避難・補償に対しての対応も各町で違っている。前々から地震が来るとわかっているのであれば、原発に対してきちんと対策を練らなければならない。「地震は来ないから原発は安全」という安全神話の宣伝ではなく、避難者への具体的な制度・支援策、避難生活の苦痛・苦労を抑えるための努力が必要だ。

 2つ目は、人との絆を大切にしてほしいということ。コロナ禍で友人との交流が減り、横のつながりの大切さを痛感した中山さん。若者にありがちなSNSだけでのつながりではなく、お互いの顔を知り助け合える仲間の存在は必要である。

◆ ◆ ◆

 私は今回の話を聞き、これからの日本の在り方について考えをめぐらすことができました。未来を作っていく若者に対して、避難施設がどのようにあるべきかを伝えていきます。よい未来は「知る」ことで作られるということを強く感じました。(たなか)