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原発避難者が若者に伝えること・・「万が一の時を想像して」「優しさ持って」

 今から10年前の2011年。東日本大震災による福島第一原子力発電所の事故の影響で、故郷での生活を手放さざるを得なかった人は、9万7140人。うち福島県外に出た人は4万2959人になる。原発避難者10年目ラジオ 6月のゲスト志賀仁(ひとし)さんは原発のある双葉町(ふたばまち)から避難を強いられた。やるせない気持ちでいっぱいだったが、避難のなかで、人の優しさやありがたさに助けられる瞬間がいくつもあったという。

 

○避難先のおばあちゃんたちの手作りおにぎり

 震災2日目(3/12)の夜、15㎞先の浪江町津島地区まで渋滞で数時間かけて避難した志賀さん。近所のスーパーの棚にはお菓子がわずか2、3袋だけ。前日からまともに食べていない志賀さん家族6人は「空腹を抱えて、お菓子だけの夕飯だった」という。

 車中泊で目覚めた翌朝、近所でおばあちゃんたちが沿岸部からの避難者のためにおにぎりを握ってくれていた。「本当にありがたかった」と志賀さんはいう。「…しかし」とつけ加えて、「後でこの津島地区も放射線量が高く避難指示地区になった」と志賀さん。「あそこは、双葉町と同じく今も帰還困難地区だよ。あのおばあちゃんたちは今頃どこにどうしているんだろうね…」と。

 

○「もしよかったら、家のお風呂使って」

 3月14日から18日までの5日間、志賀さん一家は、福島県浪江町(なみえまち)の避難所で一時避難していた。3月上旬。寒さが残る避難所ではストーブが2つしかない。不自由な避難所生活に苛まれるなか、仕事先のお客さんが避難所に志賀さんを訪ねてきてくれた。「もしよかったら、私の家に来て、お風呂使ってください」と。翌日6人で訪ねてると、昼間は勤めに出ているので「書き置き」があり、お風呂、衣服、食べ物、ご自由に、と書いてあった。「ありがたい申し出に感謝しかない」と志賀さん。

 私(櫻井)は「お客さんは仕事上での関係だけ」というイメージがあったが、いざという時には立場は関係なく人を助けようと思える姿勢がすごいと思った。

 

○「いわきナンバー」を察して、ガソリン満タンにしてくれたお兄さん

 避難所生活の最中に、宇都宮の義理の妹が「うちのアパートに来ない?」と連絡をくれた。志賀さん家族は3/18の夜に川俣所から宇都宮に向かった。

 栃木県に入るとガソリンがなくなってきた。途中のガソリンスタンド(GS)はどこも長蛇の列。しかも1台10ℓしか入れてくれない。そうやって何度も給油して福島から一般道国道4号線を150㎞来た。宇都宮のとあるGSで、若い男性店員が車の「いわきナンバー」を見て、志賀さんたちが福島から避難してきたことを察知し、ガソリンを満タンにしてくれた。「すごく助かった」と話す。

 

○若い世代に伝えたいこと・・・「未だに苦しんでいる人はごまんといるよ」

 志賀さんに震災当時を振り返って「私のような若者に、ズバリ伝えたいことは何ですか」と聞いた。

「万が一、自分が困った時のことを想像して優しさを持って人と接してほしい。必ずその報いが返ってくるから」と話していた。「10年の時が経って、原発避難の問題はメディアでも取り上げられなくなったよね。しかし、未だに苦しんでいる人はごまんといるよ」と。

 そのことを知ったうえで、私たちのような若者が原発避難の問題にもう一度正面から向き合い、「優しさを持って人と接する」姿勢を持つことで、「解決されないまま足踏みしている今の状況」から一歩ずつ前に進むことができるのかなと思った。(櫻井)