○デイサービス職員。高齢者とともに避難
7月17日の「次世代に伝える。原発避難11年目ラジオ」では、福島県双葉町出身で現在は小山市に住んでいる北村雅(きたむら・ただし)さんに話を聞いた。
東日本大震災当時、双葉町の社会福祉協議会職員だった北村さんは、デイサービスセンターで働いていた。利用者と触れ合い充実した生活を送っていた矢先、3月11日に突然の大地震が襲いかかった。北村さんは、その時のことを振り返り「割れたガラスが突き刺さって死ぬんだと思った」という。
何もかもが混乱した状況の最中、その日は多くの利用者や従業員が帰れなかったため、施設内で一晩を過ごした。北村さんは、利用者が不安にならないように、ニュースで見聞きした情報をむやみに伝えず、ただひたすら寄り添っていたという。北村さん自身も不安だったはずだが、他人を想って行動していたことに感動した。
翌日12日に福島第一原発が爆発し、社協職員として高齢者連れの避難が始まる。13日から19日頃までは、双葉から60kmほど離れた川俣町の体育館に避難した。しかし、その後も安心して休むことはなく、郡山市の特別支援学校で避難者の支援をする日々。また、奥さんは別の避難所にいたため、しばらく再会することができなかったという。大切な人と突然会えなくなるのは非常に切ないだろうと思った。
20日からは、埼玉県へ双葉町民の一斉避難が始まった。さいたまスーパーアリーナや加須市の県立騎西高校などが避難所となり、大勢の町民がそこで暮らした。その間北村さんは、小山に住んでいた息子の元に行き、4月2日に家族と再会。その後、平日は埼玉で避難者支援、週末には小山に帰り家族と過ごす生活を送った。
○「解決していていないことは、たくさんある。話し合いが大事」
翌年1月には、いわき市に建設された仮設住宅で3年2ヶ月もの間、単身赴任で避難者支援の仕事をした。避難者と親しみ合い充実した生活を送っていたが、避難者間の分断が窺える場面もあったという。「仕事がある人」や「家族と住めるようになった人」、「家が残っている人」を妬む避難者もいた。それが原因で「その話題は触れないでおこう」という雰囲気が生まれ、次第に自分自身のことを話す人が少なくなっていった。
また、いわきの学校に転校してきた子どもが、他の生徒から「お前んち、賠償金貰っているだろ」と揶揄され、いじめを受けたこともあった。そんな人間同士の傷つけ合いがある現実を知り、胸が痛くなった。
次世代に伝えたいことは何かと聞くと「同じ方向をみんなが向けたら良いなと思う。解決していないことはまだたくさんある。だから話し合っていくことが大事だ」と話した。「自分がその人の立場だったら」と想像して寄り添うことこそが本当の復興につながる第一歩なのではないか、と感じた。(櫻井)