「自分事であるはずの原発」。だけど他人事。忘れてほしい人たちがいる?

 今回は埼玉県在住のフリーライター吉田千亜さんをゲストにお迎えした。吉田さんは原発事故で避難してきた人(特に自主避難者)の声をきっかけに、「原発事故とは何だったのか」を追求している。

 

l  「危機感」と「申し訳なさ」が取材の動機

 吉田さんが取材を始めたきっかけは大きく2つだ。1つ目は「危機感」である。福島県と埼玉県では距離があるように感じるが、事故当時は「東日本は全部だめ、住めない」と言われていたという。「今は、それを忘れている」と吉田さん。私はこれを聞いて、原発事故を自分事としてとらえる姿勢が今の日本人に足りないものだと感じた。だから原発再稼働への危機感も薄いのだなと思った。

 2つ目は「申し訳なさ」である。原発事故はその時だけの問題ではなく、次世代にまで影響を及ぼすもので、50年前の「エネルギーへの欲望」が次世代に負担をかける結果を生んでしまったことへの申し訳なさを吉田さんは語っていた。

 

l  無関心が起こす「人のいない地域の復興」と国の思惑

 吉田さんの話を聞いて驚いたのは、「原発事故は単なる事故ではない」という点である。「復興」の場面でも、もっと複雑な要素が絡まりあっているという。

 福島県の太平洋沿岸は「浜通り」と呼ばれるが、浜通りでは現在「イノベーション・コースト構想」が行われている。政府の政策で、浜通りを「新たな産業基盤の構築を目指して、廃炉、ロボット、エネルギー、農林水産等の分野におけるプロジェクトの具体化を進める」場所にするという。

 そこで吉田さんは「浜通りの復興」についての関係法令、実施計画、政府答弁などの文献を全て調べた。「復興という都合の良い言葉を盾に、人がいないことを利用して政府にとって便利な土地として利用していると吉田さんは指摘する。「新型原子炉とか、ミサイルとか、ドローンとか、軍事研究をしても分からないですよね」とコメントおじさん(矢野さん)も言う。原発事故は政治も絡むような問題であったのだ。私はこの事実に驚くと同時に、その事実に気付けない現実に悔しさを覚えた。政府任せにするのではなく、意識を高く持つことが我々国民の責任なのだ。「日本の復興は、地面の復興であって、避難した人の人生の立て直しではない」という矢野さんの指摘ももっともだと思った。

 

l  「自分事として」身近な人と原発避難の話をする。

 若者に求めるものとして吉田さんは「話をすること」という。「原発事故という明らかに重い話を身近な人とする機会は少ないかもしれないが、身の回りから伝えていくことが多くの人に知ってもらうためのバトンになる」という。

 

 たしかに、「自分にも関係がある」という意識を身近な人と持つことが重要だと思った。(吉田)