「絆」を崩した賠償金。本当の"思いやり"とは

○6回も繰り返した避難

 2月13日の「次世代に伝える。原発避難10年目ラジオ」では、福島県双葉町(ふたばまち)から栃木市に避難した榊原比呂志(さかきばらひろし)さんに話を伺った。

 榊原さんは、震災当時家族へのホワイトデーのプレゼントを買いに一人でショッピングに出かけていた。揺れは店内を見て回っているとき。次第に大きくなり、次々と倒れる商品や崩れかけている店の屋根を見て、「ただごとじゃないぞ」と思った。家族への電話もつながらず、慌てて帰宅した。普通は30分のところ、渋滞し4時間。

 家に着くと、そこに家族はいなかった。「おそらく避難したのだろう」と思い、近所の小学校に向かうと、道中には自暴自棄になり立ち尽くすおばあちゃんや、涙を流し子供を抱えたまま車を運転する人がいた。

 夜7時頃に双葉の避難所に到着。家族との再会に喜び、娘さんと一緒に涙を流したらしい。しかし、安心したのも束の間、避難区域がさらに拡大され翌日には双葉から離れることを余儀なくされた。そのため、福島市の実家に一時避難した。それから、4回にもわたって住居を転々とし、今は栃木市で居を構え家族と暮らしている。

 

○「賠償金をもらいやがって」。心ない言葉が行き交う避難生活

 全部で6回もの避難を繰り返す中で、様々な苦悩があった。おにぎりだけの生活が続き食料等の支援物資が欲しかった。とある避難所に訪れたところ「双葉町から来た人には物資は出しません」と言われた。住んでいた場所で、あっさり断られたことが悲しかったという。また、いわき市で入院していた病院から退院するときに、他の患者から「賠償金をもらいやがって」「早く双葉に帰れ」などと罵倒されたという。原発事故で元の生活が奪われたり、家族を亡くしたりした人、東京電力が支払う賠償金。それが妬みの対象にされる。そのため、榊原さんは栃木に来てしばらくの間、双葉町出身と知られないように生活していたという。

 

○「震災に関わらず、普段から相手の気持ちを受け入れてほしい」

 苦悩もあったが、人のあたたかさを感じる出来事もあった。避難初期の福島県内では、食べ物を調達するのに使う自動車のガソリンが不足していた。ある日、個人経営のリサイクルショップの店員から、自転車を1,000円で譲り受け、加えてパンもたくさんもらった。当時、5kgの米が5,000円にもなる状況であったため、かなり助かったという。「助け合うことが大事」「普段から相手の気持ちを受け入れること大切だ」と話す。

 最後に伝えたいことは「自然災害はいつどこで起きるかわからない」「他人事として捉えず、準備や心構えをしてほしい」と話した。災害が多発している今、私たち一人ひとりが意識するべきことがあると感じた。(櫻井)