避難、避難、また避難…。「知的障害者施設ごと避難」の悲惨な事実

◇7人で50人の知的障害者の介助。応援なし、連絡手段な

 

 9/12(日)のみんながけっぷちラジオ特番「次世代に伝える。原発避難者10年目ラジオ」では、当時知的障害者の福祉施設の施設長をしていた石黒さんにお話を伺った。

 震災が起きたとき石黒さんは50人名の利用者がを建物内に避難させていた。ちょうど入浴時間だった。長い時間の揺れで建物内のロッカーは全て倒れ、その後も余震が続いた。施設長である石黒さんとしては「部屋の中にいるべきか、外にいるべきか」を一瞬で判断しないといけない。最終的には農場のビニールハウスに避難。余震はずっと続き、寒いので暗闇のなか食堂に避難し、そのまま施設内で次の日を迎えた。厨房の職員さんが炊き出しを行ってくれたそうだ。交代勤務で、もともと少ない人数(6、7人)で対応していたが、その時施設にいなかった職員を呼ぼうにも、道路の陥没もあり、や停電でそもそも連絡手段が経たれてしまっている中、応援を呼べる状況ではなかった。

「町からの避難指示が出た」。翌日いった避難所には、石黒さんの勤務するが運営する他の施設の利用者も含め、180名を人がいたが、何往復もして、次の2次避難所に車で避難させなければならなかった。道も渋滞していたため、ただ避難所に向かうだけでも6時間、普段の4倍程度の、かかったとのこと。やっと第2次避難を終えたとき、原発が爆発する音が聞こえた。を耳にした。その時は何の音かわからなかったが、後からテレビで映像を見た石黒さんは、「原発は安全だ』、と言われ続け信じてきたが、ここまでの惨状になるとは思わなかった」と言う。っていた。

 

◇40人定員に180人が避難所に。雑魚寝、寝返りも打てない苦しい暮らし

 

 原発の影響で、その後も長らく避難は続く。次に向かったのは地域住民も避難している小学校だった。しかし、自閉症の人はを持つ人たちにとって環境の変化に適応することは簡単ではできない。夜、奇声を発して歩き回る。劣悪な生活環境の中、地域住民からも「迷惑だ、静かにさせろ」など苦情も絶えないかった。石黒さんは「このままこの小学校にはいられない」と、さらに別の避難所に行った。定員40人名の面積の施設だが、そこに180人が住んだ。名を移動がさせた。地域住民に迷惑をかけないための仕方ない選択だった。そこではの施設で石黒さんや利用者の方たちは、雑魚寝をすると歩く場所も無くなり、寝返りも打てなくなるような広さで、日々夜を迎える。薬がなくて利用者の1人が、てんかんの重責発作(てんかん発作が連続して起きること。意識不明や呼吸困難になる)を起こして亡くなってしまったこともあった。避難所の悲惨さが生々しく伝わってくる話である。

 

◇全国からの応援で「千葉・鴨川」に施設ごと避難。命びろいした。

 

 そんな中、毎日新聞社の記者が来訪し避難所の現実を記事にしてくれた。そして記事を見た千葉県鴨川市の医療関係者方が「鴨川青年の家」へのという避難の誘いがあり、所を提案し、石黒さんや利用者の方たちはやっと場所に余裕のある避難所に移ることができた。出来た。

「1つの記事からみんなが救われた」。石黒さんは、「非常な事態だからこそより一層人の温かみを感じることができた出来た」と言う。っていた。

 

「通所・在宅の知的障害者と家族の避難はやってやれなかった」と悔やむ石黒さん。福祉施設の原発避難は、ほとんどの人が全く知らない悲惨な事実であったろう。「鴨川に移らなかったらどうなっていたかわからない」と言う言葉が心に残った。 (たなか) 

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