次世代に伝える教訓:①原発は人災、②きずなを大切に

 今回のゲストは福島県からの原発避難者である中山千代吉さん。東日本大震災当時の福島の様子と避難生活についての話を聞きました。

 

♦車が止められない!水も足りない!生活が変わる瞬間

 中山さんは福島県富岡町、原発から10km圏内の町に住んでいた。3/11の地震発生当時は自宅隣の下宿(工事業者用の宿泊施設を自営)で、家具が倒れないように抑えながら窓の外を見ていた。車が地震で激しく揺れる様子が見えた。翌朝見ると庭の土がこんもりと盛り上がり車が駐車できないほどで、地震の強烈さを感じた。12日、役場には水を求め多くの人が集まっていた。中山さんも2ℓのペットボトルを5本持って行ったが、もらえたのは3本。役場から帰宅しペットボトルを家に入れようとしていたころ、防災無線で「直ちに避難を」と指示を聞いた。

 

♦混乱する情報・避難指示。避難所を転々とする日々
 中山さんは「近くの温泉施設に避難用のバスが来る」というのでそこへ行ったが、いつになってもバスが来ない。夕方になるので車で避難しようと奥さんと息子さんの3人で川内村の避難場所に出発。普段なら30分だが渋滞で1時間半もかかった。やっと着いた先で言われた言葉は「車がいっぱいでここへは入れない」だった。しかしこちらも役場からの指示で来たと説明し、何とか混乱する避難所に入り、大人数で雑魚寝した。

 翌13日、福島の娘さんと連絡がとれ3人で向かう。道中のコンビニには食料品は一切なかった。棚に残っていた缶ビールを買い、1本飲んだところで「原発が爆発した」という情報を知った。娘と合流した後、新潟に逃げる途中、ガソリンの切れた車が何台も、そこら中に止まっていた。幸い中山さんの車はガソリンがたくさん入っていたため、新潟市までたどり着けきた。

 原発避難で福島市・新潟市、さらに東京にまで移動して避難生活を送ってきた中山さん。3年前に小山に来た。各地での避難設備の違いと、これからの災害に対する向き合い方について話を伺った。

  

♦「冷たい床」の避難所と「マット一枚敷いてある」避難所

 様々な避難場所を経験してきた中山さん。冷たく固い床で寝なければならない過酷な環境の福島県内の避難所。一方で温かい食べ物や毛布もあった新潟。避難所の対応の違いは、たぶん過去の被災経験の違だろうという。新潟は過去「中越地震」「中越沖地震」、毎年の水害と被災者受け入れ、避難所運営の経験があって準備がしっかりしていたとのこと。寝るときにも冷たい床ではなく、柔道用の畳が一枚あるだけでもありがたいものだと中山さんは言う。

 災害が多い日本では避難場所を確保しないといけない。そして場所があるだけではなく、中身(運用)を充実させることが必要で、それがこれからの災害に対する向き合い方の1つであるのだなと、私=田中は思いました。

 

2つの教訓「原発被害は人災である」「人との絆を大切に」

 中山さんが自身の経験を通して若者に伝えたかったことは2つ。

 1つ目は「原発の被害は人災である」ということ。避難場所の設備だけではなく、原発避難・補償に対しての対応も各町で違っている。前々から地震が来るとわかっているのであれば、原発に対してきちんと対策を練らなければならない。「地震は来ないから原発は安全」という安全神話の宣伝ではなく、避難者への具体的な制度・支援策、避難生活の苦痛・苦労を抑えるための努力が必要だ。

 2つ目は、人との絆を大切にしてほしいということ。コロナ禍で友人との交流が減り、横のつながりの大切さを痛感した中山さん。若者にありがちなSNSだけでのつながりではなく、お互いの顔を知り助け合える仲間の存在は必要である。

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 私は今回の話を聞き、これからの日本の在り方について考えをめぐらすことができました。未来を作っていく若者に対して、避難施設がどのようにあるべきかを伝えていきます。よい未来は「知る」ことで作られるということを強く感じました。(たなか)