同じ被災者。でも抱えている痛みや思い、経験すべてがまったく違っていた。

 2021/3/2のゲストさんは福島県双葉町から避難されてきた北村雅さんです。 当時、社協職員だった北村さんはデイサービスセンター利用者と一緒に避難し、5年以上も被災した人たちの在宅福祉を支える仕事をしていました。そんな北村さんの避難生活と、原子力発電所の事故が起こったことで生じた問題をお話しました。

 

被災した人を助ける被災者

 

 2011年3月11日東日本大震災の地震発生当時、社協職員だった北村雅さんは地震発生時デイサービスセンターの利用者さんと一緒だった。津波がセンターの200ⅿ先まで迫り、その次の日のお昼には原子力発電所が事故を起こした。県からの強制命令により利用者さん二人を連れて川俣町へ行き、川俣高校の合宿所で他の避難者の介護をしながら生活を送った。

 その後、北村さんは郡山に利用者と避難。会話ができず「寒い」と言えない子供たちと温もりを共有し、眠れない人のそばで「大丈夫だよ」と一晩中声をかけ続けた。さらに郡山から埼玉に移動。双葉町からの避難者1400人と埼玉スーパーアリーナの狭い通路で過ごすこともあれば、埼玉の騎西高校の教室で過ごすこともあった。

 3月末にデイサービスセンターの利用者さん全員をご家族のもとへお返しできたが、翌日の4月1日から入浴サービスの事業に尽力した。それから北村さんは2012年1月まで「避難してきた方には泣くより笑ってほしい。現場で高齢の避難者に元気にしたい!」という思いで、埼玉県で被災した方々を元気づけ続けた。そしていわき市の仮設住宅に移ってからも、仮設住宅を見守る事務所を立ち上げ、身寄りのない被災者が集まってお話しできる場を作り上げた。

 そうして5年以上、被災した方々を元気にする被災者であり続けた北村さんは「こんなこと言うとあれですがね…」と苦笑しながら言った。「私は幸せでしたよ。地震が発生したときも利用者さんたちがそばにいてくれましたし、現場で今までの経験を生かして人を元気にする仕事を続けられたんですから」。被災し故郷に帰れずとも自分よりつらいことを経験している人がいるからと近くの人々を元気にしようと尽力なされた姿を思うと、なんて素晴らしい人なんだと、私は頭が下がる思いでいっぱいだ。

 

「あの日以前の生活が戻ってくるなら喜んで帰還しましょう」

 

 私も過去、宮城県の七ヶ浜町にいて、あの地震と津波を経験した被災者だ。だからこそ深く共感できる一方でどうしても違いがあることを知った。

 普通なら1時間半で着くような場所にも7、8時間かかること、別々に避難した家族と連絡する手段がないと避難所をはしごして人づてに足跡を辿るしかないこと、避難生活にプライバシーなどないこと。当時の大変さを痛いほど理解できた。

 でも私は原子力発電所の事故の直接的な被害にあっているわけでない。農産物や海産物が出荷できなったこと、被爆した苦しさ、風評被害。なにより北村さんは双葉町という故郷へ帰れず、もう住めないという事実にやり場のない思いを抱えていた。何枚もの写真を見せていただいたが、北村さんのお家から道路1本挟んだ向こうに黒いフレコンバックがたくさん積みあがっている様子が見え絶句した。放射線で汚染された土や草木などの廃棄物が投棄された土地やその近くに住めるはずがない。

「どうして自分の家に帰るのに政府の許可が必要なんだろうね…」と北村さんはつぶやいた。同じ被災者でも私は当たり前に帰れる家も故郷もある。新しい防波堤が建設され道路が開通し、津波が押し寄せた砂浜は冬になると青くライトアップされた美術品が並ぶ。北村さんとお話していくうちに大きな壁がそびえたっていることを知った。

 

 今、政府は懸命に除染活動を行いかつて双葉町に住んでいた方々を帰還させようと動いているという。しかし北村さんは私の目を見て「10年前の、あの3/11以前の町になるのであれば、喜んで両手を上げて帰還しましょう。それ以外はいらないんです。」と、きっぱりと言い切った。

 同じ被災者。でも抱えている痛みや思い、経験すべてがまったく違っていた。

 もっと話して、知らないといけない。真の理解には至らないが寄り添うことはできると北村さんから教えていただいた。東日本大震災のことを風化させないためには、まずはそこからだ。 (佐藤)