
能登半島の北部、海と山がせめぎ合うように連なる奥能登の輪島市へ向かう車中で、一年ぶりの私は窓の外に広がる深い緑を見ながら、自分が中国人としてここでどんな役割を果たせるのだろうかと考えていた。能登半島地震から1年半が経ったとはいえ、過疎と高齢化は進み、耕作放棄地も目立つと聞く。そんな土地で私に与えられたのは、草刈り、豆まきといった、ごく素朴で、けれど住民にとっては切実な作業だった。
「人手が足りなくて草が伸びると、ほかの復興作業もできないさ」
朝七時、金蔵にある小さな集会所に集合すると、キッチンから淹れた味噌汁の香りが漂う。簡単な打ち合わせの後、慶願寺で草刈りの仕事を始めた。前回の草刈りの経験があるので、今回の刈払機の使いは結構余裕であった。刃が草に食い込むたびに、ずっと忘れていた土と植物の匂いが鼻腔を満たし、汗の滴とともに異国であるはずの土地が少しずつ身体になじんでいく感覚があった。「人手が足りなくて草が伸びると、ほかの復興作業もできないさ」──その言葉を聞いた瞬間、私の中で「草刈り」は単なる整備作業ではなく、集落の暮らしと誇りを守る最前線だと思い至った。
動画で見た・流しそうめん! やりながら「境目」を考えた。
午前の草刈りを終え、簡単なおにぎりを食べた後、大豆の種まき仕事が始まった。農作業は初めてだったから、何をどうすればいいのかまったくわからなかったが、皆様に親切で優しく扱われ、より楽な労働をしながら勉強させてもらった。豆まき機から落ちた大豆を埋めながら、私は「境目」について考える。日本と中国、海と山、人と自然、そして都市と地方。奥能登はそれらの境界がにじむ場所だ。ここでは海風が田んぼを潤し、山の沢水が漁港を冷やす。私自身もまた、国境を越えてこの小さな畑の一隅に立ち、言語や文化の隙間を自分の手で少しずつ埋めているのかもしれない。
午後二時半ぐらいに、農作業の仕事がしばらく休み、楽しい流しそうめんの時間が来た。これまでネットの動画で何度も見ただけだったが、今日ついに実際に見えた。また、栃木から来た餃子や大阪から来たたこ焼き、冷たい生ビールに加え、太陽にいじめられた農作業の仕事から生き返った感じがした。それも後の続ける農作業の仕事の力の源になっている。
大豆のような汗が大豆と共に土に埋め込む。新「希望まき」かも
一日目の夕方、お風呂から帰ってきて、金蔵集会所に待っているのは、美味しく豊かな晩御飯であった。みんな畳の上でテーブルを囲み、能登飯を食べながら酒を飲み、談笑した。私たちは片言の石川弁と栃木弁、標準語、そして私のつたない日本語を交えながら、中国の面白いことを話したり、日本のあっちこっちを紹介されたり語り合った。
二日目の朝日、昨日の経験があるので、自分で豆まき機が操作できた。人数は少なくて日差しは強いけれど、大豆のような汗が大豆と共に土に埋め込むのは、嬉しくてたまらない。これは種まきだけでなく、希望まきでもあると思う。一年前に始めてここに来た時、まだ半壊した家屋の片付け仕事ばかりしたんだが、今回は来年の希望を象徴する種をこの土に埋めることになった。これが奥能登が次の復興段階にたどり着いたというのであろう。道は一歩一歩作られ、困難は一つずつ克服されていくということである。
中国も日本も地方の課題は同じ。「手」の連携が必要
奥能登での二日間は、一見すると単調な肉体労働の連続に過ぎない。けれど草の刈り跡、大豆を埋めた土、テーブルを囲むみんなの笑顔が、確かに私自身の内側に小さな変化を残した。中国でも日本でも、地方の課題は似通っている。高齢化、担い手不足、気候変動──それらに向き合うには、国籍を越えた「手」の連携が欠かせないことを、私はここで学んだ。帰路、再び車窓に映る緑を見つめながら、私は奥能登で交わした無数の「ありがとう」の重みを反芻した。支援に来たつもりが、与えられたものの方が多かったのではないか。次に訪れる時、草はまた伸びているだろうが、そこに集まる手と手の記憶は、確かに根を張り続けているはずだ。(李エイテン:宇大・国際学部大学院2年)