消えない「喪失感」。 失ったものの大きさ、を想う。

 今回(1/26)のゲストは、福島・双葉町からの原発避難者の半谷八重子さんでした。当時6人で暮らしていた半谷さんに被災地・福島の状況や、車での避難、栃木での避難生活の困難など「原発避難について」お話を伺いました。あれから10年、半谷さんの話で震災や原発事故を初めて考えることができました。

 

♠安全神話…「原発事故は限りなくゼロ」だったはず!!!

 3月11日、半谷さんは車で外出中。家に戻ると近くのJR常磐線の高架橋が真っ二つに折れ、地震の大きさを実感したと言います。

 「原発は大丈夫なのか?」と脳裏をよぎったそうですが、「原発は、何よりも安全を最優先しているから『事故の可能性は限りなくゼロ』だし大丈夫だろう。避難しても2・3日で帰れる」と思っていたそうです。

 翌朝7時頃、全町民へ川俣町へ避難を指示する防災無線が流れ避難しました。普段なら車で1時間半(40km)ですが大渋滞で到着に8時間、午後4時でした。川俣に着いても避難所はどこも一杯。ようやく見つけた10畳の部屋に15人が折り重なるように入り、「眠るにも眠れなかった」と半谷さん。

 翌朝(3/13)、宇都宮に住んでいる娘と電話がつながり、避難場所を伝えたところ「そこにいちゃダメ! すぐに宇都宮に来て!」と言われたそうです。この時まで半谷さんは原発事故のことは知らなかったそうです。被災地では「逃げろ、逃げろ」というばかりで、情報がなかったのです。

 そして3/15の早朝に川俣の避難所を出発。車のガソリン不足で、娘の夫に途中まで迎えに来てもらい、やっと宇都宮のに到着。「4日めに娘の家のお風呂に入ったとき、その湯けむりに感動した」と半谷さん。私=小熊はこの話を聞いて、避難の過酷さを痛感しました。

 その後、娘宅には20日間いたそうです。

 

♠「いじめ、いやがらせ、デマ」…コロナでも同じ構造だ。

 孫の学校が始まるというので、4月はじめ宇都宮市内の2LDKの部屋に移動。しかし6人で暮らすには手狭で、さらに別の一軒家を探したとのこと。不動産屋や知人に聞いて夫と毎日近所の空き家を回ったそうです。ちなみに『とちぎ暮らし応援会』の今回のアンケートでは、避難者の平均的な引っ越し回数は5回。中には10回以上引っ越しをしている人もいました。

 半谷さんが探していた一軒家は民間賃貸住宅借上の仮設住宅(みなし仮設)というもので、役所が家賃を支払ってくれる制度です。

 半谷さんが宇都宮の娘の近くに住むと決めたのは、孫の学校を転校させたくないから。当時は、転校して福島と分かるといじめられたり、福島ナンバーの車が傷つけられるなど、いじめ、いやがらせ、デマがありました。今のコロナの噂・デマの横行も同じで、世の中が不安に支配されたときには同じ状況になるのだなと思いました。

 

♠消えない喪失感

 「なんでこんなことに!」

 一時帰宅で福島・双葉の自宅を見た時に感じたそうです。辺りは地震で崩れたまま。田圃の柳が大木となり、手入れをしていた庭は雑草や低木が伸び放題。野生動物が入って荒れ果てた自宅を見るのは辛いと言います。それでも毎回、水と箒、タオルも持って掃除に通う。イノシシに5回も入られ「原発事故さえなかったらと、泣き泣き掃除をした」と言います。

 このほかにも自主避難と避難区域内の人の支援の差や、母子避難と離婚の増加、被災地内での賠償額の格差による住民の分断など、様々なことを語っていただきました。

 そして「原発事故がなければ、こんなことにはならなかった」という半谷さんの行き場のない怒りや苦しみ。「家を新築して生活はするけれど、故郷を思わない日はない。双葉での平凡な暮らしがいかに幸せだったか」と。

 全てを失った喪失感は計り知れないと、私は感じました。そしてこの喪失感が避難者の全員の心の奥にあるのではないかと思いました。(おぐま)