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10月8日のみんながけっぷちラジオでは日々輝(ひびき)学園高等学校宇都宮キャンパスの飯島幸次先生をゲストとしてお迎えした。日々輝学園は栃木県塩谷町に本校を構える通信制高校だ。「通うことのできる通信制」で、希望すれば毎日通うこともできる。今回の放送では日々輝学園の特徴、加えて飯島先生の思いについて伺った。
7、8割は不登校を経験。社会の一員になるための高校生活
卒業することを目的とする高校もあるが、日々輝学園はそうではない。高校時代に必要な学習をするだけではなくてその先の社会に出ていくことを意識している。例えば、生徒は登校しなくてもレポートの提出で卒業単位を取得できるため、逆に職場実習など〝長期のインターン〟に参加することもできる。これは発想の転換ともいえる。「学校に行かなくてもいい」ことの柔軟性を活かしてほかのことに参加してみる。出席が単位に直結する全日制高校ではできないことだ。
高校としてはかなり特殊な日々輝学園で、先生をすることのやりがいを聞いた。飯島先生は「生徒の成長過程を見守ることだ」という。日々輝学園全体の7,8割は不登校を経験している。そうした生徒が学校生活や課外活動を通して成長する姿、だんだんと登校できる日数が増えていく過程を一番近くで見守ることや、卒業生が近況報告に来てくれることがやりがいになっていると語った。
学校に行く意味は「自分の持つ選択肢に気づくこと」
今、日々輝学園のほかにもたくさんの通信制高校があり、中学校卒業後の進路の選択肢は幅広い。そんななかで学校に通う意味とはなんだろうか。
飯島先生は「小学校と中学校は社会性を身に着けるために、大学や専門学校は人脈を広げるための役割を果たしている」と言う。その中間にあるのが高校で、自分の進路をどうするのか考える時期に相当する。最も重要なことは「視野を広げる」ことだ。学校に通わず、インターネットばかりに情報源を頼っていると検索履歴で情報が偏り、自分の好み中心の視野になってしまう。学校に行く意味とはいろんな人がいるところでいろんな情報を得て、自分のもつ選択肢に気が付くことだ。
現代の学生は進路により多くの選択肢を持つようになった。「進路選択の際はよく考えるべきだ」という。今の気持ちや感情で進路を選ぶとその先でつまずくことがある。自分の世界が広がってない状況や、選択肢の存在を知らない状況で決定してしまうとうまくいかないこともある。だから、まずは一通り見ることをお勧めする。「得意だから・・・」という気持ちだけだと、合わなかったときに選択肢が狭まる。その点、普通科である日々輝学園はどの進路選択するにしても汎用性ある学校だ。楽な方に流れるのではなく、具体的な未来の暮らしや、学ぶことを考えてほしいと語った。
【放送後記】
学び方の選択肢が増えるなか、自分にとってより良い選択をするには、自分の視野を広げてよく考えていく必要があると思った。私も自分が何を学びたくて何をしたいのか改めて見つめなおそうと思う。(ラジオ学生 野田)
youtube→ https://m.youtube.com/watch?v=BKIMboKSeA8
11月12日のラジオは、「フードバンクうつのみや」のインターン生の石原宇法(たかのり)さん、ラジオ学生の野田&私=山本の3人で、難民をテーマに話をした。
まず、野田さん調べの報告。日本の難民受け入れ状況は、2023年の難民認定の申請者数13,823人のうち、認定数303人と1%にも満たない。100万人単位で難民を受け入れるトルコやイランのような国と比べると、日本が「難民鎖国」と呼ばれている理由がよくわかると野田さん。
今回、難民問題として注目したのは仮放免(かりほうめん)期間や難民申請中の生活の大変さ。石原さんは、フードバンクインターンの活動の一環で外国人無料医療相談会に参加した。相談会で見聞きしたことを共有してもらった。
「どうやって生きるの?」 厳しい仮放免生活
北関東医療相談会・アミーゴスは、収入がなく十分な医療を受けられない仮放免の人に外国人無料医療相談会を開催しており、石原さんは通訳ボランティアとして参加した。
石原さんが担当したのは60代のナイジェリア人で、1990年代の初頭に来日した。それから30年たった現在も難民申請は認められず、相談会の1週間前に難民申請が却下されて、まだ仮放免の生活を続けているという。一連の医療診断を受けたのち、出口付近に設けられた「生活相談コーナー」で生活困窮の現状について話した。石原さんは、家賃も払えず毎日の食事が確保されない状況で”普通”の生活ができず、「どうやって生きるの?」という疑問が大きいと話した。
犯罪者じゃないのに「雑居で鉄格子の部屋」。帰国できず、自由もない収容所
石原さんは「入管施設」の問題点を指摘してくれた。日本では在留資格がなく、難民申請を却下された外国人には収容令書や退去強制令書が渡され、罪を犯していないのに不法滞在、不法入国者として地方出入国在留管理局の収容施設に収容される。
日本は「全件収容主義」で、原則として在留資格を持たない場合は収容できる。法律上は無期限の収容が可能だが、この仕組みは、帰国させる本来の目的から大きくそれてしまう。収容施設では5,6人雑居で鉄格子の部屋で生活する。1日3食は提供され、各々の宗教の戒律や食文化が考慮され、面会、国際電話、定められた時間内での入浴、洗濯、軽運動が「できる限りの自由」として認められている。しかし実際は「自由でない」のが現状だ。施設内では治療所が設けられているが、外部の病院での診察が必要な場合は手錠や腰縄がつけられる。このように収容施設を経験してもなお母国での迫害を恐れて帰国ができない難民が多い。
移動禁止、労働禁止、国保加入禁止、生活保護なし。制限ばかりの仮放免
収容所が一杯になったらどうするのか?「そのために仮放免制度がある」と私・山本が報告。仮放免とは、「健康上、人道上等の理由により収容を一時的に解除すること」だ。しかしその暮らしは過酷だ。1、2か月ごとに定期的な出頭が要求され、問題があれば再収容もある。働くことや県をまたぐ移動、国民健康保険の加入、生活保護の受給はすべて禁止されている。子供やその保護者(親)は「仮放免」として収容所から出るため、子供の義務教育は認められている。しかし、働けないので、収入がなく家も借りることができない。
多くの先進諸国が「第三国定住」(注)と呼ばれる制度を使って、さらに多くの難民を受け入れる中、日本はいまだに難民鎖国としての立場を保っている。難民として認められないことには、第三国定住の対象にならない。法や人道に限らず多角的な視点から、日本のキャパシティを考慮しつつ現状をどのように改善できるのか。私自身も、未だ受け身の姿勢で考えてしまっていることが悔しい。制度からも実際の声からも学び続けたい。(山本)
※第三国定住:難民として一時的に入国した国から、他の難民受け入れ国に移ること。
youtube→ https://m.youtube.com/watch?v=BKIMboKSeA8
10月29日のみんながけっぷちラジオでは、「こども若者★いけんぷらす」のぷらすメンバーである高校2年生、青木心言(あおき・みこと)さんをゲストに迎えた。
昨年4月に発足したこども家庭庁は、こどもや若者の視点に立ち、「こども」にとって一番良いことが何かを考える「こどもまんなか社会」の実現を目指している。その取組の1つが「こども若者★いけんぷ らす」だ。こども家庭庁をはじめ、各省庁が対面イベントやWebアンケートなどでこどもや若者の意見 を聞き、それらを制度や政策に活かすことを目的とした取組である。こども・若者に関わるテーマに広く意見を伝える「ぷらすメンバー」は小学1年生から20代。いつでも誰でも会員登録のみでなることができる。
先生からの不適切な指導・教育。「自分のような思いをさせたくない」
青木さんは、これまで受けてきた教育の中で教員からの不適切な指導や、教員の資質が問われる場面を多く経験し、精神的苦痛を感じてきたという。「自分のような思いを次の世代にはさせたくない」と自身の経験を作文コンクールやスピーチコンテストなどで積極的に自分の意見を発信してきた。
青木さんは高校1年生のときに栃木県唯一のぷらすメンバーとして活動を始めた。昨年行われたこども家庭庁主催の「こども基本法から考えるこどもまんなか社会シンポジウム」では、高校生代表として登壇し、自身の経験を渡辺由美子こども家庭庁長官に直接話したという。「全てのこどもたちが個性や才能を発揮して楽しく学べる環境をつくりたい」。その思いが青木さんの活動の原動力になっている。
「閉鎖的で偏った価値基準で行われる教育」。事例を知ろう。
青木さんはこれまで様々な形で自分の意見を発信してきたが、同じ経験や思いをしていても「SOS の出し方」、「SOSを出していい」ことも知らないこどもや若者が多くいるのではないかという。「大人が言うことが絶対」という思い込みで自分の意見をもつことさえしない。「自分だけ我慢すれば」という言葉でSOSをふさぎ込んでしまう。このような同世代への危機感があるという。その上で、「本当の思いの見つけ方」や「声の挙げ方」、「行動の起こし方」などを伝えていきたいと語った。
「私がすごいのではない。こどもが声を挙げざるを得なくなった現状にもう少し目を向けてほしい。閉鎖的で偏った価値基準によって行われている不適切な教育の事例を知って、こどもの教育を『みんなで見守る』体制をつくっていきたい。そして、こども・若者が誰の手でもチャンスをつかめること、それをどんな場所にも周知できる教育の在り方もこれから考えていきたい」。
↓番組アーカイブはこちら↓
https://youtu.be/x2DlE_JSnos?si=yfpsvAvQXoFLzHtq
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「こどもが声を挙げざるを得ない状況、しかしこどもが大人に頼れないという事実」。これが一番の問題だと思った。本当に「こどもまんなか社会」をつくるならば、変わるべきなのは国だけではなく、親や教師といった立場からこどもに関わる大人たちではないだろうか。青木さんの話からこのようなメッセージも感じられた。(ラジオ学生 ながたき)
10月1日のみんながけっぷちラジオでは、社会福祉士であり、精神保健福祉士である松本佑司さんをゲストに迎えた。松本さんは大学を卒業後、福祉施設や精神科の医療機関に勤務し2022年からは「ソーシャルワークそえしあ」に勤めている。松本さんは2つの資格を活かし、様々な人の成年後見人として老後をサポートしている。
認知症、精神・知的障害…の人の法律行為を代行
聞き覚えのない成年後見制度。「一言でいうと本人の代わりに契約したり財産を使ったりする人」と松本さん。細かくは「任意後見」と「法定後見」に分けられ、制度を利用する本人の判断力の有無で後見(人)、保佐(人)、補助の三つがある。
例えば、認知症の人は「判断ができない」または「記憶があいまい」なため、モノを買うこともままならない。また、躁うつ病(双極性障害)などの場合は、躁状態の日には「一日で車を2台も契約してしまう人もいる」など、後から問題になるという。
普通は親や兄弟などが後見人になるが、本人が成人した後や親が死んだあとは誰が「めんどう」をみるのか。「任意」と「法定」の違いは、家庭裁判所が入るかどうかの違いだ。家裁が後見人を選定して本人の代わりに財産管理や身上監護(日常生活の支援、病院・施設との契約)を行う仕組みだ。
課題は「面倒見」の費用である。後見人の活動の報酬は、当然本人の財産のなかから出されるが、本人の財産がない場合(なくなった場合)には、自治体の「成年後見利用支援制度」から出される。だが、助成金の金額は月2万円程度と少ない。成年後見制度は、本人が死ぬまで後見人の変更はできない。「本人の財産がなくならないことを祈る」しかない現状もある。
さらに、任意後見の場合は意図した人に役割を任せることができるが、法定後見の場合は「意図しない人」が後見人になる恐れがある。財産狙いの人もいるかも、と言われる所以だ。
「自分の世話を頼める人がいない時代」の安心を作る仕事
少しずつだが、この制度は一般にも広まってきている。「新たな選択肢として捉えてもらえるようになって嬉しい」と松本さんは話す。
病院で勤務していたとき、支援や生き方などの選択肢が限られている現状をたくさん見て、「なんとか新しい道を作れないか」と悩んだそうだ。そこで、松本さんは病院から離れ、そえしあに勤めることで成年後見制度の利用が増えた。「利用者や親族の安心した表情が見られるようになったことが嬉しい」という。しかし実際には、任意後見制度より法定後見の割合が圧倒的に多く、決断が遅れてしまう場合が多いのが現状。
松本さんにとって“選択肢を増やす”ことが大きなキーワードであり、ラジオの中で、「もし今、老後や現在について不安を抱えている人がいたら、すぐに相談してほしい」という。
少子高齢化が急速に進んでいる。自分の世話を頼める人がいない場合が増えてきている。そのような時代に柔軟に対応するため、この制度を利用することでまた新たな生きる道が見つかるのではないだろうか。(蓮井 菜乃花)
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10月15日の環境ラジオのゲストは、NPO法人トチギ環境未来基地の萩原ななさん(26)を迎え話を聞いた。未来基地は益子町にある若者主体の環境保全の団体で、主に芳賀郡内の里山や竹林を活用・整備する活動を行っている。また「社会のために働く」ことを探していた若者たちへ、「NPOという働き方」や「地域で暮らす」ことを提示している。2016年3月にはこれが評価され、農林水産省の全国の都市と農山漁村の共生・対流を推進する「オーライ!ニッポン大賞」のグランプリを受賞した。8~10月の夏休みはワークキャンプをたくさんやっていて繁忙期だそうで、一週間ほどボランティアハウスで滞在し、自然に触れながら活動も行っている。
フィンランド一人旅で目覚め、益子に定着
萩原さんが「環境」に興味を持ったのは、フィンランドに一人旅をして自然の凄さに感動したことがきっかけ。就職活動中だったが、「環境を守りたい」という意思から、大学を休学してトチギ環境未来基地でインターンした。
初めての作業では、地元の高齢者が刈払い機でパワフルに草を刈る様子が強く印象に残ったそうだ。
「今では、色んな人と森で作業することが大好き。最初は虫が苦手とか、不安そうな雰囲気が漂うが、一度やり始めるととても楽しいし、成果や作業後の光景が目に見えるので達成感を感じやすい。ぜひ皆で森に行きたい!」と話す。
「草刈を若者の力でやりたい」
萩原さんは自分が好きな益子の四季折々について、「地域の人が守っているが、少しずつ守る人が減っている。それを守っていきたい」と話す。
世界的には森林が減少し続けているが、日本では異なる問題がある。適切な手入れが行われていないため森が荒廃し、結果的に生態系の破壊や、二酸化炭素が吸収されにくくなるなど、森林の機能が失われる。森林が放置されると生物の種の多様性が失われる。「森をきれいにしたいが、自分1人ではできない。」、「木を売るために植林をしていたが、もう今は使わない」。そんな民有地も、森林が持つ公益的機能は他の森と同じように持っている。人手は足りないが、手入れをされることで価値が蘇る森林里山がたくさんある。萩原さんは「草刈を若者の力でやりたい」と熱意を見せた。
環境保全は「行動に移すことが一番だいじ」
萩原さんがトチギ環境未来基地で働き始めて4年。やりがいを感じるのは、竹林が始めは荒れた状態でも、整備後は素敵な状態になって、果樹園になったり、憩いの場になったりと、関わった人が笑顔になるのを見られる時だという。
「課題は、草がものすごいスピードで伸びていること」という。「草刈は一番大変で、地域の人が困っている。身近に草が放置される場所は必ずあり、発見したらできることがあるはずだ。行動に移すことが一番大事なので、それを実践してほしい」という。(ラジオ学生 山本)
「ともしびプロジェクト」。震災を風化させない、私たちがつなぐ
9月24 日は「次世代に伝える。原発避難13年目ラジオ」。今回は宇都宮大学学生団体 「UP(宇大生プロジェクト)」の加藤優喜さんをゲストにお迎えした。UPは東日本大震災の復興支援をきっかけに発足し、震災直後から石巻など現地でボランティア活動を行ってきた。震災から13年。現在は震災を風化させないために団体メンバーが震災についての理解を深め、それを発信していく活動を行っている。
活動の1つが「ともしびプロジェクト」。たくさんのキャンドルに火を灯し、被害にあった人々への追悼、震災の記憶を後世に伝えるイベントとして宇都宮では毎年3月11日に開催されている。
そのほか原発被災地を巡るスタディーツアーにも団体メンバーが参加。現地ガイドによる説明を受けながら福島県双葉町、浪江町を訪れるこのツアーは、震災をより 「リアルに」学ぶことができる機会だと話した。
関連施設立地地域の「当たり前」を問うことが必要
加藤さんは青森県六ヶ所村出身。この村では原子力発電をした時に出る使用済み核燃料から、再び発電に利用できる物質を取り出す「再処理」作業を行う施設(核燃料再処理施設) の建設が進められている。1992年に建設を開始し今年で32年。建設を進める中で様々な問題が見つかり、中断を繰り返しているため、いまだ完成のめどは立っていない。現在は再利用できない高レベル放射性廃棄物という危険物質を一時保管する施設のみ稼働している。 加藤さんは、再処理施設建設の遅れを問う以前に、これらの施設に対する理解が地域住民においてもあまり進んでいないことを指摘した。原発に関連する施設という認識はある。しかし特に「施設がある状態が当たり前」として育ってきた若い世代の住民にとっては、実際にどのようなことを行う施設なのかを知らない。まずはその「当たり前を問う」ことが必要だと話した。
原発をあらゆる面から知ってほしい
加藤さんは放射性廃棄物の貯蔵施設や再処理施設の建設が進む地域で生まれ育ったからこそ、これらの施設が経済や雇用という面で地域へ恩恵をもたらしてきたことを知っている。一方で、団体の活動を通して原発事故の悲惨さや被災された方々の想いにも直接触れてきた。原発の良い面も悪い面も見てきたからこそ、「一方の意見だけを聞いて判断せず、どちらも自分で知るところから始めてほしい」と話し、その重要性を訴えた。
◆◆ 原発について知るべきことは、事故のことだけではない。目につく情報や意見だけではな く、「原発」というキーワードを自分で深めていく大切さを学ぶ機会になった。(ラジオ学生 ながたき)
ラジオ聞き逃し↓↓
「みんながけっぷちラジオ」×「次世代に伝える。原発避難13年目ラジオ/宇都宮大学学生団体「宇大生プロジェクト(up)」加藤優喜」24/09/2024 - YouTube
9月10日放送のラジオでは「とちぎの空襲を語り継ぐ会」代表であり、ウェブページ「とちぎ炎の記憶」を制作した大野幹夫さん(92歳)をゲストとしてお迎えした。大野さんは戦争の時代と宇都宮大空襲を13歳(中学生)のときに体験している。今回の放送では宇都宮大空襲という出来事について、そして軍国少年として過ごした戦時中の心情について語った。
宇都宮大空襲。「軍部、軍備工場が狙われた」
宇都宮は太平洋戦争当時12回の空襲を受けた。なかでも東京大空襲のような大きな夜間空襲は昭和27年7月12日の宇都宮大空襲だった。アメリカの爆撃機「B29」による焼夷弾8万発の攻撃を受けた。当時の宇都宮市は現在よりも狭かったが、市街地の65%が焼失した。中心地(馬場町・二荒山神社前)に住んでいた大野さんも空襲に巻き込まれることとなった。宇都宮のど真ん中で空襲を体験した大野さんはその経験を語り部として人々に伝える活動を20年も続けている。
戦時中に攻撃の対象となったのは軍事工場や基地・港湾だった。宇都宮は全国に工場を展開する中島飛行機製作所(現・(株)SUBARU)の中核的な連結役を担っていたことに加えて那須・日光御用邸などを守る役割を担っていたため、アメリカ軍が挙げた「中小都市空襲目標都市リスト」では180都市のなかの55番目に入り、実際には28番目に空襲を受けたという。
戦争中の当たり前は今とは違う
戦争中の暮らしを一言に表すのは難しいと大野さんは言う。現代では当たり前に売られているテレビや冷蔵庫などの家電も、コンビニで売られているものの9割も当時は無かった。物資は統制され、思うようには物が手に入らなかったという。こうした世の中だったということを念頭においたうえで戦争中の暮らしについて聞いてもらえないと、実際に起きたこととしてなかなかとらえてもらえないという。戦争中は誰しもが思うように物を手に入れることができなかった。皆が平等にモノがなかった。
実際に苦しかったのはむしろ戦後だった。隣組の制度や、互助の仕組みは無くなり助け合いが失われた。
戦争は心も破壊する。「ぴかぴかの軍国少年」の落胆
満州事変(1935)とほぼ同時期に生まれた大野さんは、少年時代を軍国主義の社会とともに過ごし、生まれてから終戦まで軍国少年として生きてきた。今では考えられないが、「お国のために死ぬのは当たり前のことだった」のだと振り返る。言論統制の影響で何も読めず喋れず聞けず。まるで日光の三猿のような状況で戦争以外のことは何も知らずに過ごした。戦争を批判するような考えが少しもない、ぴかぴかの軍国少年だったと大野さんは当時の自分を振り返る。
「お父様は亡くなられました」と言われ、嬉しかった。
その象徴的なエピソードを紹介してくれた。大野さんの父親は今でいうところの消防団に所属していた。そのため宇都宮で空襲があったときにも現場に駆け付けなくてはならず、大野さんは父とは別れて、母を自転車の後ろに乗せて避難した。途中の道は火の海だったが、夢中で自宅から4キロ先まで逃げた。翌朝、町に戻ると、自宅も何もかも無かった。それでも焼け跡から何か見つけようとしていた大野さん親子に、消防団の隊員が「お父様は無くなられました。」と告げた。本来なら悲しむべき出来事だが、当時の大野さんは悲しかったどころかむしろ嬉しくて、「父は仕事を全うしたのだ、これはすごいことなのだ、そして自分は英雄の子供なのだ」と思ったという。そんなところにニコニコ笑った父が帰ってきた。それをみて大野さんはがっかりしてしまったという。
この話を小学校でしたとき、感想文のひとつに「戦争というのはモノを破壊したり、家を焼いたりするだけではなく人の心まで破壊するんですね」とあった。その言葉にハッとするとともに、このエピソードを話してよかったと感じたという。
「語り継ぐ」とは「語った相手が語り始める」こと
「これからの世代の人々に伝えたいことは何か」という質問を受けるといつも困るという。「語り継ぐ」ということは、語った相手がまた語り始めるということだ。大野さんが作成したウェブページ「とちぎ炎の記憶」も継承する人が決まっている。これからの世代には語り継ぐことをしていってほしいと語った。
≪放送後記≫
戦争経験者の人口が減少していく中、私たちができることを考えるきっかけになる放送になった。大野さんの言葉を借りれば、「語り継ぐ」という行為がこれからの日本を生きる者たちに求められている。聞いたことを自分のものにし、それを家族でも友達でもいいからほかのだれかに話していきたい。できることは身の回りにあるはずだ。 ラジオ学生 野田
ラジオ聞き逃し↓↓
https://www.youtube.com/channel/UC7FypuAUxZEhsbCDDoqaUYg
8月6日の「みんな崖っぷちラジオ」は、ダルク(DARC)女性シェルターの柚子さん(ニックネーム)をゲストにお迎えし「生きづらさを抱える人たちへのメッセージ」というテーマで放送した。放送では、柚子さんの薬物依存所になったきっかけと薬物中毒の自分の暮らし、ダルク女性シェルターでの、薬物依存からの回復生活、柚子さんの「生きづらさを抱える人へのメッセージ」を伺った。
家に居場所がない子供時代。「悪い仲間が居場所」だった。
ダルク女性シェルターとは、寮での共同生活を通して、依存症を抱える仲間と回復を目指すリハビリ施設だ。ダルクとは「Drug Addiction Rehabilitation Center」で、直訳では薬物依存症社会復帰センターとなる。柚子さんはシェルターで寮長を務めながら自身も回復生活を続けている。
ダルクに「つながる」前の柚子さんは、暴力的な家庭に育ち小学生のころから「大人の顔色」を見て生きてきた。家には居場所がなかったという。中学生になる前から非行にあこがれ、格好いい不良の男子からシンナーを勧められ、「嫌われたくない一心で」違法と知りながら使用したのが始まり。その後、シンナーの代わりに酒を飲むようになり、アルコール依存症になり、さらに覚醒剤に進んだ。依存したのは「男と薬物」というが、それは「居場所がない」ので男に依存したのだという。
刑務所に何度も出入りしたが結局薬はやめられず、寝ても覚めても「薬しか頭になかった」という。約10年前に刑務所から出てきた時の担当弁護士から「ダルクに行ってみないか」といわれ、半信半疑でここに来たという。
「治らない病気」だから、毎日やめ続ける実践をする
ダルク女性シェルターでの回復活動におけるポリシーを、「仲間と行事を楽しむこと」だと言う。ダルクでの回復活動の一つに季節に沿った行事の実施がある。春は花見、夏はウナギを食べたり、海に出かけたりする。こうした仲間との楽しいプログラムを通して、覚醒剤、シンナー、飲酒を中心としていたときに意識することのできなかった四季を楽しめるようになったという。ここでのキーワードは、自分一人の楽しみではなく、「仲間と」である。
そして施設では、毎日のミーティング(ダルク・ミーティング)がある。これは薬物依存者が回復していくにあたって重要な役割を担う。「言いっぱなし、聞きっぱなし」の話し合いで、薬物を使っていた時の話や、今の心境を「正直」に話す。それについてミーティング参加者(仲間)は否定も肯定もしない。そうした集まりを毎日繰り返す。
そして「今日一日、薬物はしない」ことを毎日「今日一日・・・」と繰り返すのだ。ポイントは「自分は薬物依存者で、治らない病気。だから毎日、辞め続けるのだ」という方法をとることだ。それほど依存症は強い誘惑なのだ。そして「先行く仲間」は、その道すじ、道しるべであるという。ダルクでは、「先輩」という呼び方をせず、「先行く仲間」という呼び方をする。そこには、自分が教えてもらったことを人に教えるから、誰かよりも偉いということはない、という考えがある。自分が薬物に頼らなくても生きていける方法を実践するのも自分だけの力ではないことを実感する、と柚子さんは言う。
こうしたミーティングやプログラムによって「薬物や、アルコールがなくても人生は楽しめるということを体感・体験していく」と柚子さんは言う。
正直ななれる場・仲間・毎日の積み重ねが、「生きづらさ」からの回復
柚子さんは、女性シェルターで寮長を務めながら、薬物依存症からの回復生活を続けている。中学生の頃にはじめて薬物を手に取り、それ以降、依存症を抱えてきた。柚子さんが考える「回復」とは、単に薬物をやめることだけではない。自分の抱える「生きづらさ」に気付き、向き合い、正直になって誰かに助けを求められるようになることこそ回復において大切なことだ。ダルクでの「自立」とは「助けてください」が言えること
シェルターで、スタッフを務め始めたころは、「みんなを回復させるんだ」という気持ちから、支配的になり、うまくいかなかったこともあるという。そんな時、前の施設長に気持ちを正直に話せるようになったことで、自分で気が付かなかった問題に気づけるようになり、「今の仲間との暮らしをとにかく楽しむこと」だと立ち返ることができたという。「相手はかえられない、自分が変わるしかない」といつも教わっている、と柚子さん。
最後に、柚子さんは、生きづらさを抱える人たちには、周りに助けを求めるようにしてほしいと話した。ダルクの施設や、地域のある薬物依存者のミーティングである「NA」などに連絡をすれば、話を聞いてもらえたり、アドバイスをもらえたりする。難しいことかもしれないが、まずは行動を起こしてもらえれば、と話した。
放送後期
「依存はいけない」、と一言で片づけていては、依存症からの回復を促すことはできない。自分の気持ちと正面から向き合って、依存しないやり方で楽しむ人生を知っていければいいと思う。生きづらさを感じる人たちに何ができるのか。ダルクやNAのオープンミーティング(薬物依存者でなくてもだれでも参加できるミーティング)に行くといいと思う。(ラジオ学生 野田)
Vチャンネルで過去の聞ける↓↓
8月27日放送の「みんながけっぷちラジオ」では、福島県二本松市で原子力発電事故を経験した門間裕佳さん(20歳)をゲストとしてお迎えした。裕佳さんは自身の被災経験と、それが現在の山形大学工学部での学びにどのように繋つながっているか振り返った。
栃木での幼少期の「母子避難かつ自主避難」
幼稚園卒園を目前に控えた頃、裕佳さんは東日本大震災と原発事故に遭った。家族と共に東京に自主避難した後、栃木県に移り住むことになる。当時の記憶は曖昧ではあるが、幼稚園帰りに母親に車に乗るよう急かされて不思議に思ったという。また、毎日通っていた家の近くの裏山に、とても大きくて太い木が倒れていたのをみ見て、不気味に感じたと話す。栃木では親戚の家で過ごし、小学校入学も栃木で迎えた。栃木での学校生活では、学校の敷地内に生えていたキイチゴを休み時間にクラスメイトと食べるなど、楽しい思い出も多くあった。しかし、楽しい思い出の裏には被災者としての苦労もあった。母子避難でかつ自主避難者である裕佳さんのお母さんは、住民票が栃木になく、自主避難は罹災証明もないので避難先自治体ごとに対応がバラバラで、医療費の申請や入学、転居、賃貸契約などの各種の手続きを行うのに多くの困難を感じていたそうだ。裕佳さんも、母親の苦労を間近で感じながら過ごしていた。
福島への帰還とカルチャーショック
小学校3年生の夏休みに転校して裕佳さんは再び福島に戻った。しかし、そこで彼女を待っていたのは、周囲との違いによる孤立感だった。栃木での生活に慣れ親しんでいた彼女にとって、福島での新しい環境はカルチャーショックそのものだった。例えば、栃木では先生とため口で話していたのに対し、福島では敬語が当たり前で、こうした文化の違いに戸惑ったという。クラスメイトとも、いわゆる「ノリ」が合わず、当時は栃木に戻りたかったそうだ。そのような中で彼女を支えたのは「本」の存在。心理学の本などを読み、周囲との違いを認めようと努力した。
「科学に基づく事実を広めることが必要」
中学時代、裕佳さんは福島でサイエンスアカデミアという化科学クラブに所属する。そこでの活動が科学に対する関心を深め、現在の進路を志すきっかけとなった。サイエンスアカデミアでは、「福島県の放射線とその意識」というテーマで、福島県の農林水産物に対する風評被害の払拭が重要であることを発表し、これが当時の原発事故に対する問題意識を表現する重要な場となった。
現在、山形大学工学部高分子・有機材料工学科で学んでいる裕佳さんは、原発事故に関して「過去の世代が作り上げたものではあるが、その事実を伝え続ける責任がある」と考えている。福島県では放射線に関する授業が行われているが、福島以外の地域ではその機会が減少していることに懸念を示し、基礎的な科学知識の重要性を強調した。被災者の証言だけでなく、科学に基づく「事実」を広めることが必要だという。裕佳さんの経験と学びは原発事故の教訓を未来に伝え、科学技術を通じて社会に貢献しようとする強い意志を映し出している。
今後いま、原子力発電の再稼働が行われているが、氾濫する情報社会の中でのメディアリテラシーと、自分自身で正しい知識をつけ、納得できる根拠で判断する姿勢が必要だと思った。(ラジオ学生やまもと)
「歴史に残る最悪の複合災害」としての原発事故
4月23日は「次世代に伝える。原発避難13年目ラジオ」。今回は宇都宮大学国際学部教授の清水奈名子先生をゲストに迎え、原発事故そして事故後の市民の取り組みについて話を聞いた。清水先生は震災や原発事故の話をするとき、当時を思い出して気持ちが沈むかもしれないと被災者のことを気にかけていた。しかし13年が経った現在も放射能は測定され、その影響は未だに続いている。震災当時を知る大人の責任として「何が起きたか」「何に気を付けなければならないか」を後世に伝えなければならないと、原発事故について話し調査や研究を続けてきた。
2011年3月11日に発生した東日本大震災。その被害の1つである原発事故では、地震・津波による機械の破損に加え、「常に冷やし、閉じ込め続けなければならない」核燃料が溶けて(メルトダウン)、放射性物質が外部に放出された。これは事故発生までは「起こらないだろう」とされており、歴史に残る最悪の事故だった。当時の被災者は、地震や津波の対策だけでなく、原発事故にも向き合わなければならなくなった(複合災害)。
ボランティアで土壌測定、甲状腺検査。健康を守るための活動
放出された放射性物質が市民の生活や健康にどう影響するのかを知るため、また不安な思いを解消したいと多くの市民がその調査にボランティアで取りかかった。その一つに土壌測定がある。放射性物質には様々な種類があり、その中でも放射性セシウム137は特に量が多く土に付着する性質を持つが、半減期までに30年という長い時間がかかる。福島県を超えて東北の県や栃木、群馬、長野にも被害は及んだ。結果は「みんなのデータサイト」(https://minnanods.net/)に土壌汚染マップが公開されている。場所や年度、農作物ごとに詳細な土壌汚染の数値を知ることができる。
がん発症240人の異常さ。でも国がやらない甲状腺検査。
他に甲状腺検査がある。放射性物質(放射性ヨウ素)は喉の甲状腺にたまりやすく、甲状腺がんを発症することがある。政府は福島県のみを対象として甲状腺検査をしたが、福島県周辺の栃木県、茨城県、群馬県、千葉県、宮城県にも甲状腺がんのリスクはあった。環境省に「周辺の県にも検査を」という要望が多数あったものの、政府は「そこまで影響はない」として検査は実施していない。
放射性物質と甲状腺がんの因果関係を正確に数値で示すことはできない。しかし100万人に1人か2人の発症と言われる甲状腺ガンは、原発事故以降に240人を超え、明らかに異常だった(注1)。そこで福島県外でも市民の手により甲状腺検査を開始した。検査をすることで不安が解消され、甲状腺がんの早期発見につながる。現在は原発事故当時子どもだった人が、自らの意志で検査をしに来ることもあるという。
◆ ◆ ◆
福島原発事故は世界史上最悪の事故となった。そして市民は自分たちの健康と生活を守るために立ち上がった。私たちは、それらを後世に伝えているだろうか。清水先生は「福島出身の人でさえ、原発事故を一から十まで説明できる人は少ない」と言う。
私たちラジオ学生は引き続き「あの日何があったのか、現在はどうなったのか」を追求し続けていこうと思う。(立花)
注1)2011~2013年までの3年間、0~18歳の福島県内の子ども26万9354人を検査した結果、甲状腺ガンの悪性ないし悪性の疑いは75例あった。通常0~18歳の甲状腺ガンは100万人に1~2人であり、50倍の発生率、明らかに異常である。政府や福島県は、小児甲状腺がんと原発事故の因果関係は「現時点で認められない」との立場だ。
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9月3日のがけっぷちラジオでは「生活困窮」をテーマに、健康格差とは何かに注目してお話ししていきます!ゲストは、栃木保健医療生活協同組合の日下部実さんです。私たちが病院へ行くとき必ず持って行く“保険証”。みんな当たり前に持っている物だと思っていましたが、実は様々な理由から持っていない人もいるんです。今回は、なぜ保険証を持ってない人がいるのか、その人たちは病院に通えているのかなどについて、「健康格差」という背景に着目してみなさんにお届けします!ぜひお楽しみに!
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(ラジオ学生:ちばなお)
「公民館で週2回、無料塾」どんな子どもも勉強できる場所
7月30日のみんながけっぷちラジオでは、小中学生を対象とした学習支援を行っている一般社団法人とらい代表理事の箱崎大稀さんをゲストにお迎えし、自身の活動についてお話を伺った。
箱崎さんは大田原市内の公民館で週2回、無料で子どもたちに学習支援を行う「タイガースクール」を開いている。活動のきっかけは子どもの学習において地域格差、経済格差をなくしたいという想いだったという。大田原市の中心部は学習塾が密集しているが、そこに通うには経済的余裕と送迎など親の協力が必要であり、学習塾で勉強できる子どもは限られている。箱崎さんはこのような現状を見て、どんな子どもも学習できる場所、また親にも安心して子どもを通わせることができる場所をつくりたいと、今年の4月から活動を始めた。多い日には10人以上の子どもたちが公民館に集まる。「こんなにたくさんの子どもたちが来るとは思っていなかった。それだけこの地域で学習の場に対する需要があったんだと改めて実感した」と話した。
家庭が安心できる、居心地の良い場所であるために
「宿題やったの?」「今やろうと思っていたよ」よくある親子のやりとりだろう。子どもが勉強をしているのか不安になって習慣的に聞いてしまう親も多いのではないだろうか。しかし、子どもからするとそれがストレスになっているかもしれない。箱崎さんは、このような互いにストレスになる状況を取り除き、家庭が子どもにとっても親にとっても安心できる居心地の良い場所であってほしいという。これもタイガースクールを始めたきっかけであるという。「ここで宿題を終わらせることができたら家で思いっきり遊べるね」。そのためにタイガースクールでは時間を細かく区切り、メリハリをつけて勉強することを心がけているそうだ。
「子どもたちはいつも元気いっぱいで笑顔なんです」。当初はそれに圧倒されて、場の作り方や運営方法に悩んだこともあったそうだが、今はこれが箱崎さんのやりがいでもあり、活動のエネルギーになっていると嬉しそうに話した。
活動の輪を広げて、大田原にたくさんの学び場を
タイガースクールのような無料の学習支援やフリースクールは他県と比べて栃木県はまだまだ少ない。箱崎さんはその若き先駆者として、子どもたちのために活動している。認知度は少しずつ上がってきていて、最近では行政に活動を紹介する機会もあったという。「今後は資金や人手を増やしてもっと活動の規模を広げていきたい。来年にはフリースクールも実現できたら」と話す。しかし、1人では限界がある。自身の活動に関する情報発信も積極的に行い、賛同してくれる人や同じような活動してくれる人が増えて、大田原市で子どもの学び場をつくる活動の輪が広がってほしいと語った。
(ラジオ学生 ながたき)
【寄付やボランティア大募集!詳しくはホームページまで】
一般社団法人とらい https://torai0914.wixsite.com/my-site
【アーカイブはこちらから!!】
「歴史に残る最悪の複合災害」としての原発事故
4月23日は「次世代に伝える。原発避難13年目ラジオ」。今回は宇都宮大学国際学部教授の清水奈名子先生をゲストに迎え、原発事故そして事故後の市民の取り組みについて話を聞いた。清水先生は震災や原発事故の話をするとき、当時を思い出して気持ちが沈むかもしれないと被災者のことを気にかけていた。しかし13年が経った現在も放射能は測定され、その影響は未だに続いている。震災当時を知る大人の責任として「何が起きたか」「何に気を付けなければならないか」を後世に伝えなければならないと、原発事故について話し調査や研究を続けてきた。
2011年3月11日に発生した東日本大震災。その被害の1つである原発事故では、地震・津波による機械の破損に加え、「常に冷やし、閉じ込め続けなければならない」核燃料が溶けて(メルトダウン)、放射性物質が外部に放出された。これは事故発生までは「起こらないだろう」とされており、歴史に残る最悪の事故だった。当時の被災者は、地震や津波の対策だけでなく、原発事故にも向き合わなければならなくなった(複合災害)。
ボランティアで土壌測定、甲状腺検査。健康を守るための市民活動
放出された放射性物質が市民の生活や健康にどう影響するのかを知るため、また不安な思いを解消したいと多くの市民がその調査にボランティアで取りかかった。その一つに土壌測定がある。放射性物質には様々な種類があり、その中でも放射性セシウム137は特に量が多く土に付着する性質を持つが、半減期までに30年という長い時間がかかる。福島県を超えて東北の県や栃木、群馬、長野にも被害は及んだ。結果は「みんなのデータサイト」(https://minnanods.net/)に土壌汚染マップが公開されている。場所や年度、農作物ごとに詳細な土壌汚染の数値を知ることができる。
がん発症240人の異常さ。でも国がやらない甲状腺検査
他には甲状腺検査がある。放射性物質(放射性ヨウ素)は喉の甲状腺にたまりやすく、甲状腺がんを発症することがある。政府は福島県のみを対象として甲状腺検査をしたが、福島県周辺の栃木県、茨城県、群馬県、千葉県、宮城県にも甲状腺がんのリスクはあった。環境省に「周辺の県にも検査を」という要望が多数あったものの、政府は「そこまで影響はない」として検査は実施していない。
放射性物質と甲状腺がんの因果関係を正確に数値で示すことはできない。しかし100万人に1人か2人の発症と言われる甲状腺ガンは、原発事故以降に240人を超え、明らかに異常だった(注1)。そこで福島県外でも市民の手により甲状腺検査を開始した。検査をすることで不安が解消され、甲状腺がんの早期発見につながる。現在は原発事故当時子どもだった人が、自らの意志で検査をしに来ることもあるという。
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福島原発事故は世界史上最悪の事故となった。そして市民は自分たちの健康と生活を守るために立ち上がった。私たちは、それらを後世に伝えているだろうか。清水先生は「福島出身の人でさえ、原発事故を一から十まで説明できる人は少ない」と言う。私たちラジオ学生は引き続き「あの日何があったのか、現在はどうなったのか」を追求し続けていこうと思う。(立花)
注1)2011~2013年までの3年間、0~18歳の福島県内の子ども26万9354人を検査した結果、甲状腺ガンの悪性ないし悪性の疑いは75例あった。通常0~18歳の甲状腺ガンは100万人に1~2人であり、50倍の発生率、明らかに異常である。政府や福島県は、小児甲状腺がんと原発事故の因果関係は「現時点で認められない」との立場だ。
NPO法人とちぎボランティアネットワーク「とちぎコミュニティ基金」は、休眠預金活用制度における助成事業の実行団体として採択、助成、支援を行った「栃木公立夜間中学校研究会」について、事業終了後に虚偽の報告、不正支出等が発見されたため、2024年5月9日、当該団体の選定の取り消し、助成金の全額返金の請求を行いましたことを報告いたします。
1.対象事業
2021年度 新型コロナウイルス対応支援助成事業(休眠預金活用事業)
実行団体名:栃木公立夜間中学校研究会(代表者 大橋衛 任意団体)
事業名:栃木夜間中学校設置推進PROJECT
事業期間:2022年6月1日~2023年2月28日
助成金額:2,000,000円
2.本件経緯と措置について
2022年3月16日 NPO法人とちぎボランティアネットワーク(以下、「当会」)とJANPIAとの資金提供契約締結後、4月5日~4月28日 実行団体の公募を行い、当該団体より助成金申請書の提出、受理、当会での審査を経て同年5月27日に採択通知、6月に資金提供契約(助成期間、2022年6月1日~2023年2月28日)ののち、当該団体の活動が開始されました。(助成金 200万円)
その後、事業完了となりましたが、2023年10月、当会に当該団体について不正の疑いについて外部関係者からの告発を受け調査を実施したところ、領収証の偽造等の疑いが明らかとなったことから、事業の選定取消が妥当と判断、本年4月に契約解除等に関する通知を行い、所定の手続きを経て選定取消の措置を講じました。
現在、支払い済みの200万円の助成金の全額返還を求めたものの、未だ返還には至っていないところ、本件への厳正な対応の必要性に鑑み、休眠預金活用事業の指定活用団体であるJANPIAとも協議の上、刑事告発を行うものとしております。
3.再発防止について
資金分配団体として、採択された実行団体において不正行為が発生したことは誠に遺憾であり、改めて当該実行団体選定から契約終了、現在までの状況を振り返り、発生の原因、どのような点に留意すれば再発防止につながるかなど十分に精査を行い、休眠預金活用事業の指定活用団体であるJANPIAにも報告し、再発防止に向けて取り組んでまいります。
7月9日のみんながけっぷちラジオでは、NPO法人自立生活支援センターとちぎ(CILとちぎ)の齋藤康雄さん(55歳)をゲストに迎えた。CILとちぎは、どんなに障害が重くても自分らしく地域の中で生活できるように、当事者が中心となって運営しているNPOだ。齋藤さんは高校生の時にプールへの飛び込み事故で頸椎を損傷し、首から下が動かなくなってしまった。今回のラジオの事前取材では重度障害者でひとり暮らしをしていて、20年前に齋藤さんと一緒にCILとちぎを立ち上げた箱石充子さん(84歳)にもお話を伺った。
自分でヘルパーを探し・育てる「重度訪問介護」
箱石さんが自立生活を始めた30年前の宇都宮のヘルパー制度は、週2回で、1回1時間の支援だった。全身性の重度障害者には全く足りず、暮らせなかった。介助は継続的に必要であり、会社員のようなヘルパーの時間割では生きていけない。そこで1970年代から障害を持つ当時者たちが政府に抗議・要求して作ってきたのが「重度訪問介護」という制度だった。2000年代から生活圏の拡大を図るための援助を24時間、365日受けることができるようになった。
生活の介助なので、自宅での日常生活のサポートや外出時の移動介護もする。約3日間の簡易な研修でヘルパー3級の資格を取ることができる。CILとちぎは利用者(障害者本人)が自分に合ったヘルパーを推薦し、登録する「利用者が主宰者である介護事業所」なのだ。
「自立とは、依存できるものを増やすこと」
斎藤さんは「自立とは、依存できるものを増やすこと」という。高校・大学の頃、親しか日常生活の介助を頼めなかった。食事も風呂も外出も、学校への通学もノートテイクも・・・。制度がないからヘルパーがいなかった。学校での支援もなかった。だが、こうしたものを社会が準備すれば頼っていける。いろんなものに「依存できる」という。
障害(ハンディキャップ=社会的不利)は健常と対極に位置するのではなく、社会が作り出しているのかもしれない。例えば、健常者が買い物に行くとき、自転車やバスなどの手段に頼っている。つまり「健常者にとっての依存先」を作っているのだ。買う食べ物だって誰かが生産したモノであり、依存の幅が非常に多い。障害者はその選択肢が少なく、これは社会自体が障害(ハンディキャップ)を生みだしているともいえるのだ。
日本では、健常者と障害者の教室や学校を分けた教育が行われる。そのため、小さい頃から相互に関わる機会が少なく、理解が進まない故に偏見や差別がある。すべての子供たちが共に学び合うインクルーシブ(包摂的な)教育が必要であり、この教育が社会によって作られる障害を減らす一助になるかもしれない。
【ラジオ後記】実は箱石さんにインタビューをしたとき、私が考えていた質問項目に「施設ではなく自立を選んだ理由は?」というものがあった。しかしお話を聞いて、自立したいという気持ちに理由なんていらず、この質問自体が私の中に「障害者=誰かに支えてもらう」という偏見があると気づいた。誰もが「1人暮らしをしたい」「自分で自由に選択したい」と思うはずなのに、結果的に障害者を別で考えていたことを私自身が体現していたと非常に恥ずかしく思った。地域でパワフルに生きる人たちは齋藤さんや箱石さん以外にももっといるはず。いろんな人と関わって、誰もが暮らしやすい地域社会に私も貢献していこうと改めて思った。(ラジオ学生とま)
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東日本大震災と東京電力福島第1原子力発電所の事故から13年が経った。そして今年の元旦には、能登半島地震が起き、今も多くの方が生活再建の道筋が見えにくい中で避難生活をしている。今回の能登半島地震の震源地近くにも志賀原子力発電所があった。
3月26日のみんながけっぷちラジオでは、「もしかしたら起きていたかもしれない原発事故」について原発避難の当事者である半谷八重子(はんがいやえこ)さんをゲストにお迎えし、特に「避難」にフォーカスして当時のお話を伺った。
大渋滞。避難は容易ではない。
半谷さんは当時、福島第1原発から3kmの福島県双葉町に自宅があった。地震発生時はこれまで経験したことのない大きな揺れに耐えるのに必死で、近くの高架橋が崩れているのにも気づかないほどだったという。そして揺れが収まった次の瞬間「原発はどうしたんだろう」と半谷さんの脳裏をよぎった。しかしこれまで「原発は安全安心」という神話を信じ込んで生きてきたため、危機的な状況であることなど疑いもしなかったと半谷さんは語る。
そして翌12日早朝、防災無線での双葉町全町民へ避難指示。この時も正しい情報はなく、2、3日でまた自宅に帰ってくるつもりで必要最低限のものを持ち、車で避難所へ向かった。しかし全町民の避難は容易ではなかった。道路は大渋滞で全く前進しない。半谷さんは普段2時間で行くことができるところを8時間かけてようやく避難所にたどり着いたそうだ。中には指示された避難所に行くことは諦めて他の町や親戚の家に避難した人もおり、町民はばらばらになってしまったという。
「2、3日が、一生になってしまった」
「またすぐ帰ってこられるだろう」。避難指示が出て家を出たときの予想は、だんだん情報が明らかになるにつれて消えていった。
「2、3日が一生になってしまった。ふるさとを置いて来なくちゃならない」。半谷さんのこの言葉には悔しさ、悲しさ、憤り、先を見通せない不安などたくさんの感情が込められている。そして双葉町から宇都宮市に避難し、新しい生活を始めてからもその感情は半谷さんの心の中にずっと残り続けている。桜を見ても綺麗だと思えない、椿の赤もピンとこない。13年経った今も「おめでとう」という言葉が辛く、年賀状が書けないと半谷さんは語った。
「語り継いでいくこと、自分の目で見ること」が大切
今の小学生は震災や原発事故を経験していない世代になる。このように経験していない世代が増えていく中で、私たちができることは何だろうか。
半谷さんは「語り継いでいく」ことだという。震災や原発事故の記憶を思い出すのは辛いことではあるが半谷さんはこの思いから今回のラジオ出演を決めたそうだ。また、実際に現地に足を運んで自分の目で見ることも必要だとも語る。
(ラジオ学生 ながたき)
7月2日のみんながけっぷちラジオでは、障害者グループホームEME社長の赤松里去子さんと入居者の長谷川涼華さんをゲストにお迎えし、障害者グループホームの暮らしについてお話を伺った。
障害者グループホームとは、生活に困難や不安を抱えている精神障害や知的障害のある人がサポートを受けながら共同生活をする場である。EMEには20代から60代の14人の入居者が、3人ずつに分かれて暮らしている。ほかにも独り立ちをし、必要な時にスタッフのサポートを受けながらアパートに1人暮らしをしている人もいる。
「愛し愛される」
赤松さんは、どんな障害をもっていても「その人らしさ」を大切にしている。1人1人の生い立ちや性格、考えていることに向き合い、その人がその人らしく安心して生きられるように寄り添いたいと話す。その想いは、入居者の長谷川さんにも大きな支えになっている。
「私にとってEMEは、夢と安心できる居場所と大きな成長をくれた場所。これまでは自分が夢や希望をもつことができない環境にいたが、ここに来て生活も精神も安定して、やりたいことをやりたいと言えるようになった。今は自分と同じ境遇の子どもたちを助ける児童養護施設の職員になるために勉強している」という。
そして赤松さんは、愛されることも大切だが、愛することも同じくらい大切だという。そのために各棟1匹ずつ保護猫を飼い、愛情を注ぎながら育てている。
ホーム名にもあるEMEとは、「愛し愛される」という意味。まさにホームとそこに関わる人たちの関係が表れている。
「福祉の型にはまらない」もっと開かれた助け合いの体制を
社会では障害や福祉に対するハードルが高い。そこで赤松さんが意識していることが、「福祉の型にはまらない」ことだ。例えば、福祉サービスというと支援する側とされる側が明確に分かれてしまい、支援される側からすると居心地が悪く感じてしまうこともある。だからこそ、EMEではあえて支援する側も自然体でいるようにしている。そしてこれからは「周りの人が感じる障害や福祉へのハードルを下げていきたい」という。誰かを助けたいという気持ちをもつ人がもっと気軽に関われるように開かれた助け合いの体制をつくっていきたいと話した。
困ったときに頼れる大人や制度をもっとしってほしい
入居者の長谷川さんは、「社会には困った時に頼れる大人や制度がある。グループホームもその1つ。だからこそ、もっとたくさんの若者にそのような存在について知ってもらいたい」と話す。自分がEMEという安心できる居場所を見つけられたからこそ、「1人で抱え込まないで」というメッセージを強く訴えた。
(ラジオ学生 ながたき)
今できることは、現地と繋がり続けること。困難に直面しても現場に居続ける
6月11日のみんながけっぷちラジオでは、公益社団法人シャンティ国際ボランティア会(SVA)から市川斉(いちかわひとし)さんをゲストに迎えた。SVAは、カンボジアやラオスをはじめとしたアジア7ヵ国8地域の子供たちへの教育支援と、緊急人道支援をしているNGOだ。いまだに紛争・戦闘が続くアフガニスタンやミャンマーでも活動している。現地では、「本」「人」「場所」の3本柱のもと、学ぶための本や教材を届け、安全に学べる場所である図書館建設に携わり、図書館員の育成を通して、学びが生まれ学びが続く仕組みづくりをしている。
人口の8割に支援必要:アフガニスタン、国内避難民200万人:ミャンマー
アフガニスタンやミャンマーの国名を聞いたとき、何を思い浮かべるだろうか。タリバン政権やクーデターなどの印象があるかもしれないが、実際は愛情深い国だ。例えばアフガニスタンは客人へのもてなしが手厚く、ミャンマーは助け合いの精神が強い。特にミャンマーは世界寄付指数調査で1位になったこともあるほど、人助けやボランティアに対する意識が高い。しかし、そのような国も今は平和とは程遠い状況にある。タリバン政権が指揮をとるアフガニスタンでは、国連やNGOは外での活動が制限されているにも関わらず、人口の8割が何らかの支援を必要としている。一方でミャンマーでは国軍と人々の闘争は続き、国内避難民は200万人以上となり人道危機も深刻である。
報道されないけど、苦しい状況は変わらない。NGOの意味は「つながり続けること」
ロシアのウクライナ侵攻やガザの空爆が起き、最近ではメディアでアフガニスタンやミャンマーの状況を伝えるニュースが格段に減った。しかし、報道されないからといって現場で何も起きていないわけではないのだ。メディアの報道は受け手に「何かしなければ」「自分たちにできることは何か」と考えるきっかけを生むが、報道されなければその気持ちは消えていく。「ボランティアの自発性は揮発性」と言われるように、ボランティアは気持ちも行動も続けることが難しい。しかし、現場で取り残されている人に目を向けることは必要であり、1人で活動すれば消えてしまいやすい自発性も、NGOという組織があれば続けられる。SVAは組織で現地とつながり続け、これからも平和のために現地の声を届けていく。
(ラジオ後記)メディアで報道されることがこの世界で起きていること全てを映しているわけではない。メディアから注目されずとも苦しい思いで生きている人たちは多くいる。その存在に気づくことの大切さと、このがけっぷちラジオがその気づきの場としての役割を果たしているのではないかと感じた。(ラジオ学生とま)
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5月28日「次世代に伝える。原発避難13年目ラジオ」。ゲストに「子どもの未来を考える会ハチドリ」から井田紫衣さん、「関東子ども健康調査支援基金」から木本さゆりさんを迎え、原発事故後の市民活動の話を聞いた。
自分の子どもだけじゃない。地域の子どもを地域で守る
木本さんは、震災・原発事故当時もから千葉県松戸市に夫、子ども二人で暮らしていた。2011年3月12日以降の原発事故の状況を見ると、かつてチェルノブイリ原発事故で子どもの甲状腺がんが多発したこと、汚染地域では遺伝子を破壊されたたんぽぽが巨大に咲くことが思い起こされた。また、3月23日には市内の金松浄水場で基準値を超えた放射性ヨウ素が検出されたため「乳幼児は水道水を飲まないように」と防災無線で警告され、母親たちは必死に水を買い求めた。その後ニュースで「母乳から放射性ヨウ素が検出された」と知り、木本さんは即座に避難しなかったことを悔やんだ。子どもに避難を提案すると、「友達と一緒じゃなきゃ嫌だ」と言われ、「自分の子どもだけ守るのでは子どもは幸せになれない」と知り、地域の子どもたちごと、地域で守らなきゃいけないと決意した。
関東子ども調査基金では、土壌調査を実施。結果、子どもたちの足元の土が放射線管理区域並みに汚染されたと分かり、自治体や国に健康調査の依頼をしたが受け入れてもらえなかった。ならば、自分たちで何とかしようと立ち上がった。ボランティアの医者と市民団体が土日に「甲状腺のエコー検査」を行っていて、関東一都6県全部を年に一度回っている。
「原発事故は他人事ではなかった」。母としての後悔
井田さんは震災当時、矢板にいた。津波の被害を報道で知って衝撃を受けたが、原発事故に対して怖いと感じることはなかった。しかし2012年に矢板市が「放射性物質の最終処分場」の候補地に挙がった時、初めて原発事故を自分事に感じた。そこで、友人の紹介で「放射能から子どもを守る会・塩谷」に参加するようになった。そして原発事故の重大性や、放射性プルーム(放射性物質を含む雲)が来ていたことを知らずに、当時高校生の娘を外の給水の列に並ばせてしまったことを後悔し、何かしなければならないと奮い立った。
子どもの未来を考える会ハチドリでも、2014年から関東子ども健康調査基金と一緒に甲状腺エコー検査を行っている。今年度は9月8日に宇都宮市、10月26日に那須塩原市、27日に矢板市と各会場で甲状腺エコー検査を行う予定だ。また、2013年には政府に市民の意見を届けるために、3人の議員を招いて「原発と放射能を考える座談会」を開催したり、座談会、お茶会、勉強会なども行ったりしている。
「核と人間の共存はできない」
震災・原発事故から13年が経った今、当時はまだ幼かった子が、大学生やになり、甲状腺検査を知らなかった2~30代が自分で検査を申し込むことが増えた。放射性物質は目に見えない。だから甲状腺検査は、「甲状腺ガン」が見つかった人も、何もなかった人にとっても「受けて良かった」と思えるものだ。二人はそのような声を聞くと意義のある活動だと感じている。
しかし同時に、核と人間は共存できないと強く実感した。もう一度原発事故が起こり、再びこのような活動をすることを繰り返したくない。だからこそ、原発と核の断絶のために声を上げ続けなければならないという。また、他の社会問題にも目を向けられるようになった。
これからも大切な人たちと生きていきたいという思いがあるなら、自分たちの手で未来を選ぶことができる。そのためには、自分で考えること、情報を取りに行くこと、裁判、投票、市民活動など、一人一人が出来できることを模索し、行動する必要がある。
(ラジオ学生 立花)
6/4のみんながけっぷちラジオでは、「里親」をテーマに、NPO法人青少年の自立を支える会 ファミリーホーム「はなの家」ホーム長の石川浩子さんをゲストにお迎えしてお話を伺った。
血のつながりだけが家族じゃない
石川さんがファミリーホーム「はなの家」で里親を始めたのは10年前。ファミリーホームとは、里親が5~6人の子どもと一緒に暮らし養育する、家庭養護の一種である。石川さんはこれまで10人の子どもを里親として育ててきた。そのほかにも短期で預かった子どもを含めると関わってきた子どもは30人になる。最初は24時間365日子どもたちと一緒に暮らす里親になることには覚悟が必要だったという。しかし、「血のつながりだけが家族じゃない。」はなの家に来る子どもたちを家族として迎え入れ、1人1人愛情をもって向き合っていると話した。「子どもたちは、様々な事情のもと、自分で暮らす環境を選ぶ選択権のないままここにやって来る。今日からここがあなたの家だと言われ、見知らぬ人たちと暮らし始めなければならない。そこで生き抜く子どもたちの大変さや頑張りを理解してあげてほしい。」と語った。
折り合いをつけて生きていく環境
石川さんは、児童養護施設で働いていた経験ももつ。しかし施設職員と里親では、子どもへの向き合い方が全く違う。施設の職員は「仕事」として子どもと向き合うが、里親はそれが「暮らし」の一部なのだ。時に子どもとぶつかり腹が立つこともあるが、家族ならばどこかで互いに折り合いをつける。親としてそれに向き合うことには覚悟が必要だが、子どもにとってこのような環境を通し「折り合いをつけて生きていく」ことを学ぶことは、非常に大切だと話した。
里親制度は「子ども」のための制度
家庭養護や里親養育が推進されている背景には、1989年に「子どもの権利条約」が国連で採択され、1994年に日本が批准したことがある。権利条約では「子どもが安全な環境で安心して生活するために守られるべき権利」が定められ、子どもが権利の主体と明記された。里親養育はこの考え方のもとに2016年から国が推進してきた比較的新しい制度である。
国の推進もあり、里親制度についての認知度は高まってきている。その一方で、「里親制度は子どもができない人のためのもの」という認識があることを石川さんは問題視している。里親制度はあくまで「子ども」のための制度である。まずはその認識を変えていき、その上で里親になる家庭を増やしていきたいと強く訴えた。
また、子育てのサポート体制に関しては、セーフティーネットや人のつながりの重要性を語った。「どんなに良い制度や支援団体があってもその情報にたどり着くことができない家庭もある。そのような家庭をいかに見つけ出し、関係機関につなげるかが課題。そのつなぎ役になる人をもっと増やす必要がある。」
(ラジオ学生 ながたき)
虐待や貧困、親の疾病等で家庭から離れて暮らさなければならなくなった子どもたちを社会で育てていく仕組みの1つに「里親」という制度があります。
6/4(火)のみんながけっぷちラジオでは、里親として長年子どもたちに関わってこられた石川浩子さんをゲストにお迎えして、里親養育の仕組みや社会の課題についてお話を伺います。是非、お聞きください。
(ラジオ学生ながたき)
4月30日のみんながけっぷちラジオでは、認定NPO法人キドックスの事務局長の岡本達也さんをゲストに迎えた。キドックスは、子供(kids)と犬(dogs)を掛け合わせたものである。名前のとおり、子どもや引きこもりの若者がボランティアで犬の世話をすることで元気になり、一方で保護犬も助かるというもの。子供・若者、保護犬(人と犬)の孤立をなくし、人間も動物も自分達らしく生きられる福祉社会の実現を目指している。拠点は茨城県つくば市だが、将来は宇都宮にもキドックスを作る予定だ。
引きこもりの若者も保護犬も「声なき声を持っている存在」
キドックスの活動は2015年に始まった。動物介在活動とは、例えば、犬や猫がいると高齢者の表情をニコニコさせたり、動物をなでようと腕を伸ばしたり、もっとよく見えるように自力で姿勢を変えさせたり、自ら行動を起こすきっかけを作ってくれる。これらを動物介在活動(AAA)、動物介在療法(AAT)という。キドックスの動物介在活動は、「人と動物の福祉」のどちらの向上を目指しているという。
「動物と人間の福祉は切っても切り離すことができない関係で、動物がケアされている環境や地域であれば人の福祉水準も高い」と岡本さん。「地域社会を先導するアニマルシェルター(動物の保護所)」で、飼い主がいない保護犬を里親へつないだり、不登校や引きこもりの子供が施設運営や保護犬に関わったりすることで「地域とつながる支援」をおこなっている。
「引きこもりの若者たちも、保護犬も『声なき声を持っている存在』で、社会の中で生きづらさを感じていても、その気持ちを発信伝えることができない。そのような共通点を持っている犬と人が輝ける場所です」と岡本さん。「若者や保護犬の成長に直接関わることができる」と話し、活動のやりがいを教えてくれた。
「関係性の貧困」とは「関係をつなぐものの貧困」かも
貧困とはお金がないこと、と思うだろう。しかし現代は周りの人とのつながりが希薄になる「関係性の貧困」が問題視されている。周囲に頼れる人がいない状況は人や動物にとって安心できる環境ではない。引きこもりの状態や、飼育放棄は「関係性の貧困」がある。
ある時キドックスに「犬を買い取ってもらえないか」と連絡をしてきた女性。子育てに疲弊していた自分の様子を見た夫が、「癒しになれば」と犬を買ってきたが、犬の世話と子育ての両立は難しいという。しかし、話をするうちに気持ちがポジティブに変わり、「もうちょっと頑張ってみる」と最後に言ったという。このように、動物を介して犬と人、人と人がエネルギーをもらえるコミュニケーションが重要で、「関係性の貧困」解消のヒントもこんなところにあるという。
(ラジオ後記)
動物介在活動は、人と動物の双方にとっての居場所となると知った。現代はインターネットによって世界をより身近に感じられる気がするが、関係性を築くうえで大切なのは目の前にいる1人に向き合い心を通わせることなのだ。岡本さんの心温まる話を伺って、ぜひキドックスを訪れたいと思った。将来宇都宮市にできるキドックスに注目していきたい。(ラジオ学生とま)
宇都宮より小さい都市に爆撃3.4万人死亡。110万人が餓死寸前
パレスチナのガザ地区を支配するハマスとイスラエルとの戦争が始まり、今月7日で半年。宇都宮より小さい面積のところに220万人が住み、フェンスで囲まれ逃げられない状況のガザ地区にイスラエルは爆撃や砲撃をし続け、これまでで民間人3万4000人が死亡した。さらにガザ地区への食料・水・燃料・医薬品などの供給をすべて止めているため、110万人が餓死寸前であり、深刻な飢餓状態が発生している。国連安全保障理事会で3月26日「ガザの即時時停戦を求める決議案」がアメリカの棄権でようやく採択された。だが、まだ戦闘は終わっていない。休戦交渉に向けた動きはある一方で、状況は悪化していくばかりである。4/9のみんながけっぷちラジオでは、この問題について日本国際ボランティアセンター(JVC)の職員としてパレスチナ支援に携わってきた並木麻衣さんをゲストにお迎えして、お話を伺った。
「おもてなし」をしないと気が済まない文化
並木さんは大学でアラビア語を勉強していたことでパレスチナへ留学した。その中で特に印象に残っていることは現地の人々の「おもてなしの心」だったという。並木さんを見るや否や、自分で飲んでいたヨーグルトを差し出してくれた少年や、皿の上の食べ物がなくなると止めどなく料理を出しておもてなしをしてくれた人など、パレスチナの人々の温かさに感激する日々だったそうだ。パレスチナの人々の暮らしや文化には美しいものがたくさんある。しかし日本のテレビや新聞では戦争の報道しかなされていない。だからこそ日本とパレスチナの心理的距離も遠いのではないか、と並木さんはいう。
パレスチナ問題はシンプル「日本だとアイヌの問題」
今パレスチナで起きていることがどのような問題なのか聞いた。並木さんはこの問題を「アメリカで言うとネイティブアメリカンの問題、日本で言うとアイヌの問題」と表現した。元々暮らしていた人々の土地が別の人種(民族)によって奪われる。そして追放された人々は生きる場所、そして生きる権利さえも失う。つまり先住民問題だということだ。アメリカにも日本にもかつてこの構図があった。このパレスチナ問題も100年前の「シオニズム」によるヨーロッパからのユダヤ人入植運動から始まっている。それは19世紀末からのユダヤ人排斥運動が発端となる歴史的背景がある。この人権侵害を許せるかどうか。宗教の違いなど難しそうなイメージをも持たれがちだが、パレスチナ問題は「日本人が思っているよりシンプルな問題」だと並木さんはいう。
アドボカシー。「弱者の代弁」が私たちのやるべきこと
「これは戦っている二者間だけの問題にしてならない。悪を国際社会が許さない姿勢を取り続けることが重要」だと強く語った。JVCでもいくつかの声明を出し、日本政府や国際社会に対して「訴える活動」をしてきた。
しかし、まずは日本人にもパレスチナのことを知ってほしい。食事、服装などの暮らしや文化から興味をもち始めても良い。「パレスチナは遠く離れた未知の場所ではない、パレスチナ問題は日本に無関係な問題ではないという認識をもつことが今の私たちにできることの第一歩だ」と語った。
その上で、「声を上げる」という次の行動に移すことも重要だと話した。その1つの手段が「デモ」だ。日本では、「怖い」という感情をもつ人が多いが、これは正当な権利行使である。実際に都心では毎日のようにデモが行われている、とコメントおじさん。イスラエルが行っている残虐な行為を訴え続けている人々がたくさんいる。悪人を見て見ぬふりをして、悪人に加担するのか。1人1人の行動に数百万人の人の命がかかっている。(ラジオ学生 ながたき)
3月12日の「NPO・市民に聞く戦争と平和ラジオ」では、沖縄シリーズ3回目の谷山博史さん。谷山さんはかつて日本国際ボランティアセンター(JVC)スタッフとしてアフガニスタンやタイ、カンボジアで活動していた。現在は沖縄に移住し、戦争や平和を取り巻く問題の活動をしている。今回は、そのような沖縄の市民活動についてお話を伺った。
1999「米兵少女レイプ事件」8.5万人抗議、2007「教科書〝集団自決〟記述削除問題11万人抗議・・・
悲惨な沖縄戦の歴史から、沖縄県民にとって米軍基地は重い負担となっている。現在は米軍基地に対して、辺野古〝新〟基地のキャンプ前での座り込みや、谷山さん自身も参加している基地埋め立ての土砂を運ぶ港での抵抗運動が行われている。そのような抵抗運動は戦後すぐ80年前から何度も行われてきた。
まだ米軍の統治下にあった1956年、米軍が基地の地代を払う条件が非常に悪かったことから、それに反発して15万人集会が行われた。
また、1970年にはコザ事件(コザ騒動、コザ暴動)が発生、5000人もの住民が米軍の車を焼き討ちにする激しいものだった。発端となった「軍人が住民をひいた交通事故」が騒動に発展する背景には、長年の米軍・米兵の犯罪があった。米軍統治下の沖縄ではアメリカ憲法にも日本国憲法にも属さず、犯罪者の捜査・逮捕・裁判がまともに行われない状態が続いていた(ウィキペディアより)。当時の琉球警察はそのことに共感したのか、事件参加者に重い処罰を与えなかったという。
さらに、1995年に小2の少女を米兵がレイプする事件(沖縄米兵少女暴行事件)には8万5000人が抗議。これに対して日本政府とアメリカ政府は普天間基地を返還することを約束したが、基地を辺野古に移動し新基地が建設されてしまった。
加えて、2007年には国の教科書検定で、沖縄戦の「集団自決強制」の記述を削除することなった。これに反対する県民集会(沖縄県における「集団自決強制」削除の教科書検定を巡る県民大会)がおこなわれた。県民11万人が集会に参加した。反発の大きさに、国(文科省)は、記述は復活した。
このように、全県で米軍基地問題や戦争美化に抵抗をする歴史が何度も繰り返されてきたのだ。
「世代や立場は問わない」。平和の問題
運動の参加者にはシニア世代が目立つが参加者は彼らだけではない。沖縄では米軍の垂直離着陸輸送機であるオスプレイの落下事故が相次いでいる。普天間基地にオスプレイが配備された2012年には、10万人の県民集会が行われ、県内全ての41の市町村の長、41市町村議会議長が反対の建白書を提出した。さらに東京の銀座で反対のデモを行った。
また、辺野古新基地の埋め立ての是非を問う県民投票が行われた時は多くの反対投票があった。しかし、未だ強硬に基地建設が継続されている。
もしアメリカと中国が戦争を開始すると、真っ先に沖縄が戦場となってしまう。この現状に対して、「沖縄対話プロジェクト」や全県の70の平和団体が集まり「沖縄を再び戦場にさせない県民の会」が発足した。昨年11月に主催した「県民平和大集会」には1万人が参加し、シニア世代のみならず若者も多く集まった。
このような沖縄の問題を、栃木に住んでいて知ることは滅多にないだろう。メディアが全国規模でそれらを取り上げる機会が少ないからこそ、全3回にわたる「NPO・市民に聞く戦争と平和ラジオ」は非常に貴重であり、情報操作や米軍基地問題などについて考えさせられる内容であった。(立花)
4月23日のみんながけっぷちラジオ、ゲストは宇都宮大学国際学部教授の清水奈名子先生です。清水先生は主に国際関係論を専門に研究していますが、今回は、東日本大震災後に発生した原発事故や、その後の市民活動に関するお話を伺います。
東日本大震災、原発事故から13年が経ちました。
原発事故とは何だったのか。どんな影響があったのか。また、その後被災地に残った市民は生活を守るためにどのような活動を続けてきたのか。それらを詳しくお聞きします。
ミヤラジ(77.3FM)にて毎週火曜19:00~20:00オンエア!
お楽しみに!
(立花)
パレスチナガザ地区を支配するハマスとイスラエルとの戦争が始まり、まもなく半年が経ちます。
4/9(火)のみんながけっぷちラジオでは、JVC(日本国際ボランティアセンター)でのご経験をもち、パレスチナに長年関わってこられた並木麻衣さんをゲストにお迎えし、一緒にこの問題について考えていきましょう。
是非お聞きください。
(ラジオ学生ながたき)
東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故から13年が経ちました。
3/26(火)のみんながけっぷちラジオでは、これまでメディアではあまり語られてこなかった「避難」の実態について、避難を経験された半谷八重子(はんがいやえこ)さんをゲストにお迎えしてお届けします。
ぜひお聞きください。
(ラジオ学生 ながたき)
「関東の人は福島の原発が関東の電気を作っていることを知らない」
10月21日の「若者に伝える原発避難」の準備で原発事故前と後で人々の原発に対する印象が全然違うことを知り驚いた。原発事故前、原発は環境にやさしく、町を潤してくれる良いものとして捉えられていた。今の原発が完全な悪というわけではないが、当時、原発に対して危険性を感じていた人は少なかった。三浦さんは原発事故前、東北電力から説明をもらい原子力発電所の見学に行った。そこで廃棄の問題を質問したのだが、うまく流されてしまい、少し不信感を感じたとのことだった。でも、「大きな産業や観光がないところの雇用の場になっていた」と語る三浦さん。そして避難して思ったのは「関東の人は自分たちの電気が福島で作られていることを知らない」ということだ。やはり「危ないものは関東エリアにはなく、現実問題、今回のような事故が関東であったら避難者の数は相当な数になっていただろう」と。危ないものは地方に押し付けるという印象があるが、父が原発で働いていたから大学に行けたという人がいるのも事実。一概に悪とも良とも決められないところに難しさがあると感じた。また、この原発が関東の電気を作っているのだから、関東の人ももっと自分事として原発について考えるべきなのではないかと感じた。
15分で通れるところを2時間かけて避難
12日のうちに避難をした三浦さん。すぐに帰れるだろうと思っていたが、その日の18時にまた移動することになり、普段15分で行けるところを渋滞により2時間かかっての移動になったという。そして、14日の夜に原発が爆発し、より遠いところに移動したほうが良いと言われた。三浦さんは「危険だったが行く場所が決まらないとなかなか避難できない」し、「どこまではっきりした情報なのかわからない」と原発避難の大変さを語った。放射線はどんどん広がっていくため、より遠いところに避難しなければならない。県外に避難するというのも原発避難特有のものかもしれない。また曖昧な情報で判断しなければならない不安もある。そして「辛いのは放射能があるから灯油が来なくなっていた」ことで、「早朝などの寒い時だけストーブをつけていた」という。
一つの教室に寝たきりの人が並んでいた
障がいを持つ人や高齢者などの弱い立場の人にとって避難はとても大変なものだと語る三浦さん。避難所では面倒見切れない寝たきりの人が一つの教室に並べられていたという。自分でトイレに行くことができず、異臭がし、とても劣悪な環境になっていた。また、原発避難は放射線検査のためにバスで色々なところにまわされることが多かった。冬で寒かったこともあり、バスの移動途中で亡くなる人も少なくなかったという。原発事故による死者はいないとの声もあるが、このような話を聞くと明らかに原発事故による被害だといえる。原発避難は避難する数が違うため、それによる被害や死は相当なものだったのではないかと思う。
(加藤)
毎週火曜19時~のみんな崖っぷちラジオでは、毎月第2火曜に「NGO・市民に聞く戦争と平和ラジオ」を放送してます。1月、2月、3月は沖縄の「作られる戦争・辺野古〝新〟基地問題」として日本政府・米軍の憲法無視、民意無視と、国内マスコミが書かない問題を取り上げてます。2月は「土地規制法と自衛隊米軍基地の拡大」の問題として戦前の治安維持法と同じような言論・行動の自由を取り締まる法律ができて、運用されつつある沖縄と、敵基地を攻撃できる長射程ミサイル配備が行われいる今を伝えています。3月は若者含む1万人が「殺しあうのではなく、愛しなさい」と、1万人県民集会を実施し、中国・台湾とも対話する「沖縄対話プロジェクト」の話をしてまことしやかに言われる台湾有事問題について話します。(公開準備中)
来月4/9は「ガザ・パレスチナと日本のNGO」として、虐殺と餓死で50万人以上のの命が亡くなる瀬戸際にある状況危ない状況を放送します。youtube聞いてください
ミヤラジ・火曜19:00~「アプリで聞けます」
本日、3/12のみんながけっぷちラジオは、「NPO・市民に聞く戦争と平和ラジオ」。
ゲストは沖縄からZoomでつなぎ、谷山博史さんにお話を聞きます。
今まで2回にわたって谷山さんに出演していただき、3回目となる今回は台湾有事やそれに対する市民の取り組みについてお聞きします。ぜひお聞きください!
(ラジオ学生 立花)
2月6日のみんながけっぷちラジオでは、NPO法人北関東医療相談会・AMIGOS理事長の長澤正隆(ながさわ・まさたか)さんをゲストに迎えた。北関東医療相談会は、国内にいる「認定されない難民生活者」に光をあて、「すべての人が健康で平和な生活ができる共生社会の実現」を目指すボランティア団体である。生活困窮している外国籍住民の検診、検診結果の説明、要治療者のフォロー等を実施している。今回は、NPOの活動内容やそこから見えてきた日本社会の現状や課題を探った。
移居ダメ、働いてはダメ、健康保険なしの「仮放免者」
仮放免者とは、在留を認められず強制退去をしなければいけない外国籍の人たちだ。本来は入国管理施設に収容されるが、「条件付き」で身柄を解放されれば仮放免者となる。解放とはいうものの、住所変えてはいけない、働いてはいけない、健康保険に入れない。保険証があれば3割負担だが、ないので全額負担だ。また、在留許可でないため就労が認められていない。家賃や食費などの生活費を稼げないだけでなく、病気になっても病院にかかることのハードルが非常に高いのが現状だ。
医療費、生活費、交通費、食料すべて寄付。4年で6000万円
北関東医療相談会の前身は、1997年に群馬県で発足した「外国人の為の医療相談会」である。相談会には栃木県など関東一円の外国人が多く参加したそうで、ニーズに応えようと活動範囲を広げた。相談会に来る人の約90%が仮放免者だ。健康診断だけでなく、食糧配布や交通費の支給、家賃等生活費支援をする。2020年から4年間の支援額は6000万円以上にのぼる。そのほとんどが寄付で支えられている。公的サービスにアクセスできない仮放免者の頼りの綱となっている。
「声にならない声」を代弁する
今の日本社会では、仮放免者を含む「すべての人が健康で平和な生活を送ることができている」とは言い難い。仮放免者が現状を訴えたくても言葉の壁があり、声を上げること自体が難しい。長澤さんは、「声にならない声を代わりに出していく」必要があると話した。問題が可視化されていないだけで、ここ栃木にも社会的に脆弱な立場の人々が多くいる。私たちは彼らの状況に目を向け、誰もが暮らしやすい環境づくりに関わっていく責任があるのではないだろうか。(ラジオ学生とま)
1月30日のラジオでは那須塩原市にある一般社団法人Apple Base(アップルベース)の原田幸希(はらだ・さき)さんをゲストに迎えた。Apple Baseは家でも学校でもない、また塾や学童とも異なる「子どもの第三の居場所」である。子どもたちの「やりたい」に常に耳を傾け、子どもたちはその「やりたい」を実現することに力を注いでいる。
原田さんは、リハビリ職である作業療法士として病院に勤務していた。が、子どもの発達障害への興味や、大学生の頃のつながりからApple Baseの立ち上げにかかわり、現在に至った。原田さんに具体的な活動やエピソードをお話していただいた。
利用条件なし。誰でも来れる
Apple Baseは、放課後に子どもたちが来るが、利用条件を定めていない、誰でも利用可能な場所になっている。そのため、学校や学年が異なる様々な子どもの交流のきっかけともなる。また、子どもたちが安心して過ごせるような空間づくりや、非認知能力の育成も目的。だから時間割やスケジュールをあえて設けず、自分自身で、自分が何をして過ごすのか決めてもらうという。つい大人が子どもに手を出してしまうことも多い。自分で決めるので、自分で考え、選び、行動することができる能力、生き抜く力が身につくという。実際に子どもたちは、スタッフや友達と話したり、工作や調理活動をしたりと様々なことを楽しんでいるそうだ。
全部自分たちで計画・準備・運営
子どもたちが自分たちの「やりたい」を追求できる環境の中で、子どもたちのやりたいことに対する熱意や生き抜く力が現れていたと感じたのは、宿泊学習の話だった。宿泊学習も、企画や準備などすべて子どもたち自身で行うという。子どもたちだけで「どのように宿泊学習を行ったら良いか」と話し合い、企画書・パワーポイントのスライドをスタッフに持っていき、プレゼンをする。意見やアドバイスをもらい、調理活動などの準備も踏まえた上で、試行錯誤の末に進めるという。この話を聞いて、宿泊学習は子どもたちの「やりたい力」の育成に大きな影響を与えると感じた。子どもたち自身で創意工夫して自主性を育むことができる活動は、家でも学校でもない、「第三の居場所」だからこそできるのだなと思った。
「子どもたちに耳を傾けること」が関わりを築く
原田さんに、子どもと関わる上で大切にすべきことを聞いた。
「とにかく、子どもたちの声に耳を傾けること」とシンプルな答え。意思疎通は、否定せずに耳を傾けることで、子どもが大人と相談できる関係性を築くことができる。子どもの考えや感情を知れるだけではなく、子どもが話すことで抱えていたものを少しでも解消することができる。また、声を聞き続けることで、子どもが大人のしてほしいことを受け入れてくれるようにもなるという。
開設されてからまだ若く、勢いのあるApple Baseの活動は非常に興味深いものであり、改めて子どもたちにとっての「第三の居場所」の必要性を感じることができる話だった。 (立花)
今回は、宇都宮市峰地区で〝宮っ子の居場所〟を運営する、工藤光一郎さんに話を聞いた。工藤さんは大学で建築を専攻する傍ら、休日にはこどもたちの居場所づくりに励んでいる。
学童のスキマをついた強み
「子供たちの居場所」と聞いて多くの人が連想するのは、学童のような場所だろうか。「みねっこと大学生のひみつきち」はそういった場所とは一味違う。
工藤さんは、「ひみつきちが開かれるのは平日ではなく日曜日。さらに地域の大人だけでなく年齢の近い大学生と交流できる。あえて学童が休みの日曜日に開いていることや縁遠い大学生と遊んだり話したりできることがここの強み」だと語った。
シャイでも行ける、ひみつきち
「一人でもふらっと訪れやすい」というコンセプトがある。空き家を改築したこの場所は、少し周囲から分かりにくい。一見すると不利に思われるこの環境について「僕が子供だった時のことを考えると、恥ずかしくて、開いた場所に遊びに行くのに抵抗があったんです。だから、そういった子にも気にせず来てもらえるような空間を作りました。」という。
子どもの心は繊細だ。そういう機微をとらえた子どもに近い大人の発想だと思った。
これからの「ひみつきち」は子供だけじゃない!
みねっこと大学生のひみつきちの今後について、工藤さんは「子供たち以外の世代にも来てほしい」という。もともと地域住民の居場所が目的だったこの場所に、高齢者にも来てもらえる工夫をするつもりだという。企画しているのが「スマホ教室」。大学生がスマホの使い方を教える。こどもたちでなく世代を問わず集まれる場所を目指している。
・10日後に戻ると、避難できない高齢者が家の中で亡くなっていた…
当時双葉町の役場職員だった今泉さん。公務員は災害時でも町民の安全を守る仕事がある。非難の声かけや情報の提供、食事の提供を行ったという。また、1000人もの町民の安否確認を一人一人行った。さらに、「避難所の移動」に伴う避難計画、輸送計画、部屋割りなど決めることがたくさんあり、ゆっくり寝られる日はほとんどなかった。
避難して10日後に、仕事で双葉町に戻った。少ない情報をもとに、残された高齢者を避難させる。しかし、冬だったこともあり、「家で亡くなっている人もいた」という。
やはり「避難に援助を必要とする人」を救うには日ごろから地域のつながりを強めて、逃げ遅れている人に声をかけ、協力し合う「コミュニティ力」が大切だろう。原発避難はそういうことすらできなかった。
今泉さんの知り合いは、「10日間雑草を食べて何とか生き延びた」という。
・地震、津波、原発。「3つの避難」の対応という公務=激務
双葉町は最初に地震による建物の崩壊から逃げ、さらに津波から逃げ、それから原発事故による放射線から逃げと3つの避難が同時に押し寄せた。当時は相当大変な状況であったことが目に見えてわかる。
そんな中でも公務員は町民を守るという使命から仕事をしなくてはならず、職員の中には家族を亡くし、つらい思いで仕事をしていた人もいたという。今泉さんも1か月間家族と会えず、連絡も取れず、安否のわからない状況で仕事をしていた。情報が入らないなか、町民からは判断を迫られ、夜まで寝られない状況が続いた。「判断する立場の人は、重い責任がのしかかるから相当大変だっただろう」と今泉さんは語った。
・12年経った今も避難状態。「宙ぶらりん」な政治参加・社会参加
今泉さんは今埼玉県上尾市に住んでいるが、住民票は双葉町のまま12年が経とうとしている。「(町の)情報が入ってこないのが一番不安だ」と今泉さん。
また、住民票の問題で「政治参加・社会参加については宙ぶらりんな状況」にある。住んでない町の選挙は少ない情報で候補者に投票し、今住んでいる町の選挙はもちろん、決め事にも参加できないのである。本来平等にあるべき参政権。この状況は平等と言えるのだろうか。
「同じように原発事故があったチェルノブイリでは明確に、逃げる権利があるとし、逃げた人全員に補償をしている。逃げない権利も認めている。しかし、日本はそこをあいまいにしている」と海外と日本の対応の違いを語る矢野さん。
今泉さんも「日本は自治会を抱えているため、広範囲の避難はパニックを起こす。自治会が大きな動きをできなくさせているのではないか」と自治会制度の問題点を語った。もちろん海外と日本では制度が違うこともあり、難しいこともあるかもしれないが、チェルノブイリのような対応は積極的に取り入れていくべきだと思う。
(加藤)
・避難所の夜に民謡大会 「笑い声。みんなの顔つきが全然違った」
地震が起きたとき帰れず、働いていたデイサービスセンターに泊まった。それからは利用者や職員と一緒に避難所を転々としていた北村さん。社会福祉協議会の職員だった。
当日は、何が起こっているのかわからなかった。でもそんな「説明できないこと」について話していても仕方ないし、「夜には寂しくなるだろう」からと、震災の日、泊まるデイサービスセンターで「民謡大会」を行ったという。
やはり初めての避難場所での泊まりは落ち着くことができず、眠れない人も多かった。民謡大会は楽しく開催でき、時々笑い声も聞こえ、みんなの顔つきが全然違った。「このような非常事態にそういうことをしてよいのか不安もあったが、自分も落ち着くことができた」という。
北村さんは「今の状況を説明できず、何をしたら落ち着くことができるのかと考えた時に目線を下げて寄り添うのが大事だ」と語った。
避難所の「さいたまアリーナ」ではボランティアや専門の人が避難者の倍くらい来てくれたから任せて、「自分たちは自分たちにできることをした」という。一人一人平等に話を聞くようにし、食事や排泄の介助を行った。
アリーナでの夜は、小さい子供がいる職員は家族優先で帰宅する。だから10人の介護士で50人以上もの高齢者の介護を行ったという。避難所には要介護の人も一緒なため24時間付きっきりで1か月間そのような生活をすることになる。想像するだけでも大変な生活だっただろう。加えて一人一人に話を聞く。このような北村さんたちの働きが避難者を少しでも安心させたのではないかと思う。
・「避難者は日常を求めている」
避難所には「避難者よりも多くのボランティアが来てありがたかった」と感謝する北村さん。「ボランティアには避難の状況を知ってほしい、見てくれるだけでよい。それだけでも意味があるのではないか」と語った。一番多かったのは「歌を歌いに来るボランティア」だった。しかし、中には要望していない歌もあった。それが「ふるさと」だ。そこには家族を亡くした人や家が流されてしまった人もいて、その歌を歌われたのは相当つらかったという。嫌がっている人もいた。
このように、良かれと思ってボランティアしに行ったのが、逆に傷つけてしまうこともある。また炊き出しでも、カレーや焼きそばばかりで毎日食べるわけにはいかない。だから団体が集まって話し合い、毎日違うものが食べられるように調整したところもあったそうだ。矢野さんは「最初に行くボランティアと、1か月後2か月後に行くボランティアは全く内容が異なるし、支援者がいる避難所と、いない避難所でもボランティアの在り方は違ってくる。また昼行くのと夜行くのでも全く異なる」と。ボランティアと一言でいっても、内容やありかたは広範囲に多岐にわたっている。
また「避難者は日常を求めている」と語る北村さん。特別なことではなく、折り紙や読書、洗濯、化粧など日常に戻れる一コマを感じさせるものもよいのではないかと思った。
(加藤)
本日のみんながけっぷちラジオ、ゲストは
那須塩原市にある一般社団法人Apple Baseから、原田幸希(はらださき)さんです。
2023年4月に開所したApple Baseは、子どもが自由に過ごせる、やりたいことが出来る子どもの居場所です。
そんなApple Baseを立ち上げるまでに、
原田さんはどのようなキャリアを経たのか、またどのような思いや熱意で立ち上げたのかなど、沢山深堀りしていきます!
ぜひお聞きください!
(ラジオ学生 立花)
1月9日の「NPO・市民に聞く戦争と平和ラジオ」では、沖縄から谷山博史(たにやまひろし)さんをゲストに迎えた。谷山さんはNGO「日本国際ボランティアセンター(JVC)」スタッフとしてアフガニスタンやタイ・カンボジアで活動してきた。現在は沖縄の基地問題や台湾有事のシンポジウムを開いている。今回は自身のNGOでの経験や基地問題の歴史と現状をお聞きした。
「つくられる戦争」情報操作もアメリカのやり方
谷山さんがJVCの活動でアフガニスタンを訪れた時は、まさにアメリカの「対テロ戦争」の時代だったという。現地で人道支援をするが「アフガニスタン人スタッフは、家族や親戚の誰かを米軍に殺されていた」という。大国が戦争を正当化し軍事力を行使する状況を目の当たりにした。「正しい戦争、仕方のない結果だ」と報道されるのも、意図的な情報操作であることも多いという。
それを谷山さんは「つくられる戦争」という。悪いイメージを持たれている国(中国、北朝鮮…)でも実は日米、日韓の軍事演習などが事前にあり、挑発されたり脅されたりしている場合もあるし、情報が切り取られている(隠されている)可能性もあるという。「対話」を避けて戦争に走っている状況で「仕方ない」という文言で片づけることは許されない。
殺人・暴行・発がん性物質汚染、墜落事故、土地収用…米軍基地の被害
沖縄の歴史と差別についても語ってくれた。独立国だった琉球王国は薩摩藩の過酷な支配のあと1879年に日本に併合された。その後も沖縄人への差別が続く。特に本土の「捨て石」にされた沖縄戦は残酷な歴史として知られている。県民の4人に1人が亡くなった地上戦では、集団自決などで多くの市民が犠牲になったという。だから「軍隊は住民を守らない」が県民の教訓となった。
戦後も1972年に本土復帰するまで米軍の統治下におかれ、今も日本全体の70%の米軍基地が沖縄にある。復帰後にも「土地の強制収用」などの無法行為があり、日常でも米軍兵士による暴行、殺人、基地からの発ガン物質汚染、墜落事故…がある。県民の反感があるにもかかわらず、その意志を政府は無視している。
基地反対が沖縄の民意 無視して辺野古移設を強行する国
27年前、沖縄米兵少女暴行事件で起きた空前の6万人の県民デモ。その声に応えて普天間基地を返還することに合意したかに見えた日米政府だったが、それは名ばかりで、実際には新しい基地創設を切り出した。それが辺野古基地である。先月には、基地の海面埋め立て工事を許可しない沖縄県に代わり工事を承認する「代執行」の訴訟で国の主張が認められた。国が県を訴えるという前代未聞の事態である。米軍基地問題はまさに今も続いている問題なのである。
見えてきたマスコミによる情報格差(情報隠し)
谷山さんや市民が参加する基地建設阻止デモや代執行の申立は、本土でどのくらい報道されているのだろうか。見えてきたのは、マスコミによる構造的な情報格差(情報隠し)だった。問題だらけの基地問題だからこそ、避けずに関心を持つ必要がある。現に沖縄県民の声は、デモや沖縄県内の報道などを通して十分形に表れているはずだ。
私は昨年沖縄を訪れ、その自然や人々の美しさに感動した。その沖縄で昔から今まで起きていることは決して他人ごとではなく、沖縄のニュースにさらに目を向けていこうと改めて思った。(ラジオ学生とま)