1月27日の「次世代に伝える、原発避難15年目ラジオ」では、アマチュア写真家の管野千代子さんをゲストに迎え、「震災を写真で伝える」というテーマでお話を伺った。管野さんは宮城県角田市出身で、結婚後、原発事故で避難するまで福島県の浪江町で暮らしてきた。現在は栃木県の那須塩原市に移住している。各種フォトコンテストで入賞し写真展の開催も行ってきた。写真展「飯館村の暮らし」を2012年から2018年にかけて全国各地で開催し大きな反響を呼んだ。
一時的だと思った避難生活は“一生”になった
地震発生当時、管野さんは郡山市内でタクシーに乗っていた。突然の大きな揺れでタクシーは停車し、近くの木造住宅があっという間に倒壊する光景を目の当たりにした。「とんでもないことが起きた」と直感した。数年前にみた映画『日本沈没』の映像が頭をよぎり、日本が本当に崩れてしまうのではないかという恐怖に襲われたという。
その後、なんとか浪江町の自宅へ戻ることができた。道路の亀裂を避け、慎重に進み、幸運にも大きな被害は免れた。自宅は本棚や食器棚が倒れ車庫の屋根も壊れていたが、住めない状態ではなかったという。その夜はテレビもラジオもつかず、海岸部が壊滅的被害を受けていることも原発が危機的状況にあることも知ることができなかった。
翌朝7時頃、町の広報車が「原発が危険な状態にあるため直ちに避難を」と呼びかけた。「2、3日で戻れるだろう」という軽い気持ちでバック一つで避難所へ。避難が一生続き、二度と故郷に帰れなくなるとは思いもしなかったという。避難所で責任者から「長期間の避難になるでしょう」と告げられた瞬間、胸が凍りつくような感覚に襲われた。
「記録しておかないと」。使命感で浪江の姿を写し続ける
そんな中で管野さんは写真を撮り続ける決意をした。浪江町にあった海、畑、山の姿は原発によって壊滅したが、その様子をカメラで撮り「記録として残さなければならない」と思ったという。「文章では伝えきれない、言葉にもできない思いを、写真でなら残せる」。そう思って写真を撮り続けたと言う。
原発事故と津波がどうやって町を壊滅させたのか
そうして生まれた写真集『飯舘村の暮らし』には、畑仕事をする人、運動会ではしゃぐ子どもたち、穏やかな笑顔が並ぶ。どれも特別ではないごく普通の日常。しかしその“普通”こそが、原発事故によって奪われたのだ。
“トラック=希望の象徴” 写真集「故郷」の表紙に込められた思い
この写真は、管野さんが制作した写真集である「故郷」の表紙に使われている写真だ。海沿いにある建物から撮影した。鉄筋造りだったため形は残っているが中は津波で流されて何も残っていない。その建物の割れたガラスの向こうには電柱がありトラックも走っていた。浪江町は壊滅的な状態になったが次第に復興へ進んでいっている様子がうかがえる。破壊の象徴である窓と、その先にある再生の兆し。そこには絶望だけでなく、「浪江町が次のステップへ進んでいくのかなぁ」という希望も込められている。
《編集後記》
管野さんの写真集「飯館村の暮らし」には原発事故以前の日常を写した写真が納められている。ふくしま復興情報ポータルサイトによると平成24年5月には、約16万人が県内外へ避難した。その一人ひとりの故郷での日常が奪われたことを考えると、原発事故とその後の対応の不十分さへ憤りを感じる。
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https://www.youtube.com/watch?si=jKWOHOfPd-plQh9u&v=OMnoBcJrI7o&feature=youtu.be
