「元に戻してくれるなら何もいらない」。故郷の喪失=原発避難者の思い。

 2011年3月11日14時46分…日本列島を大きな揺れが襲った。東日本大震災。北陸地方の津波被害が連日報道される一方で、もう1つ大きな事故が発生していた。福島第一原子力発電所における原発事故(炉心溶融)だ。

 

「持ち出したのは、着替えと財布だけ」

 2月16日のゲストは小峰和子さん。震災発生当時、福島県浪江町大堀で「大堀相馬焼き」の窯元をしており、福島第一原発から直線距離で北西に9kmの地域だった。

 3月11日夕方、町役場の避難指示に従い「2~3日分の着替えと財布」だけを持って避難した。「落ち着いたらすぐに家に帰れるだろう」と思って選んだ持ち物だった。

 しかし、その想いはすぐに裏切られる。3月13日昼、消防団で地域を見回っていた息子から「自宅のある地域に防護服を着た人が立っていて『立ち入り禁止』と言われ自宅に帰れない」という連絡を隣町の避難所で聞いた

 

避難での苦労、助かったこと、改善すべき支援…を、誰が伝えるのか?

 大堀→津島→南相馬→白河での避難生活を経て宇都宮での生活を3月16日(5日後)に開始した。助かった支援は「※みなし仮設」だったと小峰さん。

 3年という利用期間の制限はあるものの、生活を立て直すにはありがたかったし、日本赤十字社から電化製品の提供もあったと話していた。デメリットは「一度入居した後に住所の変更ができない」こと。例えば家族の勤務先やこどもが通う学校との距離など「住んでみないとわからないこともあるので、その辺りは少し融通が利くといいな」という。

 でも、よく考えると、こうした改善提案が次の災害で生かされるかは分からない現実とコメント矢野おじさん。

「なぜなら、次の被災者はまだ発生していないし、被災した自治体そのものが初めての災害経験だったりする」とのこと。誰が伝えるかというと「関わった支援者=ボランティアだ」という。〝災害〟を伝えるのは「知ってしまった人=被災者・支援者」の責任が大きいのだと思った。

 「地方銀行のキャッシュカードは地元を離れると対応していない。全国で使えるカードを持っていないと何かあった時にお金を引き出せないのよ」

 取材の中で小峰さんの言葉を聞いた時にハッとした。いつ災害や事故に巻き込まれて避難が必要になるかわからない中で、〝その時〟に対応できるように準備するのは全員には無理だろう。だから「支援した経験、被災した経験を誰かに託す」ことが必要だと思った。

 

「元に戻してくれるなら何もいらない」 

 小峰さんが住んでいた場所は、今も「帰宅困難区域」となっている。特別な許可がなければ立ち入りできない区域だ。

 取材で、震災5年後の荒れ果てた小峰さんの自宅の写真を見せてもらった。何もなかった場所に木が生えて、バラの茎が伸びて窯元の看板を半分以上覆っている写真…。

 その写真の説明をしながら涙ぐむ小峰さん。家の手入れも自由にできない悔しさ…。

 「原発事故さえなければ元の場所に住めたのに。10年経ったと言われても喪失感は当時と全く変わっていない」

 そんな絞り出すような小峰さんの言葉を聞いて、心がえぐり取られるような気持ちになった。東日本大震災・原発事故は何年経っても忘れてはならない、と同時に多くの方に伝えていかなくてならないと強く感じた。(伊東)

 

※みなし仮設:災害で住家を失った被災者に対し、地方公共団体が民間賃貸住宅を借り上げて「仮設住宅に準じるものとみなす制度」。家賃は地方自治体が負担する。東日本大震災では64%(74810戸)がみなし仮設で、プレハブ(48913戸)に代わり主流化したと2021/1/23の内閣府への取材で分かった。