福島・原発避難10年目ラジオ


2021年6月から、新たにはじまった『福島・原発避難10年目ラジオ』。

 

毎月第2日曜、11~12時にミヤラジで放送中です。

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「避難先での暮らしは、生活が再建されているようで、実は心と身体が別々」。まだ終わっていない震災

放送5回目となった10月10日の「次世代に伝える。原発避難10年目ラジオ」これまでは”被災者”をゲストに迎えていたが、今回は “支援者”である山本悦子さんと澤上幸子さんの2人からお話を聞いた。 

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 山本さんは小山市にあるCafe Fujiのオーナー。原発事故後に南相馬市を訪れ、その現状に衝撃を受けたという。これをきっかけに支援活動を始めた。活動は大きく分けて4つ。

 まず、『3.11ふくしまそうまの子どもの描くたいせつな絵展』プロジェクト。相馬市立中村第二小学校の生徒(当時3年生)に描いてもらった絵を小山市内22か所で展示した。中村第二小は山本さんが原発後初めて福島を訪れた小学校だ。2つめは「おはなしとオカリナのしらべ」。オカリナ演奏をB G Mに中村第二小の校長だった佐藤史生さんのお話を聞く講演会だ。3つめは「版画家 蟹江杏さんチャリティー版画展」。最後は「東日本大震災遺児募金への寄付」である。これは、山本さんが経営するギャラリーAiでバザーをし、知人手作の布ぞうりを販売、遺児へのお金を募った。ラジオでは特に『3.11ふくしまそうまの子どもの描くたいせつな絵展』の話を聞いた。

 

被災しなかった人に向けての支援活動

 展示会で得られた効果は2つある。まず、展示された絵を見ることで被災していない人に震災を知ってもらえること。子供が描く絵はとても素直で見た人に真っ直ぐ訴えかけてくる。心動かされる。もう1つは、絵を描くことで子供たちの心に安らぎをもたらすこと。実際に子供たちに描いていた時の気持ちを尋ねてみると、「津波の怖さを伝えたかった」「胸にしまっていた海や津波の絵を描きスッキリした」と、誰かに自分の見たもの・感じたことを伝えたい、吐露したいといった率直な思いがあったという。しかし、いくら子供たちに絵を描いてもらい展示会をしても、被災しなかった人が見向きもしなかったら意味がない。知り、そこで足を運ぶ人がいること。私たちが周囲に関心を持ち、実際に行動する力が求められているのだ。実際に現地へ行けば、山本さんと同じように支援活動を行う人も少なくないはずだ。現地ではない場所からの支援活動は、災害を様々な人に認知してもらうきっかけづくりにもなる。

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 番組の最中、電話でインタビューした澤上幸子さんは北村さんの元同僚。当時双葉町の社会福祉協議会に勤めていた。原発事故後1週間経たずして故郷の愛媛へ避難し、現在はN P O法人「えひめ311」の事務局長だ。活動は「避難者(愛媛県+四国全域)の相談窓口・情報提供」、「避難者の交流の場」、「愛媛特産の柑橘類等の販売や、放射能の心配をせずリフレッシュできるような保養支援」の3つの被災者支援活動である。「避難者の交流の場」に関しては、近年コロナの影響で交流は激減したが、今でも電話、Zoom、手紙などで交流は途絶えないよう活動している。

 

●あえての「何気ない日常的な会話」が、心に安らぎをもたらす

 支援活動で大切にしていることは、『一人一人の心に寄り添い、共に課題を解決していく』という思いである。四国に避難している人自体少ないため、地域に馴染めず孤独を感じてしまう人もいる。そこで、当事者同士でしかできない震災の話だけでなく、何気ない日常会話などを通じて誰も孤立をしないような支援を心がけているという。これを生かし、地元で起きた2018年の西日本豪雨(ダム決壊などの甚大な被害が出た)では、避難所でカフェを開くなどの支援を行った。避難所だと、特に高齢者や子どもは段ボールの仕切りの中だけでの生活となりストレスを感じる。そこで、日中避難所にいる人がカフェでお話やお茶をしたり、マッサージをし合うなど、一息ついたり交流のできる場を作ることができた。このように、被災者が心に安らぎを持つために“交流”の場が要ると考えられたのは、実際の被災経験と、えひめ311で交流の場の必要性を認識していたからだろう。

 しかし、実際に直接被災者支援となると、意外と勇気がいると感じる人も多いのではないか。これを澤上さんに聞くと「被災者と話すことを恐れなくて良い」、という。人によって聞きたくない言葉やトラウマは誰にもわからないし、たとえ傷つけてしまってもそれを糧に学べば良いからである。そして、「被災者を触れてはいけない人のように扱わない」。被災者も一人の人間であり、色眼鏡を通して見られるがおかしいのは当然である。「自分が声をかけてほしい時に声をかけてもらえなかったら…?」と想像すると、距離を置かずに話しかけられる。あとは、いきなり大丈夫?と心配されるより、天気などの何気ない会話から始まる方が居心地良く話すことができるという。被災地は非日常的で、落ち着くことができない環境。だから、震災前の日常会話が日常を取り戻すきっかけになる。

 

●「したい生活がしたい場所でできるようになるまで、復興は続く」

「福島(故郷)に帰っての生活こそが本当の再建であり、したい生活がしたい場所でできるようになるまで復興は続く」と澤上さん。

 避難先での生活は、生活が再建されているようで、実は心と身体が別々であり、まだ生活再建に翻弄されていると言う。震災当時私(=小浜)は小学生で何もできなかったが、今からでも東日本大震災の復興支援をすることは遅くないのかもしれない。今後災害が起きたらどう動くか考えるとともに、被災し今も震災を忘れていない人たちへ自分にできることを何か行動を起こしたい。(小浜)

10/10 がけっぷちラジオ特番「次世代に伝える。原発避難10年目ラジオ」

本日10/10(日)11:00~12:00にて

がけっぷちラジオ特番「次世代に伝える。原発避難10年目ラジオ」

を放送します。

 

今までは東日本大震災の”被災者”をゲストにお呼びして放送していた当番組。第5回目となる今回は、実際に福島を訪れたことをきっかけに支援活動を始めた山本さんをスタジオに迎え、自身が福島で被災した後、避難した先の愛媛で支援活動を行なっている澤上さんと電話を繋ぎます。

 

「日本のどこかで今災害が起こったとしたら、あなたはどんな行動を取ることができますか?」

「本当の復興・生活の再建はまだまだ先?」

東日本大地震後に直ちに行動を起こしたお二人と、コメントおじさんの北村さんと一緒に、第1〜4回とは違った”支援者”の視点から東日本大震災を振り返ります。(コハマ)

 

・ミヤラジ FM77.3

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※スマホ・パソコンから全国どこからでも聞けます。ミヤラジ で検索

※ご意見・感想は放送中にもお待ちしてます。

 

 

 

避難、避難、また避難…。「知的障害者施設ごと避難」の悲惨な事実

◇7人で50人の知的障害者の介助。応援なし、連絡手段な

 

 9/12(日)のみんながけっぷちラジオ特番「次世代に伝える。原発避難者10年目ラジオ」では、当時知的障害者の福祉施設の施設長をしていた石黒さんにお話を伺った。

 震災が起きたとき石黒さんは50人名の利用者がを建物内に避難させていた。ちょうど入浴時間だった。長い時間の揺れで建物内のロッカーは全て倒れ、その後も余震が続いた。施設長である石黒さんとしては「部屋の中にいるべきか、外にいるべきか」を一瞬で判断しないといけない。最終的には農場のビニールハウスに避難。余震はずっと続き、寒いので暗闇のなか食堂に避難し、そのまま施設内で次の日を迎えた。厨房の職員さんが炊き出しを行ってくれたそうだ。交代勤務で、もともと少ない人数(6、7人)で対応していたが、その時施設にいなかった職員を呼ぼうにも、道路の陥没もあり、や停電でそもそも連絡手段が経たれてしまっている中、応援を呼べる状況ではなかった。

「町からの避難指示が出た」。翌日いった避難所には、石黒さんの勤務するが運営する他の施設の利用者も含め、180名を人がいたが、何往復もして、次の2次避難所に車で避難させなければならなかった。道も渋滞していたため、ただ避難所に向かうだけでも6時間、普段の4倍程度の、かかったとのこと。やっと第2次避難を終えたとき、原発が爆発する音が聞こえた。を耳にした。その時は何の音かわからなかったが、後からテレビで映像を見た石黒さんは、「原発は安全だ』、と言われ続け信じてきたが、ここまでの惨状になるとは思わなかった」と言う。っていた。

 

◇40人定員に180人が避難所に。雑魚寝、寝返りも打てない苦しい暮らし

 

 原発の影響で、その後も長らく避難は続く。次に向かったのは地域住民も避難している小学校だった。しかし、自閉症の人はを持つ人たちにとって環境の変化に適応することは簡単ではできない。夜、奇声を発して歩き回る。劣悪な生活環境の中、地域住民からも「迷惑だ、静かにさせろ」など苦情も絶えないかった。石黒さんは「このままこの小学校にはいられない」と、さらに別の避難所に行った。定員40人名の面積の施設だが、そこに180人が住んだ。名を移動がさせた。地域住民に迷惑をかけないための仕方ない選択だった。そこではの施設で石黒さんや利用者の方たちは、雑魚寝をすると歩く場所も無くなり、寝返りも打てなくなるような広さで、日々夜を迎える。薬がなくて利用者の1人が、てんかんの重責発作(てんかん発作が連続して起きること。意識不明や呼吸困難になる)を起こして亡くなってしまったこともあった。避難所の悲惨さが生々しく伝わってくる話である。

 

◇全国からの応援で「千葉・鴨川」に施設ごと避難。命びろいした。

 

 そんな中、毎日新聞社の記者が来訪し避難所の現実を記事にしてくれた。そして記事を見た千葉県鴨川市の医療関係者方が「鴨川青年の家」へのという避難の誘いがあり、所を提案し、石黒さんや利用者の方たちはやっと場所に余裕のある避難所に移ることができた。出来た。

「1つの記事からみんなが救われた」。石黒さんは、「非常な事態だからこそより一層人の温かみを感じることができた出来た」と言う。っていた。

 

「通所・在宅の知的障害者と家族の避難はやってやれなかった」と悔やむ石黒さん。福祉施設の原発避難は、ほとんどの人が全く知らない悲惨な事実であったろう。「鴨川に移らなかったらどうなっていたかわからない」と言う言葉が心に残った。 (たなか) 

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「人目を気にして黙るか、仲間を探すため声を上げるか」―自主避難者のジレンマ

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被災者になった時、「知ってるのと知らないのは雲泥の差!」

ロウソク片手に住民の安否確認

「次世代に伝える 原発避難10年目ラジオ」 2回目。7月11日(日)のゲストは茨城県結城市在住の三浦秀一さん(69歳)。福島第一原発事故発生当時は南相馬市小高区浦尻地区(原発から10.1㎞の漁村)で米農家を営んでいた。

東日本大震災発生の時(2011/3/11  14:46)、三浦さんは銀行にいた。頭をよぎったのは同居の目が見えない母親のこと。すぐに車で自宅に戻ったが、途中の橋が落ちていて迂回を余儀なくされ普段は20分で帰れるところを1時間以上かかりたどり着いた。母は無事だった。

 地域(自治会)で庶務を担当していた三浦さんは住民の名簿を持っていたため近隣住民の安否確認を始めた。20時頃までロウソクを片手に歩き回った。「翌朝8時から(津波の)行方不明者の捜索をしよう」と解散したがそれは叶わなかった。「福島原発で事故が発生した可能性がある」との報せが入ったのだ。

 

●「ガソリン満タンだった」自分は運が良かった

家は、福島第一原発から10.1kmの地点。避難する必要があると判断し、親戚のいる千葉県習志野市に自主避難をした後に、現住所の結城市に落ち着いた。

三浦さんは「自分は運が良かった」と繰り返した。事故発生当時、車のガソリンが満タンだったこと、たまたま放射線汚染が広がった方向とは逆方向に親戚がいたこと、2010年11月に海岸のそばから少し内陸部に引っ越していたこと、などだ。

 

●「いつどんなタイミングで自分が被災者になるかわからない」

 三浦さんに次世代に伝えたいことは何かと尋ねた。「いつどんなタイミングで自分が被災者になるかわからない。何事も詳しく知っておくことが必要だ」との返答だった。このブログを目にした皆さんには「福島第一原子力発電所事故」で検索して欲しい。私も事故の概要は知っていたが事細かには把握していなかった。

 被災者という立場になった時にどのような立ち振る舞いができるか。それは自身にある知識や経験に左右される。今回の取材・放送を通じて、日頃から有事に備えて知識を増やしておくことが大切だと感じた。(伊東)

 

次回の「次世代に伝える原発避難10年目ラジオ」は8月8日(日)11:00~12:00の放送です!お楽しみに!

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